俺のゴールデンウィークは何処に行ったんだ?
マルフェーのジード、スーセの檄によって発した新高原起軍は、その若さと激しさを思う侭に開放した。
半ば統制など無いような状態で東進し、遭遇したベリセス軍とは被害を度外視して戦った。
死なば死ね、お前達の魂はウーラハンが掬い上げてくれる。
殺せ、奪え、故郷を取り戻せ。
――帰ろう、高原に。
スーセは若い狼騎兵達の切ない願いをよく理解していた。
我らは、迫害される為に生まれて来たのではない。苦しむ為だけに生まれて来たのではない。
胸を張って生きていたい。誰に阿る事も、諂う事も無く。
狼公が健在であった時のように、誇り高く生きていたい。
「どうした! 奔れ! 奔れ! 狼ども! 咆えろ!
もう動けないか?! これで終わりか?! ウーラハンが待っているのだぞ! 狼公が待っているのだぞ!」
そして高原の奪還は成された。マージナと開戦したベリセス軍の大部分は、かつて狼の一族が暮らしていた集落等からとっくの昔に撤退しており、それ自体は容易だった。
だが、それで満足できる筈がない。
スーセは捕虜にしたベリセス兵達を一斉に斬首した。それも自らの手で。
嬲り物にするより余程慈悲があった。スーセは血に塗れたその姿で更に新高原起軍を駆り立てる。
進め、進め、進め、只管に東へ。
強行軍に次ぐ強行軍。新高原起軍はベリセスの予想を遥かに上回る速度でウィッサに駆け付けようとしていた。
「……アルハ・ジード、戦士達に休息を命じた」
丘の上で涼むスーセの元に、アーメイが現れた。
ミンフィスの氏族長代理アーメイは、すっかりスーセの参謀役に納まっている。スーセはアーメイの怜悧な頭脳の冴えを知るとこれを重用する事にしたのだ。
じっとりと汗が浮いたアーメイの額。いつも涼しい顔をした彼も、この強行軍は流石に辛い物があるようだ。
スーセは頬を掻いた。少しばかり風に当たっていた彼女の肌は塩をふいている。
ウィッサは近い。ここから先は大規模なベリセスの部隊と遭遇する可能性がある。
否が応にも速度を落とすしかなかった。
「斥候は?」
「戻ってきている。興味深い話もある」
「聞かせてくれ」
アーメイはクルテの胸元を緩めて中から羊皮紙を取り出した。
「ウィッサ周辺の集落やマージナの商人どもと取引が出来た。
どうやら狼公はウーラハンの名を以前から盛大に喧伝していたようだ」
「……アーメイは一度ウーラハン・タイヨーに拝謁した事があるのだったな」
「冷たい目をした若者だ。気安い風を装っていたが、到底侮って掛かれる相手ではないぞ」
スーセはアーメイの顔を見る。大袈裟に言っている訳では無いようだ。
「アーメイにそこまで言わせるとは、余程恐ろしい男なのか。
……しかしそれ程であれば逆に腑に落ちる。
シン・アルハ・ウーラハン、我らの太陽。それが生半の男であって堪る物か」
「彼がウィッサを落とした時、その手勢は僅か五十にも満たなかったそうだ」
「婆様とハサウ・インディケネならば出来る」
話しながら羊皮紙の内容を読む。
内容はウーラハン親衛古狼軍結成以前にガウーナが発した……宣戦布告とでも言うべきか。
激しい言葉でハラウルを罵り、嘲弄し、最終的には戦いを望む言葉で締め括られている。
早い話が「掛かってこい」だ。
「……言葉の端々からウーラハンへの敬意を感じられる。
婆様はそういう所、素直なんだ。どうやらタイヨー様は傀儡と言う訳では無いみたいだ」
「だろうな」
「早く、お会いしたい。婆様にも、ウーラハンにも。
……一族の者から勇者を選び、先行させる。文の内容を一緒に考えてくれ」
――
ウィッサ南方の都市パササで、サルマは口約束を果たしていた。
パササはウィッサと後方都市を繋ぐ喉仏のような物だ。規模はそれ程大きくないが交通の要衝で、ここが混乱するとそれは展開するベリセス軍全ての補給に関わる。
フィーン暗殺教団は入念な準備の末にパササの主要人物達を暗殺し、様々な流言で惑わし、挙句に火を放った。
数年掛かりの仕込み、カウ・バハイ・サルマ入魂の一矢である
パササの都市機能は麻痺した。サルマは工作の手応えを自身で確かめながら無感動に頷いた。
「ウーラハン親衛古狼軍に文を」
配下のアサシンが一人、音も無く去っていく。
それを見送りながら更に一人がサルマに問う。
「師よ。次は何をすれば良い」
「……今ウィッサの周辺都市には難民が溢れている。それに紛れ込む。既に準備は進めている」
「手が足りないが?」
「無理でもやる。ウーラハン・タイヨーは既にウルフ・マナスの糾合を始めている筈だ。
彼にウィッサの一帯を支配させる為に、隙を作りだす」
「奴は交渉が目的だと言っていた。我々の思惑に乗らなかった場合は?」
「マージナを煽る。停戦などさせない。何にせよ戦いは泥沼化する」
ローブの一団が歩き出す。混乱し切ったパササの路地裏を。
数日前からあちらこちらに火の手が上がりっぱなしだった。パササの民は暴徒と化している。
パササを守備するベリセス軍はこの混乱を収束させるどころか、一部将兵が略奪者と化すような有様だ。これもサルマの仕込みだった。
サルマ達を見た民衆は恐れ慄いて道を開けた。フィーン暗殺教団を知らぬ者は無い。
最早姿を隠す必要も無いと言う事だ。彼らは堂々と表通りをあるき、行き掛けの駄賃のように門兵を殺してパササから離脱した。
――
灰色狼シドの背に、ガウーナと二人乗りする太陽は、届けられた羊皮紙を広げてうーんと唸った。
目録の力って奴は本当に便利だ。見た事も無いような異国の文字でも意味がするするっと頭に入って来る。
「ガウ婆、スーセって娘から」
ガウーナは飛び上がった。なんじゃと?!
「よ、読ませておくれ!」
「その前に血を拭けよ。手紙が汚れちまうぜ」
ガウーナは白いクルテで血に塗れた両手を拭う。大慌てだ。
あーあ、と太陽は漏らした。聞いた感じじゃガウーナのクルテはそれはそれは有名な……狼の一族にとって特別な装束らしいのだが、今や血を拭く手拭い扱いである。
周囲ではハサウ・インディケネが残敵を追い散らしている所だった。
太陽を戴いたガウーナとハサウ・インディケネは今日も今日とてベリセス軍を壊乱に追い込み、高らかに勝利の雄叫びを上げていたのである。
戦場に届けられた文。太陽はガウーナを放ってもう一枚のそれを読む。
差出人は東方アーリヤ・救いの手戦士団。
「はははっ! とうとう来たか、我が同胞達!」
ガウーナは歓喜の声を上げている。羊皮紙にはガウーナの孫の孫であるスーセが一軍を率い、ウィッサに到達しつつあると記されていた。
ガウーナは狼の一族の為に戦神と契約したのだ。この喜びは如何程の物か。
「ボン、ボン、来たぞ、狼騎兵が! 再び大陸を席巻する為に!」
「あぁ、らしいな」
「ボンのおかげじゃ! 我が一族は息を吹き返した! 彼らは勇敢さを失ってなどいなかった!」
「お、おっと、やめ、ちょっと苦し」
ぎゅうぎゅうに抱き着いてくるガウーナ。その膂力で圧迫されたら太陽の背骨なんて簡単に折れてしまう。
ソルが火の粉を撒き散らしながら顕現し、ガウーナの拘束を無理やり解く。
「むぐぐ……や、止めろと言うに、狼公……!」
「ふへー、助かったぜソル。抱き殺される所だった」
それはある意味男冥利に尽きる物だが、幾ら何でもベクトルが違い過ぎる。
あー助かった。そう微笑みかけるとソルは顔を伏せた。目尻にきらりと光る物がある事に太陽は気付く。
「……ソル? どうかしたか」
「いえ、ウーラハン」
戦塵が巻き上がる最中、ソルはシドの隣に跪く。
「……正直言えば、私もガウーナと同じ気持ちです。
私はいずれこうなる事を確信していました。ですが……ですが、実際に目の当たりにすると」
「あぁ?」
「……追いやられ、朽ち果ててゆくだけだった我らウルフ・マナスが……今こうして、高原に……」
うーらはん
ソルの声は震えている。
「全て、全て貴方に捧げます」
「あー止め止め。何だか話が感動のエンディングっぽくなってるぞ。
まだ何も終わっちゃ居ない筈だ。そうだろ?」
言いながら太陽はガウーナにもう一枚の羊皮紙、サルマからの文を押し付けた。
「俺には良く分からないが、パササって所が大混乱に陥ると、どうなるんだ?
はいガウーナ先生!」
先生? みょうちきりんな呼び方をされたガウーナは戸惑いながらも瞬時に答える。
「奴らは……ベリセス軍は干上がるじゃろうな」
「補給が滞るって事で良いよな?」
「うむ」
「ならガウ婆、大暴れはここまでだ。追撃は中止な」
遥か遠方で続くインディケネの追撃戦。今でも狼騎兵の精鋭達は死を撒き散らしている。
「一応何故か、と聞いておこうかの」
「ウィッサの住民は俺達に怯えて出て行っちまった。そういう奴らは周りの街に押し掛けて難民みたいな有様になってるんだろ?」
みたいな有様、じゃなくて難民その物じゃ。とガウーナが訂正する。
「どこもかしこも食い物が無くて困ってる筈だ。ベリセス軍も食料を調達出来なくなる。
そういう時、食い扶持が多いほど苦しい筈だ」
だから奴らは生かして帰せ。
「満点じゃ、ボン!」
ガウーナは二度目の大喜び。太陽の頬に自分の頬を擦り付ける高原狼流の親愛表現を連発する。
「あーあー分かった、分かったから、やめ、やめ、やめれー!」
ぐりぐりぐりぐり擦り付けられる女の肌。太陽は無理矢理それを止めさせて帰還を命じた。
砂塵を巻き上げながら疾走するシド。それにハサウ・インディケネ達が合流し、火の粉となって消えていく。
熱を放つ戦神の目録。これの扱いにも大分慣れて来た、ような気がする。
「のぅボン、ワシの孫の孫、スーセはのぅ」
「ん?」
突然ガウーナが言う。
「強く賢き娘じゃ。強く賢き子を産むじゃろう。それに健気で優しい、どこに出しても恥ずかしくないワシの自慢の娘じゃよ」
「ほぅ」
「夜のような黒髪、稲妻のような瞳、炎のような心臓。戦い方もワシの若い頃によく似ておる」
今のガウ婆は若いだろ、と太陽。そういえばそうじゃったわ、とガウーナ。
しかし若い頃に似ているってちょっと色々拙いんじゃないか。太陽は眉を顰めた。
もしこの世にガウーナがもう一人でも増えてみろ。ハラウル人は全員八つ裂きにされちまうぞ。
「……なんちゃって……流石にガウ婆みたいな気性はしてないだろ、ハハ」
「な、な、ボンも妻の二、三人おってもよい年頃よ。ウチのスーセを貰ってくれぬか」
「はぁ?」
あー出たよ当人の意思確認無しで結婚話が進む奴。現代日本の感性にはそぐわない物の一例だ。
太陽は素気なく答えた。
「止めようぜそういうの。本人の知らない所で人生決めちまうのってさ」
「ボンの国では当人同士で決めるらしいのぅ」
「一昔前なら家同士で決めちまったらしいけどな、今じゃそういうシステムは廃れたよ」
「それならそれでも別に良いわい。スーセの事を気に留めてやっておくれ。絶対に気に入るからのぅ」
何で断言出来るんだ?
そりゃボンよ、ワシとしっくり来るって事ぁ、スーセともしっくり来るに決まっておるわ。
そんな事をわちゃわちゃ言いながら太陽達はウィッサに帰還した。
後には一方的に蹂躙されたベリセスの陣だけが残った。




