蚊虻牛羊を走らす(上)
悲鳴が聞こえている。それは一時の方向、そして時間帯も、ちょうど一時頃だった。
小さな児童公園で「ちょっとした危害」を加えられている老人が、悲鳴を上げていた。とはいえ「ちょっとした危害」だから大丈夫だろう、わざわざ手を差し伸べる必要もないだろうと僕は三十分もの間、すこし離れたところからその老人の悲鳴を安心して、聞いていられた。
老人はゲートボールに精を出していた。
なるほど老人ならば、何でもない平日の昼間からあんなふうにゲートボールで遊んでいたとしても「ずるい」、「たちが悪い」などと誰かからケチをつけられることは、まずないかもしれない。
しかしながら、それをいうと自分だって例外ではない。僕のような学生も似たようなもので、平日の昼間からこうやって公園で暇を持て余していたとして、誰かに問題視されることなど殆どないのだ。
こんなふうに、平日の昼間からのんびりしていても誰にも見咎められることのない学生や、あそこの老人は、この社会ではわりと特殊な存在だといえるだろう。一瞬、「モラトリアム」という横文字が夥しく寄せ集まり、強靭な壁となり、それが社会的責任という無数の火の矢から自分の身を守ってくれているような、そんな心強さを、僕は静かな公園の中で感じた。
一見、頼りないフォームだが、慣れた手つきでゲートボールの練習に興じている老人の年齢はとうに七十、いや八十は過ぎているように見える。立っているだけでもやっと、というくらいに覚束ない足取りで、肩で息をしているその老人はゲートボールをしながらも「よせ、もうよしてくれ」と弱々しい悲鳴を繰り返していた。
ちなみにその悲鳴は、すべて自分の足下に向けられている。
老人は槌状のスティックで野球の硬球サイズのボールを一つずつ、打つたびに、空いた手でそろそろと足下を払う仕草をしながら、「よせ、もうよしてくれ」と訴えている。見た感じではよく分からないが、声からして老人は男性だと判断できる。
そんな老人の足下には、三十分ほど前から一、二才ほどの園児がいた。
生憎、こちらは男の子なのか、女の子なのか、ここからでは見分けるのが難しい。
通っている幼稚園の制服なのだろう、どう見てもサイズが合っていない大きめの服を着ているところや、大きめの帽子を被っているところがまた、可愛らしいのだが、とにもかくにも三十分前にいきなり現れたその子が「えい、えい」と短い腕で、三十分間、なんと老人の膝をパンチしているのだった。
僕の右手には花壇がありそこにはチューリップが植えられているのだが、園児の背は、花壇の高さを足したチューリップよりも、ぱっと見にはやや低い。いずれにしろ小さくて可愛らしい園児なのだが、しかし老人に立ち向かう姿は精悍で、じつに勇ましい。
力が弱いものが自分より大きなものに立ち向かっている。僕の胸は熱くなっている。
そのような状況で、「よせ、もうよしてくれ」と悲しそうに言いながらときおり膝や腰をさすったりするのだが、老人は、依然としてゲートボールの練習を続けている。膂力の衰えのせいか振られるスティックの動きはやや、ぎこちない。ただし、慣れたタッチで転がっていくボールのほとんどが見事なまでに同一の軌道を描いていく。
打者である老人から十メートルくらい、離れているだろうか、ゴールポールに見立てているのであろうすべり台の脚のなかの一本に、たった今、打たれたボールが三球連続で命中していった。
園児の襲撃を意に介さない、息を呑むプレイである。
◇
田中との待ち合わせのために閑静な住宅街に覆われたこの、児童公園に出向いたわけなのだが、どういうわけか田中が現れる気配はまるでない。
待ち合わせの時間からとうに三十分が過ぎているし、それに遅れるなら遅れるで、電話くらい寄越して欲しいのだが、根っからいい加減な田中はそういうことをしない。
どうでもいいが僕と同じ法学部に在籍している田中は、弁護士を目指している。信じがたいことに「困っている人を助けたい」などという、胡散臭いモットーの下、本人は至極本気になっている。
けれど、僕はといえば「田中みたいな、平気で約束をすっぽかすような人間は弁護士になってはいけない」、と心から思っている。とはいえ、弁護士が公判に無断で欠席、遅刻をし、予定時刻に開廷できないトラブルというのは日常茶飯事らしいのだ。そういうことを、最近になって知った。一カ月ほど前、大学の講義でそんな嘘みたいなことが取り上げられていて、「恪勤なイメージしかなかった弁護士にも、意外といい加減なところがあるんだな」、と、僕は幻滅とも親しみともつかない思いに駆られた。
関係ないがその講義中、僕のほうは黙々とノートを取っていたのだが、その頃、緑とオレンジの半分ずつで髪を染めていた田中は、隣の席で鼾をかいていたと思う。
つまり、納得はいかないが、馬鹿々々しくもなるが、田中のようないい加減な人間でも弁護士としてやっていく素質はあるようだ。認めたくないが、それが悔しくも世間の通例らしい。
公園に到着してかなり時間が経っていた。しつこいようだが三十分以上が経った。
それでも、不思議なことに僕はそれほど退屈していなかった。
説明するまでもなく僕は老人のゲートボールを眺めているだけだった。なんだろう、僕は、ゲートボールに魅力のようなものを感じ始めているのかもしれない。そう思った。老人が打ったボールの行方は、ぴたりと静止するその瞬間まで、誰にも予想が付かない。一直線に進んでいくボールは果たしてすべり台の脚に命中してくれるのか? どうだろうな? と期待を膨らませることに僕は独特の面白みを感じていたのかもしれない。
あれこれ考えていると老人に動きがあった。打ったボールを拾いに行くのだな、と気づく。
早く練習の続きがしたいのだろう、老人はひいひいと喘ぎながらもすべり台のほうへと小走りしだした。「へえ、走れるんだ」、と失礼な感想が口を衝いて出てしまう。
このように、十球くらいのペースで老人は打ち終えたボールを拾いに行く。
が、するとどういうわけかその老人の後を、親鳥を追う雛みたいに園児が付いて行くのだった。それに気付いた老人は、さらに早く小走りしだす。
園児のその、小さな体躯を左右に揺するような走り方には「転んでしまわないだろうか」、「危なっかしいな」、とつい心配にさせられてしまう。とはいえこちら側の心配などなんのその、園児は目いっぱい動く。ぱたぱたと老人を追いかける。そしてやっとのことで追い付いたかと思えば「えい、えい」と舌足らずな声を出しながら、ご老体の膝付近をパンチしだす。
老人は別段、危険を感じて遠くへ逃げ出すという素振りを見せない。それでも『蚊虻牛羊を走らす』という諺は、今まさに僕の目の前で起きていることを言い表しているのではないか、蚊や虻が小さな園児で、その、ちょっぴり血を吸われる程度の、か弱すぎて攻撃ともいえない攻撃を受けながら走っている牛や羊が、老人というわけだ。
小さな園児に攻撃を受け、まさかの下剋上に驚いた老人は、怯み、パニックに陥っている。
そんなことを考えているとなんだか笑いがこみ上げてきた。僕はそれを堪えるのに必死になっている。
散らばったボールをすべて拾い終わった老人が「よせ、もうよしてくれ」と悲鳴を上げながら、たった今、園児を連れて野球でいうところの打席に戻ってきた。
地面にゆっくりとボールを置いた老人は、うろちょろしている園児にスティックが当たらないよう細心の注意を払いつつ、再びゲートボールの練習を始める。
そのような何でもない光景を、僕は公園をぐるりと囲っている金網の適当な位置に凭れて立ちながら、眺めていた。
そうそんな感じで、僕はただ、老人の打ったボールが転がっていく様子をなんとはなしに眺めているだけの筈だった。が、なぜだろうそれが案外に癖になり、不思議と目が離せなくなってくるのだ。かこん、かこん、と響いてくる心地良い音も相俟ってか、僕は転がるボールからなかなか意識を逸らすことができない。
地面を一直線に転がりだすボールの行方を、じっと見守ることに、まさか使命感でも抱いているのかい? と自分自身に訊いてみたくなるくらいに僕は集中していた。
油断している状態というのは何か一つのことに夢中になっているとき、まさに、今の僕のような状態のことである。そういう当たり前にふと気づいたときには、遅かった。
読んでもらえて嬉しいです。