ハルミナ、キレた!
とうとうこうなってしまったか、とハルミナは黒染めの書簡を見詰めた。
ウーラハンに与えられた部屋は窓が開け放たれ、心地よい風が吹き込んでくる。
ウィッサ政庁の中枢に位置する場で、先の戦いで散逸しかけた芸術品や貴重な書籍が所狭しと並べられている。
ハルミナの希望でこうなった。物の価値を知らない野蛮人達に破壊されては困るからだ。現状では、手許に置いておくのが一番安心できる。
破格の待遇だった。ウーラハンはハルミナを信じすぎる所がある。
ハルミナがこう、と言えば大抵の場合望みは叶えられた。その好待遇が今ハルミナを苦境に追い込んでいる訳だが。
「今更と言えば、今更よ」
ハルミナは書簡を掌中で弄びながら自嘲していた。
書簡の出元はハラウル・ベリセス小貴族、クラッセ家。
ハルミナの生家だ。内容は速い話、絶縁状だった。
椅子から立ち上がりかっちりと着込んだ仕事着を脱ぎ捨てる。毛皮帽を一撫で。
大きく息を吐き出した時、ハルミナの目が据わった。
クソ度胸の女、覚悟が決まるのは速い。
扉を開けて護衛に着いているインディケネの亡霊騎兵に問い掛ける。
「ウーラハンはいつ戻られる?」
尋常でない気配を察したのかその狼騎兵はハルミナの目をジッと見詰めた。
「……明日、昼過ぎ」
「では、服の準備をしに行きます。護衛しなさい」
立場とかやってる事の内容とかでハルミナには敵が多い。内外にわんさか居る。
ウィッサが陥落した日からいつ死んでも良いよう覚悟は決めてあったが、まだ死んでやる訳には行かなかった。
――
大体一ヶ月とかそのくらいだろうか。太陽もちょくちょく戻って様子を聞いたりはしていたのだが。
地元で一仕事終えて再びウィッサの地に舞い戻った太陽には沢山の問題が待ち受けていた。
後から後から文武の百官が押し寄せてきて玉座の間は大混雑である。一々外で待たせるのも非効率なので纏めて部屋に引き入れたのだ。
「不敬を承知で、何卒、何卒!」
平伏す年かさの男。ハルミナの下で諸問題に対処していた文官だ。
ウィッサ陥落の日に周辺都市に避難し身を隠していたがハルミナの呼び掛けで舞い戻った男だった。
「戦神よりウーラハンが賜りし黄金、鋳潰させてくださいませ!」
「いや、そんな死にそうな顔で言うなよ。変な理由じゃなけりゃ怒らないから」
「しからば!」
緊張の余り口端から泡を飛ばしながらその官僚は説明した。
戦神が齎した金貨。これは当然だが大陸に流通する貨幣でないので両替レートもクソも無い代物だ。
太陽に理解し切れる話では無かったが、金の含有率やら質の安定性で取り敢えず信用できる貨幣ではあるらしい。保証する側のウーラハン親衛古狼軍は素性がちょっとアレだが。
兎にも角にも大急ぎでレートを決めて流通させたのだが……。
しかしマージナから流れて来た商人がこれを独占し価値をコントロールしようとしているらしかった。
「はーん? プレミア付けて値を吊り上げて、転売しようってんだ」
太陽はそんな風に解釈した。
正確ではないかも知れないが的外れって訳でもないだろう。
「周辺都市にてこの金貨を門の装飾に使った家屋が狼騎兵の襲撃を免れたと言う噂もあり……」
「魔除けか何かかよ」
彼等にとって戦神とウーラハンは民族を滅びから救ってくれた唯一神だ。
「高原起軍の将校達もこぞって金貨を求め、それに武運を祈り、或いは集めた数を競ったりなど。
それがまたマージナ商人を付け上がらせる理由になっておりますれば」
貨幣として機能しておりませぬ。官僚は顔をどす黒くさせながら言った。
「……で、何で独占状態に?」
「…………商人と癒着した役人達が」
「そいつらは?」
「ハルミナ殿が処断されました」
ハルミナは太陽に与えられた輝石の懐剣の許、一部の刑罰執行権までも保持している。
ちゃんちゃら可笑しい有様である。もう誰も捕虜である事なんて覚えちゃいない。
「商人達の方は」
控えていたスーセが進み出て来た。
「マージナとの戦になるかも知れない事柄です。
ウーラハンにご判断頂かなければ」
「不当な方法でウチの財産が持ってかれたって話だろ。
やるしかないぜ、スーセちゃん」
「兵を出します。必ずや吉報をお届けします」
太陽が頷くとスーセは足早に退出した。
「マージナって結構大胆だな。復讐されるとか考えないのか?」
「侮られておりますな、ウーラハン」
目を細めながら答えるのはミンフィスのアーメイ。
「しかしアルハ・ジードはこう言った手合いに容赦しない方だ。
今回の連中がウーラハンの手を煩わせる事は……まぁ二度とありますまい」
「ははっ、あんまりやり過ぎないように伝えてくれよ」
で、だけど。
「ハルミナは? ハルミナが黙ってる筈ない」
室内の空気はハッキリ分かれた。
身を強張らせる文官側。その挙動不審さに首を傾げる武官側だ。
「…………何か訳アリっぽいな。まぁ兎に角、次の問題いってみよう」
太陽は軽い調子で流そうとしたが、それに待ったを掛けたのは他ならぬハルミナだった。
「遅参をお許しください、ウーラハン殿」
「あぁ、ハルミナ……うん?」
扉を開け放って入って来るハルミナ。いつも通りのピンと伸びた背筋。真っ直ぐな視線。
だが、いつもと服が違う。
まっくろくろすけの黒装束。ほんの僅かにあしらわれた花の刺繍。
毛皮帽も今日は被っていない。それにいつもは余り化粧っ毛が無いのだが、今日は念入りに化粧がされている。
――ほぉ
ガウーナが息を漏らし、姿を顕現させる。
太陽はこそこそと耳打ちした。
「ガウ婆? 何かあるのか?」
「ベリセス貴族の死に装束じゃ、ボン」
「えぇ……マジ」
「又聞きの又聞きじゃが……襟周りがスッキリしとるじゃろ。“首を撥ねられても構わん”と言う意味らしい」
そりゃすげぇ。太陽はハルミナをジッと見詰めた。
確かにいつもと迫力が違う。こっち側に来るようになって何度も見たが、殺したり殺されたりする人間の顔付きをしている。……ような気がする。
ハルミナが表情とは裏腹に、何でもないような声音で言う。
「議を中断させてしまいましたか」
「金貨でもめてるんだって?」
「スーセ殿が出て行かれたと言う事は、一戦構えるおつもりで?」
「駄目か?」
「必要な事かと」
ハルミナは静かに歩き出し……彼女の為に用意された上座付近の椅子には座らず、太陽の前に跪いた。
「……何か言いたい事があるんだよな」
「えぇ、まぁ。先に謝っておきます。
このような芝居染みた遣り方で御前に上がった事を」
「格好の事? 死に装束なんだってな。……人払いしなくても良いのか?」
「私は別に構いませんが、ウーラハン殿がどう思われるか。
突っ込んだ話をする気で居ますし、私の首が転がるかも知れません」
太陽にハルミナの首を撥ねるつもりは無い。少なくとも今この場では。
なら良いだろう。
「オーケー…………。先に言っとくけど、誰も口を挟まないでくれ。誰もだ。ガウ婆もだぜ。
よし、ハルミナ、頼む」
ハルミナは立ち上がった。
――
「これから、どうなさるのです」
「どう、ってのは?」
「まず……今のウィッサ含め、一国として成立しつつあるこの地方ですが、大きな問題が山積しております」
が、とハルミナは首を振る。
どうやら今回は迂遠な言い回しで話を作っていくつもりらしい。
「それらは急速に解決に向かっていますね。
ウルフ・マナスの苛烈さ、果断さ。そして官僚達の働きです」
「あぁ、ハルミナ達の、な」
「……これらが縦横無尽に力を振るえた理由は当然幾つもありますが、その中でも大きな物が貴方です、ウーラハン殿」
「うーん?」
「過去、私達官僚は常に歯痒い思いをしておりました。最善と解り切った行動が取れないからです。
既存の権益に対する配慮や面子の問題。政治的暗闘、駆け引き。私達はいつだってそれに振り回されてきた。
数年前、修行中の時はね、思っていましたよ。
『本物の官僚がする事を黙って見てろ。あっという間にこの荒れ果てた国を天上楽土に変えてやる』って。
多少見識を得た今となっては、流石にそんな大口叩けなくなりましたが……それでも似た様な事は思ってます」
「剛毅だなぁ」
「貴方と同じです、ウーラハン。クソ度胸が数少ない取り柄なので」
見詰めあってちょっと笑う。周囲は深く沈黙して二人のやり取りを見守っている。
「貴方は凝り固まって腐敗した既得権益の多くをぶっ壊しました」
「ぶっ壊しましたか」
「はい、ぶっ壊しました。しかもその後はウルフ・マナスを引き入れてそれらの復活を結果的に阻止した。
……まぁそちらはそちらで非常に多くの問題がありましたが。
兎に角、私達が最善の手段を……少なくともそう信じられる手段を取れるようにしてくれたのです」
「別になんも考えちゃいなかったけど、荒療治みたいな感じになったんだな、俺の存在は」
「何事も完全にはなりませんけど、十分に。
正直、私もちょっと楽しかったんですよ。自分が捕虜だと忘れるくらいには」
ですが。
ハルミナは居住まいを正し、太陽は背を伸ばして座り直す。
「今後、が問題です。いつまでも今のやり方を続けられません。所詮間に合わせに過ぎないんですから。
はっきりさせて頂きたい。ウーラハン殿、今後ウィッサをどうされるのか。
貴方の権威も、力も、領土に拠る物ではありません。それらは全て異邦の戦神に保証されている。
恐ろしい力です。その上貴方の故郷は聞いた事も無い異界にあって、この世界に執着する理由を何一つ持たない。
ハラウル・ベリセスへの態度は亡国の王冠の要求と…………今だに信じきれぬ気持ちもありますが、“不死公”なる存在との敵対に終始しており、およそ国と国が行うような交渉は断絶しています」
「難しい言い回しで分かり難くなってきたぞ。いつもみたいに話せよ、ハルミナ。
遠慮なんかするな」
ハルミナは大きく深呼吸した。
「貴方はいつだってこのウィッサを捨てられる。腰掛け程度に思っておられませんか。
ここに住まう人々の事を、使い捨てだと」
そうか、と太陽は得心した。
ハルミナはウィッサ陥落後、文化や民衆の生活の保障に腐心してきた
王様なんて柄じゃない、と心底から思っていた太陽の態度に憤慨しても仕方ない。
「あー、ハルミナ。…………ん」
気付けばハルミナはじっとりと汗を掻いていた。
これは余程覚悟を必要とする発言を、腹の中で温めているらしいぞ。
「そうならそう、とハッキリしてください。暴君なら暴君で、蛮族なら蛮族で諦めがつきます。
気紛れで優しい顔をする人間が私は大嫌いです。
私は短い間ですがウーラハン殿の要求に応えて来ました。貴方が文化と、道徳と、社会的正義を守護してくれると思ったからです。この先もそうであってほしい。……いえ、これではただの願望ですね」
ハルミナは跪いた。懐から以前押し付けられた輝石の懐剣を取り出し、目の前の床に置く。
それから襟元を開いて、ほっそりとした首を差し出す。
気迫がある。殺すなら殺せとその双肩が語っていた。
「次の百年を案じる気のない人間が、玉座に着いてはならないと、私は思います」
沈黙が満ちた。剣呑な気配。
シャムシールに手を掛けようとしたウルフ・マナスも居た。太陽はそれを視線で黙らせた。
「……終わりで良いか、ハルミナ」
「どうぞ。元々私は大して価値の無い捕虜でしたから、覚悟は出来てます」
「イケてるぜ、ハルミナ」
「……ワーオ」
冗談っぽく笑う。額に汗を浮かばせながらハルミナは思った。
興奮して支離滅裂になってしまった感じはするが、言いたい事は言った。気持ちは伝えた。
自分は別段口が上手い訳では無いから、真っ正面から体当たりするしかなかった。
武官どもはいつも自分達が命懸けで戦場に立つ事を自慢するが、文官が命を懸けていない訳では無い。断じて無い。
ぶっ殺されても文句は無かった。出来れば今後のウィッサがよい方向に転がってくれれば良いが。
一方の太陽はガウーナと内緒話。
「(こりゃ拙いわい)」
「(拙いかな)」
「(一応聞いとくが、首を撥ねる気は無いんじゃろ?)」
「(当たり前だろ)」
「(怨みを買うような仕事ばかり押し付けたでな、この娘っ子には敵が多い。
ここまで派手にぶちかましたんじゃ。ボンが殺さんでもどこぞの間抜けが暗殺者を送り込むぞ)」
「(どうすれば良い?)」
「(この娘っ子の後ろ盾は唯一ボンのみ。辣腕を振るえたのは誰もがボンを畏れとるからじゃ。娘っ子への寵愛が揺らぎない事を何かはっきりとした形で周囲に示す必要がある)」
「(寵愛って……まぁ良い。具体的には?)」
「(何でもええんじゃ。以前、輝石の懐剣を持たせたように)」
そういえば以前、剣と言うのは権力の象徴として用いられると聞いた。だから懐剣を作らせた。
兵士は槍を持つが、君主は剣を持つ。細かい部分は忘れた。
太陽は立ち上がって剣に手を掛けた。周囲がどよめく。
ウィッサを支配するにあたって誂えたシャムシールだ。太陽がウルフ・マナスの代名詞であるシャムシールを持つ事は非常に重要だとかでガウーナが大張り切りで作らせた名剣、らしい。
そのガウーナの手解きで太陽もこれの振り方をちょくちょく学んでいる。
最近少しだけ様になって来た感じだ。
ゆっくりと近付いてくる太陽に何を思ったのか、ハルミナは爽やかに笑った。
「ウーラハン殿」
「うん」
「何だか白々しいかも知れませんが……。貴方の傍に居る時は、奇妙に楽しかったですよ」
「おう」
「おさらばです」
「…………いいや、駄目だ」
太陽は鞘を握り、シャムシールをハルミナに差し出した。
事の成り行きを面白そうに見守っていたミンフィスのアーメイも流石に顔色を変える。
「ウーラハン」
「口を挟むなって頼んだじゃねぇか」
いやいや、それ狼の一族の今後にも凄く関わる事だから。
内心そう思っていても、ガラス玉のような目で射竦められては続く言葉が消える。
ハルミナは目を白黒させている。
首を差し出したら、剣を下賜されようとしているのだ。
君主が常に腰に佩いていた権力の象徴を差し出しているのだ。当然ただのプレゼントな訳がない。
「えーと、あー、こういう時は…………ウィッサの功労者ハルミナを、ウーラハン親衛古狼軍の物とする。
必要な役は後々設けるが、ウーラハンは彼女を……そうだな、ガウーナと同格として迎える事を公に発表する」
ぶぼっ
緊張に堪えかねて水を口に含んだ文官がそれを噴き出した。
「(まぁ妥当じゃろ)」
ハルミナが仰け反って尻餅を突いた。
「な……何を仰っているかご自身で理解しておられますか」
「今後どうするかって、これが答えだハルミナ。一年、二年先、俺がまだ生きてるかどうか誰にも分かんねぇけど、長く支配するよ。それがお前の望みなら」
「私にどうしろと言うんです」
「次の百年を俺の代わりに考えてくれ。専門家だろ?」
ハルミナは尻を持ち上げて再度跪く。頭を床に擦り付けるような低さで。
「私程度の者より、適任が居ます。沢山」
「沢山いるかどうかは知らないけど、命懸けで俺に諫言しに来たのはハルミナだけじゃん。
だからこんな事になってんだろ」
言うなればたった一人で一騎討ちしに現れたんだよな。太陽は顎に手をやって考えた。
タイマン張るってのは男の子のロマンの一つなのである。
「ウィッサはハルミナが統治する。文句がある方はウーラハンの執務室までどうぞ。
彼女は俺の代理人になる。彼女の怒りは俺の怒りで、彼女の敵は俺の敵だ」
「後悔するかも知れませんよ」
「言いたい事だけ言って後は知らねぇ、なんて言わないよな?」
「貴方は本当に……」
ハルミナはぐったりと床に伏した。
「わお、わお、わーおです」
太陽は声を張り上げた。
「悪いけど会議は中止! 重要案件は書類で回してくれ! 以上、解散!」
ガウーナは直立不動に押し黙るアーメイを呼んだ。
「おいアーメイ、スーセを呼び戻せ。代わりにお前が兵を率いていけ」
「狼公」
「一族の今後について話がしたい。よいな?」
「……承知した」
――
「そっかー……絶縁状かー……」
ハルミナは突然無茶な事をするタイプの人間ではない。と太陽は思っているので、彼女を問い詰めた。
彼女を追い詰め、焦らせた原因が何かある筈だ。やけっぱちにさせるような何かが。
ハルミナは素直に白状した。
「当然の結果です。敵対国の中枢で娘が働いてるんですから。
クラッセ家は立場を明確にする必要がありました」
「そんなもんかな」
「気にして頂く必要はありません。私事です。
……それに両親にもそこまで憎まれては居ない筈です。
仮にこの戦いが行き着く所まで行ってしまっても、ベリセスが勝てばクラッセ家は残り、ウーラハン殿が勝てば私がクラッセ家になる。
何にせよ血は残る。そういう計算です」
「じゃぁ首を差し出したらダメなんじゃ?」
「それは……そうですね。
ふふっ。私もどうやら鬱憤が溜まっていたようで」
ベッドに寝かされたままハルミナは笑う。流石の彼女も先程の大舞台で消耗したようだ。
これまで礼節と言う物を崩さなかった彼女の新たな一面である。
太陽は椅子にどっかりと腰掛けながら唸った。
「よくねーよな」
「そう……ですね。でも良いも悪いも無いのです」
「家族とのを別れを、こんな紙っぺら一枚で済ますのは寂し過ぎるだろ」
よし、と太陽は頷いた。
「里帰りだ、ハルミナ」
「…………はぁ?」
ハルミナは間の抜けた声を出した。
まさかそう来るとは思わなかった。




