父と子
最初、西への旅は困難に思われた。
狼を操る蛮族に制圧されたウィッサ方面は亡霊の兵士達が彷徨うと聞いていたからだ。
蛮族達の自慢である狼の騎兵。これは快速で鼻が利き、しかも執念深い。
彼等は一度敵を見付ければ地の果てまでも追い詰める。決して妥協はしない。
その上亡霊達にまで追われるとなればオロクの駄馬では逃げようが無いだろう。
「お前がオロクだな」
しかしそうはならなかった。
パササ西の隘路、アリューザの谷。息子クラースの遺体が発見されたそこを越えて最初の村に辿り着いた時、狼騎兵の一団がオロクを待ち構えていた。
「……戦神の使いか」
「それは正確ではない」
オロクも彼等の事は聞いた事があった。
金糸で彩られた白の戦装束。銀の装具。鍛え上げられた伝説の狼騎兵。
狼公直卒の登録長老集団。白い野花同胞団だ。
登録長老とは実際に権力を持つ事は無いが、狼公の教育を受け、諸族のジード達と同格として敬われると言う。
「我らは狼公よりの使者」
「……狼公ガウーナ」
蘇った蛮族の大長老だ。ベリセスの名将ドニ・スチェカータと相打ちになったと聞いていたが……
結局、全てのベリセス人にとっての怨敵であるガウーナは地獄の底より舞い戻った。
ドニ将軍が生きていた事がせめてもの慰めである。
「オロクよ、アスロンへと案内してやる。最早この地はベリセスの物ではない。
ベリセスの戦士であるお前が自由に歩くのは難しいからな」
「……まさか人生で、狼騎兵と同道する日が来ようとは」
「早く慣れろ。恐らく我らは……」
その登録長老は意味ありげに笑う。
「いや、無駄話をする為に遣わされた訳では無かった。
私の後ろに乗れ。馬とは比べ物にならん程揺れるぞ、腿を上手く使え」
オロクの馬は蛮族達の駆る巨大な狼に怯え切って使い物にならない。
仕方なく馬を村に預け、オロクは申し出て来た狼騎兵の後ろに跨った。
驚く程の早さだった。
確かに狼騎兵が悪路を苦も無く行軍する事は知っていた。しかしそれでも白い野花同胞団の見せた行軍速度は常軌を逸していた。
彼等は厳しく訓練されたベリセスの騎手が三日必要とする道を、たった一日で駆け抜ける。
アスロンはそれこそあっという間だった。
「降りろ、オロク。ここからは己の足で行くがよい」
言われるままオロクは狼から降りた。その登録長老の言う通り狼の背は馬とは比べ物にならない揺れ方で、オロクの太腿は既にこれ以上ない程こわばってしまっている。
激しく膝が痛んだ。
オロクと同様に同胞団の者達も狼から降りる。
一人が叫ぶ。
「開門!」
アスロンの巨大な門がゆっくりと開いて行く。
少し前、ベリセスの将ジギルギウスがこの街を戦いの為の拠点に改造したと風の噂に聞いた。
解体途中の防衛兵器、増設された出城。アスロンには戦いの名残がある。
「……これは」
オロクは目を剥いた。門の向こう側、街並みが広がっている。
そこに戦士達が連なっていた。ふてぶてしい面構えで、オロクの事を値踏みしているように見えた。
ウルフ・マナスも、ベリセス人も居る。明らかに人種の違う者も。
蛮族、ハラウル人、異教徒、それらが自然体で。不思議な光景だ。
「こいつらは全て死者なのか」
「その通りだ」
登録長老は歩き出す。オロクもその背に続く。
連なる戦士達は道を作り出し、それはアスロンの政庁へと向かっているようだった。
「偉大なるウーラハンが我らを導いてくださった。
あの方がそうあれかしと望まれるのであれば我らにはウルフ・マナスもハラウル人もない。
ただ只管に、あの方の為の狼騎兵である」
義務感で言っているようには見えなかった。彼はウーラハンに敬意を払っている。
「(……長く争い続けて来た俺達が? そんな事が有り得るのか?)」
道が途中で途切れた。アスロンの街の大体中央と思われる位置だ。
「む」
よく日に焼けた小麦色の肌のウルフ・マナスがそこに待ち受けている。オロクは目を細めた。
奴は双剣に手を這わせ、目を閉じている。物静かな立ち姿だが、しかし殺気を感じる。
「奴から戦意が漏れ出ている」
「剣士ソル、ウーラハンの寵臣だ。お前を試す役目を負っている」
「試す?」
「言葉通りの意味だ。……武器を持て。戦いの準備をしろ」
オロクは暫くそのウルフ・マナスの剣士を観察した。
ソルと呼ばれた彼はジッとオロクを待っている。
「……剣闘士の真似事をさせる為に俺をここまで呼びつけたのか?」
周囲で見守る亡霊の戦士達は興味津々と言った感じだ。
オロクの不満げな言葉に、ソルは眉一つ動かさないまま答えた。
「炎の戦神直々の命令だ」
「この期に及んで酔狂に付き合わねばならないとは」
「不満ならこのまま帰るが良い。我が主には俺から説明しておく。
…………“取るに足らぬ男だった”と」
オロクは背の戦斧に手をやった。今更帰れはしない。
――
剣士ソルは相当に鍛え抜かれていた。
ウルフ・マナスで恐ろしいのは狼騎兵だけではない。この蛮族達は狼から降りたとしても強敵である。
彼等は身軽さを重視する為、守勢にこそ向かないが、対歩兵の戦闘訓練を入念に積んでいると聞く。
ソルの戦いぶりは正にウルフ・マナスの風評に違わぬ物だった。
「大した手管だ」
懐に潜りこんでくるソルを体当たりで後退させる。
オロクを試す、と言っていたがとてもそんな風には見えない。
殺す気で双剣を振っている。
「…………かっ」
小さな呼気と共に跳ね上がる双剣の切先。
オロクは片方を籠手、片方を肩当てでいなした。
踏み込んだ足を戦斧で掬い上げようとするが、ソルの方が尚早い。
頭突き。互いの額が割れ、血が飛び散る。
「ぬあぁッ!」
「シャァッ!」
舞うようにソルは跳び、オロクは全身の筋肉を捩らせた。
袈裟懸けに戦斧を振り下ろす。真向から打ち合うソルの双剣。
片方のシャムシールがオロクの力に堪えかね半ばから折れ飛んだ。
「柔い物だ」
「ふん……」
ソルは折れたシャムシールを暫し眺めた跡、鞘に納めた。
同時に彼は先程までの激しい闘志を霧散させる。
「充分だ。文句は無い」
素気ない様子で歩いて行くソル。
アスロンの民らしき少女がソルに布きれを差し出した。
額を拭い、そのまま頭に巻き付ける。布切れにじわじわと血の染みが広がっていく。
「敬意を示せ、親衛古狼軍!」
ソルの号令。戦いを見守っていた亡霊の戦士達が一斉に得物を抜き、天に掲げた。
鋼が陽光に鈍く輝き、さながら刃の道とでも言う物が生まれる。
「ウーラハンが御待ちだ」
「勝手な奴だ」
「ふ、すまんな」
ソルの先導に従い、オロクは先へと進んだ。
――
そこは政庁の広間だった。全ての者が跪き、たった一人の男の言葉を待っている。
シン、と静まり返っている。椅子も何もなく、少しばかり埃で汚れた絨毯の上にどっかりと座り込んだ男。
頬杖を突き、目を閉じている。眠っているようにも見える。
「連れて参りました」
ソルが恭しく述べれば男が目を開いた。
「おっ、ソル」
男が親しげにソルを呼ぶ。唐突にその隣の空間が歪み、火の粉が舞った。
炎の尾を引いて何もない空中から黒髪の女が飛び出して来た。
見るだけで伝わる猛烈な威圧感。只者ではない。
「なんじゃソル、デコを割られておるじゃないか。やられたのぅ」
「油断も手加減もしなかった。だから言い訳もしない。
ウーラハン、手練です」
「へぇ」
感心したように息を漏らす男。
この男がウーラハンなのか。オロクは珍妙な物を見た気分になった。
「どうぞこっちへ」
そう言って自らの眼前を差す。
亡霊どもを従える狼達の大君主でありながら、妙に阿った言い方だった。
花の刺繍が施された鮮烈な赤の衣。フード付きで、腰から下にスリットが入っている。
エクリマのテンプルナイトが鎧の上に纏うローブに似ているが……どちらかと言えば砂漠の民が使う装束に近い。
ウーラハンはフードを取り払い、にっこりと人懐っこい笑みを浮かべた。
「オロクの旦那」
「旦那?」
「戦神の兄貴から聞いてやす。“良い男”だと」
兄貴? オロクは疑問符を浮かべながらウーラハンの目の前にどっかりと座り込んだ。
「息子さんの死に際を知るためにここまでいらっしゃったとか」
「……そうだ」
「ここまでお疲れでしょう。呑みやすか?」
そう言ってウーラハンはぷっくりと頭と尻の膨らんだ奇妙な形の筒を差し出してくる。
「酒ならば遠慮する」
「ジュースでさぁ。酒じゃない。……果実を絞った奴、なのかなぁ」
「……では頂こう」
「どうぞぐぐーっと」
勧められるまま口を付ける。それは林檎の味がした。
途端に身体が熱くなり、オロクは筒を取り落とした。慌てた様子でウーラハンがそれを拾い上げる。
「これは?」
全身をじわじわと覆う熱。不快な物ではなかった。
冷えた手足、痛めた節々、特に膝など。
長年の酷使によって恒常的に悲鳴を上げていたオロクの身体が癒されていく。
「何だ? 何か変なモンでも入ってやしたか?」
否定する前にウーラハンは筒に口を付けていた。
一含み、口の中で確認するように転がして呑みこむ。
「うん、今日もうめぇなぁ! 特に変な事は無いみたいだけど」
「…………ウーラハン殿、少し気さく過ぎるのではないか」
「えぇ? ……あー成程、そんなん、ジュース回し飲みするくらいの事一々気にしやせんぜ」
からから笑うこの若者の頭の中には、立場や地位の違い等と言う事柄への配慮は毛ほども無いようだった。
「いや、逆に力関係をハッキリさせてやすぜ」
「つまり?」
「相手が偉くて、俺に礼儀正しくしろと言うならそうしやしょう。
でも俺が偉くて、相手が礼儀正しくしろと言っても俺はしやせん。
何故なら俺の方が偉いから。ね?」
ぱち、と悪戯っぽく片目を閉じる。何が『ね?』なのかオロクには少しも理解できない。
だが、その振舞いに思わず笑ってしまった。まるで市井の酒場でくだを巻いているような気分だった。
「さて……あんまり無駄話しても何だし、本題に入りやしょう。
戦神の兄貴から手筈は聞いておりやす。……息子さんの小指をお借りしたく」
オロクは胸元の小瓶を強く握り、暫し迷った後、ウーラハンに差し出す。
ウーラハンは古い書物を開いていた。彼が小指を手に取った瞬間、そのページから火の粉が溢れ出す。
「この小指が教えてくれる」
書の放つ炎の眩さに思わず目を閉じ、再び開いた時には世界は一変していた。
――
世界は薄暗闇に包まれていた。音と言う音は消え去り、酷く不気味だった。
「ここは何処だ?」
目の前のウーラハンに問い掛ける。
先程まではアスロンの政庁広間に居た。そして今もアスロンの政庁広間に居る。
しかし様子が明らかに可笑しかった。周囲には幾つかの死体が転がっていて、それを見下ろす様に異国のローブを纏った小柄な影が立っている。
そしてその目の前に
「これは……クラース」
ローブの人物とその目の前で膝を突くクラース。誰も微動だにしない。止まった時の中で動く者はウーラハンとオロクのみだった。
「息子さんが死んだその瞬間でやすね」
「このフードの奴が俺の息子を?」
「状況を見る限りでは」
見ればクラースは酷く傷付き脇腹から激しく出血しているようだった。
彼はそれでも挑みかかる様にしてローブの人物を見上げている。
「……はー成程ね。小指の骨が……クラースが言ってる」
「どういう事だ。息子と話せるのか?」
オロクは知らず知らずのうちに拳を握っていた。とても冷静では居られなかった。
「ちょっとコレ、持っててくだせぇ」
そう言いながらウーラハンはタリズマンを差し出してきた。古い銀細工だ。
言い知れぬ力を感じる。ただの装飾品ではない様に見える。
オロクがそれを受け取ると、ウーラハンは小瓶を胸に当てて目を瞑った。
「オロクの旦那、クラースは……不死公の計画の一端を偶然知ってしまったんだ」
「不死公の計画だと? ……クラースは口封じの為に?」
「そうなりやす。何の為かは兎も角、不死公が戦死者の遺体を攫っている事にクラースは気付いた」
ウーラハンは大きく息を吐いた。彼の額に汗が浮いている事にオロクは気付く。
「……どうした?」
「どうも。……旦那、ちょっと戻しやしょう」
彼が目録を掲げると視界が暗転する。
次に気付いた時には牢らしき所に居た。アスロンの牢か。
「こっちでさ」
ウーラハンが奥から三番目の牢の前に立っている。
中には襤褸切れを着せられたクラースが居た。先程とは違い傷こそ負っていないが酷く消耗しているように見えた。
「DVDみてぇだなコレ」
「なんだそれは」
「また今度話しやす。……それよりクラースは……」
止まった時の中で、彼は切なそうにクラースを見た。
「牢に入れられたクラースは脱出の機会を待った。
それはつまり、俺達がこのアスロンを攻めた日だ」
「……息子は戦ったのだな」
「確かめやしょう」
ウーラハンが再び書を掲げる。
そこから放たれる炎が世界の薄暗闇を払い、色を取り戻した。
途端に止まっていた時が動き出す。
オロクの見詰める先でクラースが叫んだ。妙にくぐもって聞こえた。
『牢番! 聞こえているのか! 出せ!』
「クラース」
『牢番! ウルフ・マナスが来ているんだろう! 俺をここから出せ!』
「クラース、聞こえないのか!」
ウーラハンが無情に告げる。
「過去です、旦那。過去は変えられやせん」
オロクは歯を食い縛った。
『若造め、手間ぁ掛けさせやがるぜ』
『セルバ、来てくれたのか』
『お前の話を信じた訳じゃ無い! だが明らかに奴は……あのシャルラとか言う女は様子がおかしい』
オロクが震えを堪えている内にも事態は進む。
クラースの仲間らしき男が牢に現れ、鍵を開けたのだ。
『どうやって鍵を?』
『ガキが知る必要はねぇよ』
へ、と笑うセルバ。唐突に何者かが彼に突進した。
『なんだクソぁ!』
抵抗も出来ずに押し倒されるセルバ。
それをした人物は明らかに尋常の様子ではない。
青褪めた肌。真赤な目。獣のように唸り、己の胸を掻き毟っている。
ウーラハンがぽつりと呟く。
「なんだこりゃ、ゾンビか?」
「……こうなった者を見た事が有る」
「え?」
「息子もこんな風に……正気を失い、俺達に襲い掛かったのだ」
声を震わせるオロクにウーラハンは何も言えないようだった。
『セルバ、クソ!』
『あぁ! ひあぁ!』
『離せ、この化け物め!』
怪物はセルバの喉首に食らい付いた。血が噴出する。
クラースは引き剥がそうとするが怪力にはね飛ばされ壁に激突した。
すぐさま立ち上がり再びセルバを助けに向かうが、その時には彼はもう絶命していた。
『……すまない、セルバ!』
怪物が狙いを新たにクラースへと飛び掛かる。
二人は激しく揉み合い、その最中にクラースは脇腹を食い千切られた。
政庁広間で見られた出血はこれか!
オロクは目の前の光景に堪えかね、戦斧を振り被って突進した。
しかし、オロクの振り下ろした戦斧は空を切る。確かに怪物の頭を叩き割る筈だったのに。
「旦那、無理です。無理なんです」
「俺の息子だぞ!」
オロクは叫んだ。再び戦斧を振るうが、結果は変わらなかった。
オロクの見ている前でクラースは傷だらけになっていく。残酷な光景をただ見ている事しかできないのか。
「息子なんだ! 俺の……俺とアーリラの……」
何度やってもダメだった。それでも諦め切れずにオロクは戦斧を振った。
涙が溢れた。どうしようもなかった。
「俺はコイツの為に、何もしてやれなかった!」
クラースの父として、俺は何か一つでも与えてやったか?
戦いにかまけて家に戻らず、アルマキア人どもに故郷を焼かれ、残った土地は良い様に奪い取られた。
情けない姿ばかりを見せた。これで父と言えるか?
俺は何なのだ。
とうとうオロクは戦斧を取り落とした。
「見届けなせぇ」
ウーラハンは言う。彼は瞬きもせずにクラースの戦いを見詰めている。
激しく痛め付けられていたクラースだが、ふとした拍子に形勢が逆転した。
劣勢に追い込まれながらも冷静に相手の体捌きを見定め、好機と見るや足元を掬ったのだ。
クラースは残された力を振り絞り、怪物の首を圧し折る。
赤い目の化け物はそれで動かなくなった。
「よくやった……!」
思わずオロクは称賛する。クラースは全身血塗れになりながら這って進み、セルバの死体から剣を取った。
『セルバ、借りるぞ……!』
クラースは傷の状態を確かめるとふらふら歩き出す。
「こんなになってもまだ、戦う事を選んだ」
ウーラハンの声が遠い。オロクはクラースの後を追う。
再び赤い目の怪物が現れた。元はベリセスの兵士だったであろう魔物が。
無手では苦戦したが今はそうではない。幼き頃よりオロクに鍛えられた剣技は忽ち怪物の頭蓋を叩き割る。
壁を支えにしながら再び進む。
『父さん、アストリド、俺を守ってくれ』
「クラース」
クラースが熱に浮かされたように父と姉の名を呟く。
獄中で消耗し切った身体。今や全身に傷を負い、足元もおぼつかない。
特に脇腹は食い破られ、危険な程に出血しているのだ。まだ戦える事が既に奇跡だ。
アスロンは混乱に見舞われているようだった。城門の方で煙が上がっている。
鬨の声が聞こえる。親衛古狼軍と新高原起軍によって攻城戦が行われていた。
しかしそれを抜きにしても人気が無い。見掛けるのは魔物ばかり。
クラースは更に二体の怪物を討ち取り、やっとの思いで政庁広間に辿り着く。
そうだ。彼の最後の場へと。
『シャルラぁ!』
『おや、クラース』
『シャルラ、最早逃がしはしない!』
こいつがシャルラ。オロクはその姿を目に焼き付ける。
異国のローブとマント。それに古ぼけた銀の装飾を幾つも下げている。
よく見ればマントには何かの呪文がびっしりと書き込まれている。怪しい等と言う言葉では到底言い表せない。
それになにより、この血のような色をした邪悪な目。
『無駄に苦しむ事も無いだろうに。じっとしておれよ、クラース』
『舐めるな毒婦!』
力を振り絞って走るクラース。
シャルラは手を一振り。羽虫を払うような仕草だ。
その手の一振りで巻き起こった黒い風がクラースの身体を吹き飛ばした。
地面に叩き付けられ、脇腹の痛みに悶絶するクラース。
『クラース、お前の事、嫌いではなかった。だから痛め付けたくない』
『……虫唾が……走る……ッ!』
再びシャルラが手を振る。身を起こそうとしていたクラースが無理矢理這い蹲らされる。
クラースの破れた腹から腸が飛び出す。オロクは絶叫する。
「お前は、良く戦った!」
オロクは止めどなく涙を流しながら言った。
『傷ついた身体で一体何が出来る? このシャルラを殺せるのか? エクリマの神々ですら不可能なのに?
何故そうまでして、立ち上がるのか』
心底不思議そうな声音でシャルラは尋ねる。
「……打ちのめされ、疲れ果て、戦いを諦める事も出来た。誰も咎めはしなかった」
オロクは膝を震わせながら立ち上がるクラースを見詰める。
――息子よ、お前は、倒れ伏す事も出来たのに。
クラースは、微塵の後悔も無いまま、シャルラに答えた。
『……俺はベイロンの男だ! 戦士オロクの息子だぞ!』
零れた腸も構わず走り出す。既に痛覚も麻痺しているのか。
『シャルラ!』
『クラース!』
シャルラがまたもや腕を振る。先程までとは違う眩い雷がほとばしり、クラースを貫く。
そして今度こそ、そう、今度こそ彼の命を刈り取った。彼は目を見開いたまま力なく倒れた。
シャルラはクラースの遺体の傍に立つと、どこかぼんやりしながら言った。
『お前の魂は不死公の許へと連れて行く。
二度も機会は与えたんだ。悔め、クラース』
これが全てだ。
ウーラハンがそういうと、このまやかしの世界が砕け始めた。
ガラスが割れるように世界が割れ、後には暗闇だけが残される。
オロクは腰砕けになって膝を突く。
「息子は…………戦いを選んだ」
「死者を辱める不死公やその走狗を許してはおけなかった」
「こんな事を……神は許しておかれるのか。こんな……俺の息子は……」
「伝えなければならない事が」
ウーラハンがオロクの前に立ち、手を差し出してくる。
顔つきが先程までと違う。彼が左手に持つ小瓶が微かに光っている。
「本当は、あんな事言うつもりじゃなかった」
「……何だ……何の事だ?」
「悔しくて、やるせなくて、心にもない事を言ってしまった。後悔しているんだ。
本当は誰よりも知っていたのに」
「何が言いたいのだ、ウーラハン」
「父さんは臆病者なんかじゃない」
息が出来なくなった。オロクは今日初めて会ったこの若者の顔を信じられない気持ちで見詰めた。
「クラースなのか……?」
「知っていた。俺やアストリドが重荷になっていた事を。
母さんが病でカローナの御許に旅立った時も、俺は結局父さんの力になれなかった」
「違う」
そんな風に思った事は一度もなかった。
「俺が一人前の男だったら……と。だから本当は、父さんの剣を受け継いだ時、嬉しかったんだ
あの時は憎まれ口を叩いてしまったけど、本物の男になれたと思った」
「聞いてくれクラース。お前達を重荷に思う筈がない」
「……そうか。安心した」
オロクはウーラハンの……クラースの手を取って立ち上がった。
頭一つ分背丈の違う彼。身体の屈強さは随分と違うが、瞳の輝きが全く同じだ。
「もう一つ、ずっと伝えたい事があった」
「なんだ」
「父さんは俺の誇りだ」
ウーラハンの懐の書が唐突に震え出す。
火の粉を撒き散らし、暗闇を照らす。
それが世界を埋め尽くし、オロクは目を閉じた。
――
ウーラハンは夥しい汗を掻きながら荒い息を吐いていた。
「ウーラハン!」
「御主君! どうなされたのじゃ! 何があった!」
「いや、大丈夫……! ふー、問題無い、オッケーだ」
額の汗を拭い、ウーラハンは立ち尽くすオロクに向き直った。
「……戻って来たのか、俺達は」
「そのようで」
「アレは……現実の出来事なのか?」
「俺には何とも。……でも、俺は確かにクラースの声を聞いた。……と思いやす」
「クラースの魂は」
「シャルラとか言う奴の言葉を信じるなら、不死公に奪われたんでしょう。
旦那に語り掛けたのは、小指の骨に残されたクラースのひとかけら」
語り合う二人に周囲の者達は疑問符を浮かべている。
「お前達の神は不死公と敵対しているのだな」
「その通り。……旦那はどうしやす」
「分かり切った事だ」
不死公への報復は、最早オロクの義務だった。
「俺の魂を、炎の戦神に捧げる。
俺の身体は最早満足に動かん。だがお前達は死者を全盛期の姿で使役すると聞く。
俺に機会を与えてくれ。戦いと報復の機会を。
何も恐れぬ。何も惜しまぬ事を誓う。
不死公を、必ずや滅ぼさん」
オロクはウーラハンに跪く。最敬礼だった。
「分かったぜオロク。もう他人事じゃねぇ。
俺と行こう」
ウーラハンはそれを受け入れた。




