隻眼のオロク
薄汚れた麻布に包まれて、ボロボロの荷馬車に積まれ、
清められる事も無かったのか所々に血痕と泥がこびり付き、傷口には蛆がたかり、
そうして息子は帰って来た。朝露が屋根を濡らす美しい朝に。
若草が揺れていた。それを踏み躙る様にして轍が刻まれていた。
目は開かれたままだった。神も、人も、この若者に安らかな眠りを与える事は無かった。死者だと言うのに。
家を発つ時着けていた首飾りや、母からの贈り物である指輪が無い。
戦場跡で死体を漁る者達に奪われたのか。許し難いのは頭髪までもバッサリと切り落とされていた事だ
いずれ何処かの傭兵が、或いは貴族が、息子の美しい金髪を用いた飾りで兜を彩り、得意満面で戦場に出るのだろう。
それを想像してオロクは叫んだ。彼の絶叫に家畜小屋の山羊達が暴れ出した。
「――これが国の為に戦った俺の息子への敬意か?! こんな物が!」
荷馬車にはまだ幾つかの遺体が積まれている。どれも蠅が集り、とてもまともな処理が施されているとは思えない。
オロクは御者に掴み掛り、御者は気狂いを見るような目でオロクを見た。
首にはエクリマの神カローナの聖印がぶら下がっている。たわわに実る稲穂の印だ。
カローナに仕える信徒でありながら、この男は遺体を清める事すらしないのか。目を閉じさせてやる事すらも。
「八つ当たりは止してくれ」
オロクはそう吐き捨てた御者を引きずり下ろし地面に押し倒した。
殺すのは簡単でも問題が多い。様々な事が頭の中に浮かんだが、怒りはそれらを全て押し流していった。
異常を察したオロクの娘、アストリドが家から飛び出してくる。
彼女は一目で状況を察した。
「止めて!」
オロクは暫く御者を睨み付けていた。今にもその喉首に食らい付きそうな目付きで。
「止めて、父さん。……それよりもクラースを」
オロクは腰の作業ナイフを引き抜いて、唸り声と共に振り上げる。
恐怖に引き攣る御者の顔の横に突き立て、後は見向きもしなかった。
オロクは息子の遺体を抱き上げ、家へと向かった。
――
隻眼のオロク
――
オロクは、恵まれていた。広大で肥沃な農地と牧場が彼の故郷だったからだ。
名の知れた豪農ベイロン家に生まれた。いつも周囲には卑しい笑みを浮かべる下女や街での生活に馴染めなかったごろつき紛いの奉公人達が居て、オロクは何の不自由も無く我儘に育った。
早熟で、優れた体格を持っていた。腕力で何でも解決できた。頭の回転も悪くなく、父の仕事もあっという間に覚えた。
時折現れる賊や、傭兵団なのか強盗団なのか区別がつかないような連中を殺すのは、オロクの仕事だ。
傷を負う事はあったが仕事をしくじる事は無かった。
自分が誇らしかった。家族や財産である畑、家畜、奉公人達を守る使命が。
古びた家畜舎や風雨で痛んだ家屋。揺れる黄金の麦穂に、開拓途中である木材の切り出し場。
そこで頻りに羊皮紙を確認しながら歩き回る父と、家で内向きの仕事を取り仕切る母。ちょっとサボり癖のある奉公人達と、きゃらきゃらと黄色い声で話すのが大好きな年頃の下女達。
幼い頃から共に育った牧羊犬と、オロクが現れると鼻を擦り寄せてくる農耕馬達。
自分がこれらを守っている。自分は立派な、一人前の男だと思った。
だからベリセス先王クーゲルカが東国へ送り出す援軍として兵を募った時、それに志願した。二十一歳の時だ。
自分に出来ない事は無いと思った。ベリセスの男の義務を果たさなければならないとも。
オロクの祖国は五ヵ国の連盟国家である大ハラウルの、ベリセス王国だった。
平原が多く人の行き来が盛んで、それらは富と同時に疫病や悪党どもを齎した。
西には狼を操る蛮族達、ウルフ・マナスとの戦い。東には昔の大戦で仲違いしたハラウル・ルールクとの暗闘を抱えており、決して完璧な国家ではなかったがそれでもオロクの祖国だ。
東での戦役に二年従軍し、左目と引き換えに多くの戦功を得た。
隻眼ゆえの距離感の喪失はオロクをこれ以上ないほど戸惑わせたが、それすらも克服した。
先王クーゲルカより直々に賜った財宝を荷馬車に詰め込み、オロクは意気揚々と故郷に帰った。
父はオロクの事を、「私の誇りだ」と言ってくれた。
長く美しい金の髪を持つ豪商の娘、アーリラを娶り、子を成した。
だが戦いに赴くのは止めなかった。
東国ハラウル・アマウーディスに再び援軍として向かい、強敵アルハニ帝国と。
南部大山脈に根付く屈強な蛮族、アルマキア人と。
闇に葬られた歴史に残らぬ戦いではあるが、同じ大ハラウル加盟国であるルールクの戦士とも戦った。
当時は停戦状態にあったが、西のウルフ・マナスとだって互角に戦えた筈だ。
全てに勝った訳ではないが、少なくとも生き延びた。
『隻眼のオロク』
その異名で呼ばれ始めた時、オロクは興奮した。
彼がこれまで従軍した戦いで出会った本物の戦士達の仲間入りをしたのだと思った。
そして、故郷は焼け野原になった。もう十年以上も前の事になる。
南部アルマキア人の大蜂起はベリセスの男達を戦いに駆り立て、捨て身の攻撃を行わせた。当然のようにオロクもこれに参加していた。
故郷はアルマキア人の領域に程近く、戦いに巻き込まれた。人も、物も、財産と呼べる物は大よそ焼け落ちた。
残ったのは何もなくなった土地とアーリラ達家族だけ。
ベリセス王家はオロクにこの焼け野原を再建する能力が無いと分かるや、商人達と談合してこれを買い叩いた。
まるでパイの取り合いだった。オロクにははした金だけが残された。
――忠誠と、左目と、流血を捧げたのに。
それはオロクを失望させるのに十分だった。
そして今、ベリセスはオロクの子の死すらも侮辱した。
――
息子クラースの身体を清め整え、オロクは豊穣神カローナに祈る為のささやかな祭壇を作った。
家畜舎の隣に予めそういった祭儀を行う為の小屋を設けてあった。みすぼらしくはあったが、オロクがカローナに敬意を払う証だ。
パンと一欠けらの岩塩。カローナが額に持つと言われる三つの目と同数の、金貨三枚。
そして葡萄酒。それらを祭壇に捧げ、オロクはクラースの遺体をその前に横たわらせた。
一頻り祈り終えて外に出れば既に夕暮れ。地平線に溶ける太陽を背負い、遠方から一騎、早掛けで向かってくるの者が見える。
薄汚れたクロークで風から身を守るその騎兵には見覚えがあった。
「オロク、中々会いに来る事が出来ず、済まない」
「ケイルス、息子の訃報を聞いて駆けつけてくれたのか」
くすんだ金髪だが禿げ上がった頭頂部。威厳たっぷりに蓄えられた髭。
肉体は分厚いが、それでも若き頃より大分衰えた様子がある。
二十年前、東でアルハニ帝国と戦った時に知遇を得て、それ以来の友人だ。
今はベリセス軍百人長の地位にある。息子クラースも、彼の指揮下で戦ったことがある筈だ。
久方ぶりに会うケイルスは顔色が悪いように見えた。
彼は馬から降りると周囲を見回し、低い声でオロクに尋ねる。
「……クラースの遺体は戻って来たのだな?」
尋常でない様子だった。オロクはその様子にしばし沈黙したが、素直に答える事にした。
「あぁ、カローナの祭壇の元に寝かせてある」
「そうか、それは良かった。……あぁ、いや、良くは無いのだが」
「ケイルス、どうしたんだ。何か問題が?」
ケイルスは禿げ上がった頭を掻いた。表情から苦渋が見て取れる。
「……ウルフ・マナスとの戦いはお前も聞いていると思う」
「あぁ。苦しい戦況だそうだな」
「その戦いでの戦死者達の遺体が、故郷に戻っていないのだ」
「どういう事だ? ……いや、立ち話もなんだ、中へ入ってくれ」
「……そうだな、クラースの遺体に会う前に、お前に話しておくのも良いだろう」
くたびれた家にケイルスを招けば中に居たアストリドが眉を開いた。
クラースの死で沈んでいた所だ。家族ぐるみの付き合いだったケイルスに再開出来たのは、彼女にとっても嬉しい事だった。
アストリドは山羊の乳とワインボトルを持ってくる。ベリセス南部では、酒を呑む前にミルクを一杯呑むのが通例となっている。
「ありがとうアストリド。……だが、席を外していてくれ」
ケイルスはアストリドに感謝を述べながらも言った。
「……それで、戦死者達がなんだと?」
「言った通りだ。ウィッサ方面からの撤退戦の後、我々は戦死者達を故郷へ返す為に奔走していた。
……手筈はこれまでと何ら変わりなく行った筈だった。だが……遺体が故郷に届いていない。
十人中五人も戻っていれば良い方で、中には遺体を運んでいた部隊ごと姿を消した例もある」
異様な話だった。理解できない類の。
戦場で遺体が辱められるのはまだ理解できる。金目の物を奪ったり、髪を切ったり、正にオロクの子、クラースがそれをされた。
だが遺体その物が消えるとは。
「俺はドニ将軍の命令を受け、それを調査する為にパササを離れた」
「うん? ちょっと待て、ドニ将軍だと?」
ワインを口に含んでいたオロクは思わず咳き込みそうになる。
「将軍は戦死されたのではなかったのか?」
「ふふ、驚いたろう! 生きておられたのだ。東の遠国から流れて来た秘薬で回復し、今まで療養しておられたらしい。
狼公が蘇ったから何だと言うのだ。ドニ将軍が戻られたならば、少しの負けなど幾らでも取り返せる!」
「東となるとアルハニ帝国か」
「奴等には苦労させられたが、この一点に関しては感謝出来る。アルハニの王に接吻してやっても良い気分だ。
…………む、すまん。はしゃぎ過ぎた。お前の気持ちも考えず」
ケイルスの言う“少しの負け”の中にクラースの死も含まれる。
己の失言に気付いたケイルスはすぐさま謝罪した。オロクは咎めなかった。
「しかし、遺体が消えるとは……。俺の息子がそうならなくて良かった」
クラースの死は確かに悲しい。
しかし彼は己の意思で戦いに赴いた。死の覚悟は有った筈だ。
息子でも、もう子供ではない。一人前の男の選択にオロクが口を挟めようか。
クラースがせめて本懐を果たし、こうして戻って来たのだと信じたい。
「……クラースに関して、解せぬ事がある」
ケイルスが更に一段低い声で言う。
「それは?」
「同僚の百人長と話した時に聞いたのだが、クラースは……その……
彼が戦死したと思われる戦いには、“参加していなかった”筈なのだ」
オロクは沈黙した。酒を呷る気にもなれなかった。
ベリセスの男が二人も揃っていて、ちっとも酒が進まない。
「どういう事なんだ」
「詳しい事情は分からないが、クラースは戦いの前に奇妙な事を言って回っていたらしい。
“俺達は騙されている”と」
「誰に、何を」
「その辺りが分からない。結局クラースは牢に入れられた。だから……」
「戦いに参加していなかったのか?」
オロクの握ったコップが粉々に砕けた。
それならばクラースは何故死んだ?
「か……」
オロクの声が震えている。
「髪や、装飾品が奪われていた。戦場跡でこそこそ這い回る鼠どもの仕業だと思っていた」
「……クラースの剣と盾が発見されている。
出立の時、お前がクラースに与えた剣と盾だ。覚えているか?」
「忘れる筈がない。俺の剣を砥ぎ直し、息子に与えた。盾はタンティオの名工の品。
どちらも名品」
「死者から髪や飾りを奪うような卑しい者が、それを見逃す筈はない。
……断言は出来ないが、クラースは戦死に……見せ掛けられた可能性がある」
オロクは沈黙した。何か一言でも吐き出せば、叫んでしまいそうだった。
少しの間、蝋燭の火をジッと見詰めていた。
「もしそうだとしたら」
やっとの思いで言葉を吐き出した時、外からアストリドの悲鳴が聞こえて来た。
「父さん! 父さん!」
扉を突き破るような勢いでアストリドが転がり込んでくる。体中泥まみれで、母譲りの美しい金髪までもが滅茶苦茶になっている。
「アストリド」
「父さん、クラースが!」
「クラースがどうした? 落ち着け、アストリド!」
「あれは、あれはクラースじゃない! あれは違う!」
――怪物よ!
外に異様な気配を感じ、オロクは壁に掛けてあった戦斧を握って飛び出した。
既に日は落ち、闇が満ちている。家畜小屋の山羊達が激しく泣き喚き、異常を知らせている。
闇の中に爛々と光る目があった。は、は、と獣のような短く荒い息遣いも聞こえる。
「……クラース」
「馬鹿な」
唖然と呟くオロクの隣にケイルスが立つ。二人して間抜け面を晒していた。それほど異常な光景だった。
カローナの祭壇に寝かせていた筈のクラースの遺体が立ち上がり、自らの胸元を掻き毟っていた。
目は赤く光り、口は割けそうなほど大きく開かれている。正気には見えない。
「……ふぅぅぅールルルルル……」
甲高い、喉を引き絞るような声。巻き舌。クラースが身を屈ませる。
獣が飛び掛かる前の予備動作だ。無意識のうちに、オロクの身体が動いていた。
跳躍し、襲い掛かって来るクラースの身体を受け止め、地面に叩き付ける。
そのままうつ伏せにして拘束した。
「クラース! 止めろ!」
唾液を撒き散らしながら咆え、激しく暴れるクラース。
オロクは余りの状況に眩暈を感じながらクラースを押え付ける。
信じられない怪力だった。生まれてこの方オロクは腕力で負けた事は無い。
森の大熊を無手のまま絞殺した事もある。そのオロクをして、振り解かれそうだ。
「クラース!」
「オロク、それはもうクラースには見えない」
「ケイルス、縄を持ってきてくれ!」
「……クソッ」
ケイルスが家畜舎から縄を持って来た。オロクはそれでクラースを縛り上げようとした。
一瞬だけ、気が逸れた。その時クラースはこれまで以上の怪力を発揮し、オロクをはね飛ばした。
「うぉぉッ!」
「父さん!」
家屋の石壁に叩き付けられるオロク。悲鳴を上げるアストリド。
女の甲高い声が注意を引いたか、クラースはアストリド目掛けて走り出す。ケイルスが咄嗟に立ちはだかる。
「許せクラース」
鋭い打ち込み。ケイルスの小剣がクラースの肩を叩き割った。
しかし呻き一つ上げない。血は流れず、彼が動きを止める事も無かった。
――なんと
目を剥くケイルスに力任せの突進。オロク同様に吹き飛ばされ、地面に叩き付けられる。
「止めて、止めてクラース」
アストリドが顔をくしゃくしゃにして泣いている。
血を分けた兄弟が、見るも無残な姿で故郷に戻り
そして今安らかに眠る事も出来ず、襲い掛かって来る。
アストリドは震えていた。
「息子よ」
オロクが立っていた。戦斧を握り締めていた。覚悟を決めていた。
息子よ。
クラースよ。
何故こんな事になっているのだろうか。
何故お前はそんな姿に成り果ててしまったのだろうか。
「おぉぉ……」
オロクは泣いていた。訳も分からず。
クラースが再び跳躍する。オロクは戦斧を背負うように、大上段へと振り上げた。
――
頭蓋を叩き割られたクラースを、オロクは朝日を待たず燃やした。
本来は土葬にすべきだったが、邪霊に取りつかれた死者は、それを払う為に遺体を燃やさねばならない。
そして右手小指の骨のみを取り分けて三日、カローナの祭壇に安置し、その後はエクリマ教の神殿に任せるのだ。
戦士の指は武運を齎すと言う。特に小指は武器を握る上で重要な役割を持つ。
クラースの小指の骨を、オロクは小瓶に入れて首から下げた。
彼の心は怒りに支配されていたが、脳漿はどこまでも冷え切っていた。
「ケイルス、遺体が消える事件、これと無関係とは思えない」
「……同感だ」
「俺の息子が」
朝日が昇り始めた。それでもクラースの遺体は燃え尽きてはいない。
まだ少し時間が掛かるだろう。
「オロク、お前は友人だ」
「……あぁ、お前の力を借りたい。お前の妻の元で、アストリドを預かってもらえないか」
「分かった」
ケイルスは多くを聞かなかった。オロクが何をするかなど、聞かずとも分かる事だ。
「クラースの遺体は何処で見つかったのだ」
オロクの問いに、簡潔な答えが返された。
「パササ西部、アリューザの谷」




