ジャン・マロワ・ドルテス
ジャン・マロワ・ドルテスは商業都市マージナの傭兵である。もう五年も前からマージナに居て、戦の臭いを嗅ぎ付けてはあちらこちらを行ったり来たりしている。
生まれはどこぞの貴族の三男坊と言う話で、確かに傭兵にしては所作に品がある。だが誰もそんな事気にしちゃいないし、ジャン自身もどうだって良いと思っている。
レイピアに長け、馬術の達者。弓も使えて傭兵達を纏めるのも上手い。ジャンはマージナではそこそこの有名人だった。
そのジャンは今、同業者である傭兵と共に地面に伏せて息を潜めていた。
「動くな……動くなよ……必殺”死んだフリ”だ」
近くを大ハラウルの騎兵隊が行軍している。その周囲では軽装歩兵達が戦場の”後片付け”をしていた。
彼らは死体を簡単に点検し、息がある者にとどめを刺している。これはマージナとハラウルのこれまでの関係を考えれば異常な処置だった。
「(奴ら本気だな)」
マージナとハラウル・ベリセスは衝突し、結果マージナは敗れた。それは良い。だが今回の戦いはいつも様子が全く違っている。
マージナもハラウル・ベリセスも小競り合い如きで人死にを出したくないと考えている。そうでなくとも理性ある人間ならば、遮二無二殺したり殺されたりしたくない。
だから商業都市マージナとハラウル・ベリセスは、こういう言い方をすると奇妙だが、殺さなくていいように殺し合いをしている。
互いに本気にならずに済むよう絶妙な手加減をしながら戦っている訳だ。軟弱と取るか、賢いと取るかは人による。
一方的になり過ぎないようそれとなく戦力を調整したり、積極的に投網を使って捕虜を取り身代金で済ませたり、だ。
時には(流石に理解不能だが)刃を潰した剣を使って戦ったこともあるとか。そこまで行くと最早ただの”戦争ごっこ”だ。
兎にも角にもこの両勢力の間には理性的な暗黙のルールがあった。
それがどうした事だ。苛烈な戦いぶりに、容赦の無さ。何故だか知らないがハラウルは本気になっている。
「ジャン……血が」
ジャンの仲間が歯をかちかち鳴らしながら囁く。
斬り付けられた脇腹からの血が止まらない。こいつはもう助からないな、とジャンは悟った。
「話すな、殺されるぞ」
「血が、止まらねぇ……」
「堪えろ」
「うぅ、うぅぅ……女神様、お慈悲を。お、俺には、妻が……」
ジャンは歯を食いしばる。直ぐ近くをハラウルの兵士が歩いている。当然、ジャンの仲間の泣き言を聞き漏らしたりはしなかった。
がちゃがちゃと装具の音を立てながら歩いてきた兵士に死に掛けの男は恐慌に陥った。
「あぁぁ止めろぉっ! もう、もう降参だ! 勘弁してくれぇ!」
馬鹿が! ジャンは必死に息を殺す。男は這いずって兵士から逃れようとするが血を流し過ぎている。まともに手足が動いていない。
「ジャン! ジャン、助けてくれ! 嫌だ! 死にたくない!」
兵士は足早に男に追いつき剣を逆手に持ち替える。そして狙いを定め、極めて無感動に、義務的に、男を突き殺した。
苦しまないよう綺麗に急所を一突き。寧ろ情けすら感じさせた。
問題はその後だ。兵士は今しがた自分が突き殺した傭兵が助けを求めた相手を探し、ぐるりと周囲を見渡す。
そして、ジャンを見咎めた。周囲の死体と比べて彼の頬に血の気があることを見抜いたのだった。
死んだフリが失敗したと悟ったジャンは唸り声を上げて飛び起き、兵士へ飛び掛かる。短剣の一突きで反撃する間も与えず殺す。
そしてみっともなく転びそうになりながら森を目指した。走って、走って、逃げるしかなかった。
直ぐに追手が掛かる。馬蹄の音が幾つも聞こえる。
だが森に逃げ込めば騎兵の機動力は殺せる。弓矢も木々に阻まれる。ジャンは時に木にぶつかり、時にぬかるみに足を取られながらも逃げ続けた。
そして伝説と出会った。その伝説は呑気な顔で鹿の炙り肉を齧っていた。
「ん? なんじゃお主」
「……ウルフ・マナスの白い戦士?」
狼の一族の中でも極々限られた戦士のみが纏う白の戦装束。その女は肉を頬張りながらジャンを睨む。
「尋常ではない様子。……じゃが何にせよこっから先は通行止めじゃ、余所へ行け。我が主の眠りを妨げるでない」
狼の一族の女が視線を向ける先は切り立った崖、そして滝になっている。周囲は滝から生じた飛沫が薄い霧を張り、その中で一人の男が座り込んでいた。
背中を丸めて眠っているのか。見た事のない格好をした男だった。服は地味な色合いで華美な装飾も無いが、見事な仕立ててあるのがジャンには分かる。
どこかの豪族の子と言ったところか?
しかし詮索する余裕はなかった。背後に茂みを掻き分ける騒々しい音を感じてジャンは振り返る。
五名の兵士たちが森を抜けてくる。狼の一族の女はとっくにそれに気付いていたようで、不愉快そうに鼻を鳴らした。
「ふん、ハラウルの兵かい」
ジャンはしめた、と思った。大ハラウル連盟王国と狼の一族は宿敵と言って良い間柄だ。
「すれ違えば殺す」とか、「目が合ったら殺す」とか言う話もある。敵の敵は味方と言う理屈が使えるかもしれない。
五対二と言うのは難しい戦力差だが、狼の一族は精鋭揃い。その中でも白い戦装束の戦士は泣く子も黙る強さだ。
滝の傍で眠る男は戦力として期待できるかどうか分からない。
そこまで計算を巡らせたところで、ジャンの首にシャムシールが迫っていた。ジャンは咄嗟に身を捩りぎりぎりの所で刃を避ける。
頬が裂かれ血が噴き出した。ゾッとした。一瞬遅ければ死んでいただろう。女がジャンに向かって凶刃を振るったのである。
「ふぅむ? 雑兵ではなかったか」
「待て、俺は敵じゃない」
「まぁ確かにハラウルの兵と言う訳では無いようじゃ」
「マージナの傭兵だ。奴らに追われてる」
女は眉を顰めた。
「マージナの商人どもの飼い犬か」
「言ってくれるぜ。……だが何にせよ、俺を殺しても奴らはアンタ達を放っとかないんじゃないか?」
追手がガウーナに気付いたようだ。森から抜け出た五名の歩兵は弓矢を構え油断なくこちらを伺っている。
ジャンは得物を構えて向き直る。頼むからもう俺の首を撥ねようとするなよ、ウルフ・マナス。
ハラウル兵達はガウーナに対しジャンと同じ疑問を持ったようだった。
「狼の一族か、なぜこんな所に?」
「ハラウルのボケどもよ、お前達を殺すためじゃと言ったらどうする?」
「……大人しくしろ。お前達を捕らえる」
獰猛に笑いながら女は挑発した。
「貴様らだけか? 近くに仲間は?」
「質問ばかりじゃな。分からない事は全部人に聞けと母に教わったのか?」
「答えろ」
ぎりり、と一人の兵士が強く弓を引いた。狙いは女の眉間。
「ボンと同じ空気を吸わせるのすらも不愉快な連中じゃ。――殺せぃソル! 一人残らず首を撥ねぃ!」
瞬間、黒い風が吹く。風はハラウルの兵士たちの背後から吹き付け、瞬きの間に二人の兵士の首を切り裂いた。
「む!」
「かぁぁッ!」
気勢と共に更なる踏み込み。黒い風は双剣を振り上げ更に一人の手を切り落とす。悲鳴を上げたその兵士は次の瞬間更に脇腹を切り裂かれ、腸をこぼした。
「どこから!」
兵士が矢を放つも動転して狙いが逸れている。黒い風はまるで恐れず一足飛びに兵士の懐に飛び込み、胸に剣を突き刺した。
ジャンは目を細めた。黒い風はまだ若者と言った風情。しかし若さに見合わない強さだ。奇襲とはいえ瞬く間に四人を倒した。
「(相当に鍛え上げられている)」
「残るはお前だけ。掲げて誇るには値しない首だが……」
ソルと呼ばれた男は血の滴る双剣を交差させ、突き付けた。
「死ね、ハラウル人」
「ソル、ストップ」
気付けば滝の傍で眠り込んでいた筈の男が直ぐ傍にいた。目の前で起こった一方的な殺戮などどこ吹く風、なんでもないようにソルの肩に手を掛けている。
「もう良い」
「はっ!」
ソルは、たった今荒れ狂う黒い風となって四人の敵を殺した戦士は、その一言で跪き、男に敬礼を捧げる。
一人生き残った兵士は尻餅を突き失禁していた。怯え切った表情でがくがくと体を震わせていた。
「おいアンタ」
「あ、う……」
「もう行け。追っかけたりしないから」
兵士は何度も頷いた。そうするしかなかった。歯向かえば死ぬ。
歯の根が鳴る。がちがちがちがち。恐怖に支配された兵士は声すらなく、ただただ怯えている。
男は難しい顔で溜息を吐いた。
「遺体は取り敢えず埋めとく。また落ち着いてから迎えに来てやってくれ」
ふと視線が外れる。兵士は悲鳴を上げながら逃げていった。
――
ジャンは信じられない物を見るような表情で目の前の光景を眺めた。
狼の一族が、仇敵である大ハラウルの兵士の遺体を埋葬している。
穴を掘り、熱を失くした体を並べ、野花を捧げて祈る。それが終わったら丁寧に穴の底に寝かせ、土を掛ける。
獣に荒らされないようそれなりの深さだ。目印になるように遺体が装備していた剣を大地に突き立て、また祈る。
「……何を見ている、マージナ人」
褐色の肌の若者ソルがジャンに問いかけた。ジャンは居住まいを正してソルや白いクルテの女、後は得体のしれない男に礼を払う。
「白々しいかも知れんが、俺も一応祈っときたい」
女が意地悪く笑う。
「自分を殺そうとしとった追手の為にか?」
「アンタらは狼の一族の癖にハラウル人の為に祈ってるじゃないか」
ジャンも軽薄な笑みを返した。ジャンは狼の一族の事を排他的で乱暴なばかりの連中だと思っていた。
だが死者たちへの振舞いを見てそうではないと考えを改めた。ジャンのそれは無礼な侮りだった。
「我らが主君は慈悲深いお方じゃ。……ボン、こう言っておるが」
得体の知れない男が作業で服についた泥を払いつつジャンを見る。
奇妙な若者だった。身綺麗で振舞いは穏やか。体躯大柄で多少鍛えられてもいるようだが、手などは荒れておらず苦労を知らないように見える。
やはり貴人だろう。どこぞの土豪の子か、貴族の御落胤と言うのも有り得る。
狼の一族が、それも気位の高い事で知られる白の戦士が臣従しているのを見ると彼らの貴き血族と言う線も無くはない。髪も黒い。
しかしそう言った身分の物が泥に汚れてまで下賤の輩の埋葬などしたがるかと言われたら……。
「俺がどうこう言うのも変だろ。どうぞご自由に」
「……礼を言う。俺はジャン・マロワ・ドルテス」
「こいつぁご丁寧にどうも。俺は霧島……あー? 太陽・霧島」
キリシマが家名か? ジャンは首を捻った。傭兵家業を続けていると耳聡くなる物だが、キリシマなんて一族は聞いた事が無い。
ん? いや、待てよ? 白いクルテの女に見慣れぬ装いの若者か。
つい最近南から噂が流れてきた。ハラウル・ベリセスの前線要塞ベリセス・ウィッサを襲撃し、捕らわれていた捕虜を救い出した狼の一族の噂だ。
ハラウル・ベリセスは政治的な問題もあって「取るに足らぬ」と言う態度を崩していないが、今もそこかしこで話題になっている。
獰猛なる狼たちの太陽、シン・アルハ・ウーラハンとくたばった筈の大英雄ガウーナ。
厄ネタだな、とジャンは思った。飯の種にはなるかも知れんが関わらない方が無難。詮索しない方が良い。女の方の名前は聞かずに置こう。
彼は傭兵、そして傭兵と言うのはそういった事に敏感である。ジャンはくわばらくわばら、と内心で呟きながら、死者達の冥福を祈った。
が、厄ネタの方は何故かジャンを気に入ったようだった。ソルに命じて傷に効く薬草を取ってこさせ、それでジャンの擦り傷を治療させる。
そして街道まで同道するなどと言った。戦場跡が気になるらしい。
「ジャンの兄貴は傭兵でしたかい」
「……ん、あぁ、そうだ」
周囲を警戒しながら歩くジャンの隣に巨大な灰色狼が、そしてそれに跨る太陽と女が居る。ソルは何処かへと姿を消した。
ジャンは内心肝を冷やした。高原の巨大な狼はここいら一帯の恐怖の代名詞である。
「傭兵ってのは儲かるんですかい?」
「場合によりけりだな。だがまぁ俺達みたいなマージナ傭兵の話をするんなら、傭兵業の割には安定してるが大きな儲けはそんなにない」
「安定ですかい。命懸けの仕事に安定ってのも奇妙に感じやすが」
狼の上で太陽にべったりとくっついている女が笑いながら言う。
「傭兵が命なんて懸けるもんかい。ちょいと突いてやりゃアリみたいに逃げる弱兵じゃぞ」
そりゃ狼騎兵に追いかけられたらそうなるだろ。ジャンは肩を竦める。
「勇敢じゃったら兵士になる。真面目じゃったら農夫でも、職人でもやればよい。傭兵ってのは他に何も出来ん弱虫の集まりじゃ」
「こいつは手厳しいな」
この女の言う通りな部分もある。だが全くそれだけ、と言う訳でもない。
「だが誤解は解いて置くぜ。俺たちは思想や愛国心じゃない、飯を食うために傭兵をやってる。戦いのプロだ。
俺達が売るのは能力であって命じゃない」
「能力を発揮せぬまま逃げられては金を出す方も馬鹿らしいわ」
「……余所の連中は知らんが、俺達マージナ傭兵は”給金分の働きをすること”に誇りを持ってる。命を懸けさせたきゃ、それに見合う報酬を用意すれば良いのさ」
「ほ、言うのぅ」
太陽がへぇ、と感心したように頷いた。
「ポリシーでやんすね。仕事人の矜持ですかい。敬服しやす」
ジャンは飄々としている。
「止せ止せ傭兵を持ち上げるのは。格好良く言ってみても、アリと一緒に仲良く雑魚寝して、バッタの隣で硬パン齧ってるような職業だぜ」
「ほぉー、そういうもんですかい」
「名うての傭兵団とでもなりゃ話は違うがな、俺達みたいなのに陣幕なんぞ支給されんし、まぁそんなモンだ」
「ですが、自由気ままな感じはしやすね」
「……ま、自由っちゃ自由な部分もある。だが日を跨げば強盗団に早変わりするような自由過ぎる連中も居てな。世間様の目は厳しいぜ」
「ありゃま。……そういや街道を封鎖してる傭兵団を見た事がありやす」
「そういうのは大抵退役軍人なんかが頭を張っててあちこちに顔が利く。目溢しして貰ったりとかな」
「勉強になりやす」
そりゃ良かった、とジャン。妙に話しやすい若者でついつい口数が多くなってしまう。
良いとこのお坊ちゃんの社会勉強になったのなら幸いだ。自嘲気味に笑った。
「血の臭いが近付いておる」
「……あぁ、そろそろだ」
戦場は街道。十数名の死体が転がる。全てマージナ傭兵だ。
「……従軍神官が死体の片付けくらいしてくれてても良い筈なんだがな」
「とてもそうは見えやせんね」
ハラウルは味方の戦死者のみ回収して後は放置したらしい。戦いは一方的な物だったからそれすらも極僅かだった筈だが。
打ち捨てられた死体。太陽はうーむと唸りながらそれらを見て回る。
「酷い状態の仏さんが多いな」
「騎兵に追い立てられたらしいのう。一方的にやられておる」
太陽がジャンを見る。
「……あぁその通りだ」
それだけ返す。
整然とした騎兵の突撃を止めるには槍衾や重装備の歩兵部隊が必要だ。傭兵にそんな装備の充実を求められても無理がある。
ジャンは死体の一つに近付いた。目の前で止めを刺されたあの男だった。
「ジャンの兄貴、お知り合いで?」
「…………まぁな。惨めに死んだぜ、コイツは。助けてくれ、死にたくないって叫んでいた」
「ふぅむ……」
「太陽、お前さんはさっき敵対した兵士ですら弔った。こいつらはどうだ?」
太陽は平然としていた。
「数が多すぎやす」
「ま、そうだわな」
ジャンは男の死体からペンダントを剥ぎ取った。残された家族に形見を届けるぐらいはしてやってもよかった。
「コイツには妻が居た。届けようと思う」
「成程」
「死体から金目の物を剥ぐなら急ぐこったな。ハラウルの斥候がうろちょろしてないとも限らねぇ」
太陽は不思議そうな顔をした。そんな事、思考の片隅にも浮かばなかったと言いたげな表情だ。
コイツどうやら本当の本当に心底から育ちの良いお坊ちゃんらしい。
「俺はもう行く。じゃぁな、太陽とそのお付きの方々。成り行きだが、助けてもらった。この事は覚えておくよ」
ジャンの兄貴は手入れの行き届いたお髭を持つダンディー!




