わお、わお、わーお
夜のような黒髪、稲妻のような瞳、炎のような心臓。
狼の一族の古語であればもっと複雑な意味を持った言葉で表現されるらしいのだが、取り敢えずマルフェーの氏族長はそういう特徴を持っているのが格好良いとされている。
彼らは基本的には黒髪の人種でその艶やかさは評判だ。
ウルフ・マナスの女の黒髪なら高値で買うと言う商人は多い。
そしてマルフェー当代の長、狼騎兵スーセは母譲りの濡れたような黒髪が評判の娘だった。
「シン・アルハ・ウーラハン」
「そしてガウーナ」
少し前、如何にも適当な無精髭を拵えていた狼騎兵アーメイは、今は立派に身嗜みを整えている。
威厳を醸し出す為の長髪、短めに揃えた口髭。大した色男ぶりだった。未だ若輩として侮られがちだが、聡明で他国人に対し容赦と言う物を知らない彼は日増しに影響力を増している。
自らの長を謀殺した、と言う噂があった。大よその者達は馬鹿げた事と切り捨てているが。
そしてこの煮ても焼いても食えそうにないアーメイの前で胡坐を掻いているのがスーセ。
暫し前、ウルフ・マナス緒氏族の長達が次々と暗殺、或いは懐柔された騒ぎのどさくさでマルフェーの長となってしまった少女は、この短期間の内に目付きを恐ろしい物へと変化させていた。
「シドを見たと言ったな」
「灰色の毛並み、胸の十字傷」
「……間違いないか。何故もっと早く私に伝えに来なかった?」
「使者は出した筈だ。我々は逃げ遅れた連中を救ってやる必要があった」
スーセは視線の険を強めたが、彼女の近習達は気付かずどよめく。その大半は喜色を浮かべている。
「シドはアミアッタ平原の主だった。婆様以外の命令は聞かない」
「では」
「婆様が……戻って来たんだ。死の世界から」
スーセは目を閉じた。布冠をくしゃりと握り潰して歯を食いしばる。
彼女の口から洩れる苦し気な呻きに近習達は困惑した。
「ジード、何故嘆くのです……。アルハ・ジードが戻られた! 我らを救う為に!」
スーセはその跳ね起きてその近習を殴り倒した。
ぶわりと翻るスーセの黒髪。怒髪天を衝く勢いだ。
「恥を知れ! 嘆いておられるのは婆様だ! 婆様が死の間際、戦神に何を乞うたか忘れたか!
恥を知れ! 恥を知れ!」
二度、三度、スーセは周囲の者達に怒鳴りつけた。
獰猛なる狼達の太陽とウルフ・マナスの嘗ての盟主ガウーナ。
彼らが何をしたかスーセの下にも漸く情報が揃い始めていた。
彼らは尋常でない奇襲でベリセス・ウィッサを襲撃し、ミンフィスが氏族の遺児達を救出した。
ハラウル・ベリセスとマージナが開戦した折にはそこに乱入し、単騎でベリセス軍団を弄んだと言う。
その後もマージナに浸透したベリセス騎兵を悉く叩いて回るなど、極僅かな間に徹底してベリセスの妨害している。
「本当にそれをしなければならなかったのは誰だ!
父祖達から受け継いだ土地を捨て、惨めに逃げる事しか出来ない我々ではないのか!」
スーセの形相に誰も何も言えなかった。
テントの外から狼の吠え声が聞こえる。かなり近い。
入り口の直垂を煩わしそうに払いながら伝令が入ってきた。彼は転がる様にスーセの前に跪き、述べる。
「べ、ベリセス・ウィッサ陥落! 申し上げます、ウィッサが陥落!
占拠した者はシン・アルハ・ウーラハンを名乗り、その勢力は『古き狼の一族』を自称しております!」
今まで平然としていたアーメイですら顔色を変えた。
「馬鹿な……。確かめたのか?」
「密偵がウィッサに翻る狼の旗を確認しておりますれば!」
「……もう一度聞くが、シン・アルハ・ウーラハンがベリセス・ウィッサを陥落させたのだな?」
「既に周辺地域には声明が出ているようです! 『取り戻したければ掛かってこい』と!」
ぞわ、とアーメイの肌が泡立つ。
彼はこれまで自分の事を冷静で酷薄な男だと思っていた。
計算と段取りを重視し、戦いの場でも猛りに任せたり、血に酔ったりする事は無かった。
だがその彼をして、ウィッサの陥落と言う奇跡的な報を聞けば。
背筋に走る痺れと、全身の肌の泡立ちを止められぬ。
「……!」
咄嗟に両手を握り締める。震えだしそうだ。武者震いで、だ。
アーメイは少し前にウーラハンと言葉を交わしている。彼は気さくで親し気だったが、唯一彼の言動の全てを裏切るような特徴があった。
それは目だ。冷たい瞳。ウルフ・マナスに対して何の感慨も無い、無価値な物を見るような。
しかし事此処に至っては、ウルフ・マナスの誰も、黙って見ている事など出来ない。
「マルフェーのジード、スーセ。決断の時だ」
アーメイはスーセを煽った。すべき事は限られる。選択肢は今も昔も余り多くない。
スーセは濡れたような艶やかな黒髪を手櫛で一梳き。周囲の部下達を睥睨する。
「弓を張れ。剣を砥げ。戦士は一族に別れを告げて来い。昼までに、だ」
「君の叔父上殿はどうする」
スーセは瞑目する。
スーセがマルフェーの長となる時、流血は無かった。これは狼の一族の歴史の中でも稀である。
狼公ガウーナの影響力が為だ。内輪揉めで勢力を衰えさせる事の拙さを彼女は知っていた。
しかし平和的にマルフェーを受け継いだスーセは親族達の干渉に悩まされていた。
今思えば、甘かった。スーセは決断の遅さを恥じた。
「殺す。叔父だけではない。私が甘かったんだ。私の責任だ。
一族の継承は、流血無くして乗り越えられる物ではない。そんな生易しい物では断じてない。
我らはウルフ・マナス。そしてその中でも最も武勇を貴ぶマルフェーの一族。
私はもう血を恐れない。私に逆らう者は殺す」
「その言葉が聞きたかった。年など関係無い。ミンフィスは強きアルハ・ジードに命運を託したい」
「私をアルハ・ジードと呼ぶのか」
氏族の長はジードと呼ばれる。氏族を超えて尊敬を集める長はアルハ・ジードと呼ばれる。
かつてガウーナは狼公となるまでアルハ・ジードだった。
マルフェーの後継者がアルハ・ジードとなる。困難に対し、苛烈な戦いを主導出来る者が、ガウーナの後継者となる。
何処にもおかしい所は無い。アーメイはにやりと笑った。
「緒氏族に人を遣る。君は……いや、貴女は今度こそマルフェーの全てを継承されよ」
「……ミンフィスの働きは忘れない。そう宣言しておけば良いのだな?」
「好きにしてくれ」
アーメイは胸を張り、足音高くテントを去った。
スーセはシャムシールを抜き放つ。
その日、狼の同胞達が血を流した。
マルフェーのスーセは自分に逆らう一族の者達を悉く粛清し、瞬く間に先遣軍を編成する。
狼の一族の母体から離れハラウル・ベリセスを叩く先駆けとなる彼らは、新高原起軍と名付けられ颯爽と風の中を駆けた。
狼の一族の全てが戦いの準備を整えるまで待っては居られない。
新高原起軍は僅かな休息も取らず駆け続け、ハラウルの村々を襲い、全てを略奪し、そしてウーラハンの許に馳せ参じるのだ。
伝説の女が、守護神を戴いて蘇ったと言う。
ならばウルフ・マナスはただでは終わらぬ。
スーセは疾走した。
――
「……ウィッサはウーラハン親衛古狼軍により占拠。多くの資産や労働力が流出し、周辺へ難民が押し寄せているだろう。
しかし混乱は急速に収まりつつあり、これは統治方式が全く異なる我等と彼等の文化を鑑みて異常であると断ずる」
今日は中々良い風が吹いている。空は青いな大きいな。今日も今日とて羊皮紙と睨めっこする行政官が一人。
ベリセス・ウィッサ城壁上にて、ハルミナは毛皮帽を一撫で。羊皮紙に羽ペンを走らせる。
ウーラハン親衛古狼軍……この名前を決めるまでにガウーナ辺りがギャーだのヒャーだの騒いでいたようだが、兎に角これを公式の名称として扱う事にしたようだ。
君主に護衛に将軍が一人ずつ。それも本人達が立場を自称しているだけで国家としての体裁は成していない。
賊の集団のような物だ、明け透けに言ってしまえば。普通はそのように見做される。
占領されたのがウィッサで無く、占領したのがガウーナで無ければ、だが。
「そして、そして」
そして
普段滅多な事では顔色を変えない行政官ハルミナをして、驚愕する事が一つ。
なんと今この要塞都市では、幽霊が治安維持を行っているのだ。
「……親衛古狼軍との戦いで戦死したウィッサ守備隊の内何割かはウーラハン・タイヨーと契約を交わした。
彼等は治安維持任務に当たっており、民衆を混乱から守っている。これは周辺勢力への警戒や渉外よりも優先されているようだ。
…………これは流石の私も度肝を抜かれた」
横を見遣れば見張り役のインディケネが居る。そういえば、こいつも幽霊なんだっけ。
ハルミナはインディケネの戦士に向かって肩を竦めて見せた。ワーオ。
ワーオ、とは、ハルミナには馴染のない言葉なのだが、ウーラハン・タイヨーが好んで用いる感情表現だ。
どうやら驚愕やら、感嘆やら、皮肉の意やらをこれ一つで表せるらしい。
なんと便利な文化、そして言葉なのだ。とハルミナは思った。それ以来よく使うようにしている。
「ん……? あれ……?」
ハルミナは雑多な街並みを見下ろして、その中に違和感を見つけた。
中央大通り。人だかりが出来ている。彼らは一人の人物を取り囲んでおり、その人物は何か棒切れのような物を振り回して……なんだ? 異国の舞か?
「と、言うか……ワーオ」
わお、わお、わーお、とハルミナは続けた。
大通りで舞を披露しているのはウーラハン・タイヨーではないか。
ハルミナは石階段を駆け下りた。途中、見張り役であるインディケネの戦士が騎獣である狼を召喚し、ハルミナを相乗りさせてくれた。
――
「さぁ~けぇ~はぁ~……呑ぉめぇ~呑ぉめぇ~、呑ぉむぅ~なぁ~らぁ~ばぁ~あぁ~あぁ~」
太陽は喜び勇んで舞った。
手にするは数打ち量産品の素槍に、平盃に見立てた木の皿である。
歌うは黒田節。クラスメイトが必死になって流行りのダンスユニットの振り付けをコピーしていた時、太陽だけはこれを練習していた。
文太などに披露したのはもう結構前。その時は「お前本当に学生かよ」との感想を頂いた。
「日ぃ~のぉ~もぉとぉ~いぃちぃ~のぉ~」
「よいぞよいぞー!」
「のめのめー! ボンの奢りじゃー!」
周囲では荒くれ、ごろつきどもが好き勝手に盃を交わしている。なんとこの酒全てウーラハン・タイヨー持ちである。
まぁ元々はウィッサの政庁から略奪された物であるのだが。
乱痴気騒ぎを主導しているのはガウーナだ。彼女は高く積まれた食い物、酒、財宝などの上に腰掛けて、主君の披露する異国の舞に声援を送っている。
「無法者の振舞いだ……」
ハルミナは羊皮紙に書き書き、太陽を見詰めた。
「しかしあの舞、歴史を感じさせる……」
やってる事は色々とアレなのだが、ウーラハン・タイヨーは言動に高い知性を感じさせる男だった。
計算も早いし物事を順序立てて説明するのも上手い。歌って踊れるならば相応以上の教養もあるのだろう。
「何とも興味深い方だ。本国に送還される前に、出来るだけ彼の事を記録しよう」
ウーラハン・タイヨーはその内ハルミナをハラウル・ベリセスに返還すると言っていた。
何やら交渉したい事があるらしく、ハルミナをその窓口にするつもりなのだとか。
一行政官にやらせるような仕事で無いのは確かだが、ウーラハン・タイヨーは何故だか自分の事を気に入ったらしく、何かあればハルミナ、ハルミナ、と言って用件を申し付けたり質問したりしてくる。
「おっ、ハルミナー!」
噂をすればなんとやらだ。人懐っこい大型犬のようにウーラハン・タイヨーはハルミナを呼んだ。
ハルミナを乗せた狼が歩を進める。ハルミナはちょこんとお辞儀。
「ウーラハン、これはどういった趣向で」
「騒ぎたい奴を集めただけだ!」
「はぁ……騒ぎたい奴……」
どうせガウーナ発案なんだろうなぁ、とハルミナは予想する。
呆れた視線を向ければガウーナはぎしししと笑った。
「娘っこ、お主も呑むかぁ?」
「遠慮します、狼公」
こいつら自分がウィッサを占拠して滅茶苦茶にしてる自覚あるんだろうか。ハルミナは考える。
だが、実を言うと思った以上の問題は起きていないようだ。
「盗人だー!」
ほらこんな感じに問題が起きると。
「騎兵だー!」
ほらこんな感じに騎兵が現れるのだ。
ウーラハン・タイヨーと契約したかつてのウィッサ守備隊。
彼らは休まず、眠らず、また多く語らない。
そして犯罪を見逃さなかった。ウィッサ占拠による混乱が急速に収まりつつあるのは彼らの功績である。
「とっ捕まえたー!」
「よっ、大捕りぃー物ぉー!」
大通りを疾走した騎兵は瞬く間に盗人を捕縛した。それを囃し立てるごろつき達。
うむむ、と唸ってハルミナは羊皮紙に更に書き加えていく。
人間はその日の飯と公正な裁き、そして平穏が保証されるならどんな統治にも順応する。
早くもウーラハンに順応し始めているのだ。些か早すぎる気もするが。
「カロルはスーパージョッキーだ! ここで悪さするってんなら覚悟しとけ!」
タイヨーも何事か囃し立てる。彼は何故か頑なに酒を呑もうとしないが、雰囲気に酔うのは得意らしい。
それにしても今出た名前は。
ハルミナは盗人を捕縛した騎兵を見る。
長身に鍛えられた太い身体、太い首。あれは先日死亡した筈のカロルだ。
ハルミナは人付き合いは得意でないが、カロルの誠実な人柄は知っていた。
彼も契約を交わした者の一人だったのか。
死んでしまったのだから……手放しで喜べはしないが、彼が活躍しているのをまた見る事が出来るのは嬉しかった。
唐突に、全く唐突にガウーナが叫んだ。
「そやつを止めぃッ!」
言いながら自身もシャムシールを抜く。
視線の先に居るのは麻のローブを纏った小柄な人影。
「ソル、ボンを守れ! アサッシンじゃ!」
「ウーラハン、御下がりを!」
お? お? と疑問符を浮かべながら引き摺られるウーラハン・タイヨー。
「すとーっぷ!」
しかし何事か叫んだと思うとその場に踏み止まった。
「まー待てよ。殺意を感じない」
アサシン(と思しき者)に飛び掛かろうとしていたガウーナがずっこけた。
「か、勘か」
「首筋にちりちり来ねぇんだ。……話してみようぜ」
そういうと、ガウーナとソルが脇を固めるように両隣に立つ。
ローブの人物が跪くと、野次馬の中から、路地裏から、馬小屋の陰から、総勢十名ほどのローブの者達が現れ、次々に跪いた。
「……御無礼をお許しください、ウーラハン・太陽殿。そして狼公殿」
「お主らの足運びは忘れようも無い。顔を見せぃ」
ローブの集団の筆頭らしき男がフードを取る。
潰れた右目。拉げた左耳。奴隷出身であるのか頬に刺青がある。
「我等東方アーリヤ、『救いの手』戦士団。……巷では『暗殺教団』と呼ばれることもありますれば」
ハルミナは羽ペンを走らせた。
「うーむ……フィーン暗殺教団現る、と」




