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 太一と名乗った青年が祖母との思い出がつらいよう、小さい頃から祖母と瓜二つと言われ続けてきた友里だけに、口に出せないつらい思い出は数限りある。なかでも、祖母がときどき正気に戻る時期が鮮烈だった。


「そうなの……私は全裸で、あの子に迫ったのね」

 と、祖母はうつむく目からぼろぼろ涙を溢れさせた。

 二年前のことだ。友里が大学受験を控えた十八歳のときだった。まだ意識のはっきりしている状態のほうが長いときで、父が執拗に祖母を避けだしていたのを疑問に思ったらしい。不定期に二人で行っていたバイオリンの練習のときに訊いてきた。

「一度だけじゃなかったみたい」

 友里が正直に告げると、祖母は手で涙をぬぐい、まるで老犬が自らの死を悟ったみたいに寂しく自分の部屋へ戻っていった。相当のショックだったのだろう。以来、友里が五歳から続けていた祖母とのバイオリンのレッスンは、その瞬間を境にピリオドを打たれた。

        

 それから一ヶ月後、祖母はS県にある認知症専門の病院へ入院した。医師が言うにはアルツハイマーの初期と中期の中間で、幻覚の症状が強く見られるということだった。

 病院が短期療養型ということもあり、しばらくして特別養護ホームへ移っていったが、進行は思いのほか早く、一年経つ頃には父の顔も友里の名前も識別することはできなくなっていた。衝撃を受けた友里は、最初のうち数度見舞いに行っただけで、その後一度も顔を出していない。

       

「祖母は、何か変わったことをしなかった」

 友里はプラスチック容器の珈琲を飲みながら、太一と名乗った青年に言った。話の続きを聞かせてもらいたく、ランチでもどう? と誘ったら、太一は目の前のコンビニへ入っていった。彼の素っ気なさの裏に、祖母への心情があったことで多少理解できたが、気のまわらない男であるのは確かだ。

「変わったことって?」

「なければ別にいいんだけど……」

 友里はドーナッツの袋を開けて気のない返事をした。いくら高齢者であろうと、女性が全裸で迫れば問題になる。家族に連絡ぐらいくるだろう。こないということは、そのような兆候が起こっていないと判断していい。


「あるとしたら、窓から外を一日中眺めていたことぐらいかな」

「窓から、外を?」

「うん。ときどき溜息を吐きながらね」

 友里は、祖母が全裸で父に迫ったことも、そして溜息を吐きながら窓の外を眺めていたことも、認知症が引き起こした行為には違いないけれど、そこに何らかの理由が隠されているとずっと考えていた。

       

 私生児だった父。名前も顔も知らない祖父。なぜ祖母は一人で産む決心をして育てたのか。同じ女として、それを無性に知りたかった。

 もしかしたら祖母の行為の先に、祖父の姿が映し出されているのではないだろうか。漠然とだが、友里はそう思い続けている。ただ友里が祖母に似ていて、父と祖母がまるっきり似ていないことを考えると、祖父のことを知らないほうが賢明かもしれないが。

 いずれにしても彼はまだ半年しか働いていないというし、よく知らないのだろう。

       

「太一くん、きみは東京生まれなの」

 友里は話題を変えた。どうして老人介護などという辛い仕事を選択したのか知りたくなったのだ。友だちに華やかな仕事を希望する人間はいても、老人の世話をしようと考えている者などいないからだ。

「東北」

 友里は、ふうんと思った。やっぱり地方出身の人のほうがつらさに耐えられるのかもしれない。

「年を聞いてもいいかな」

「別にかまわないよ。先月、二十六になったばかりさ」

「わたしは二十歳だから、ちょうどいいかもしれないね」

 友里がわざとらしく笑むと、太一は言葉の真意を探るように見つめ返したあと、間を置いて、大きな溜息を吐いた。


「いくらもらってるの」

「ちょっと待ってくれないか。さっきから、まるで身辺調査みたいだよ」

 立て続けの問いかけに、太一が怪訝な目を向ける。

「気に障った? だったらごめんなさい。ちょっと気になったの」

「いいけど、いくら興味を持たれても、きみと僕の接点を捜すのは難しいと思うよ。僕は東北の片田舎の高校出で、どちらかといったら将来性のない仕事をしている。君は名門音大の学生だろ。見た目キュートだし、それだけで薔薇色の人生を約束されているようなものだ」

「キュート……ずいぶん見直したのね」

       

 友里は奢ってもらったドーナッツを二つ食べ終えると、儀礼的に太一の食べたゴミも一緒にレヂ袋に詰め、脇にある容器へ捨てにいった。そうしてから「だけど、どうして介護職を選んだのかな」と、凝りもせず訊いた。

「またまた厳しい質問だね。それは君が僕を尾行したのと同じで、意味を求めても仕方ないと思う」

 なるほど。友里が太一を尾行しようとしたのは衝動的にだった。それを駆り立てた原因はと聞かれてもわからない。ということは、太一が介護職に就いたのもそういうことなのかもしれない。異性の交際が必ずしも理想の人と結ばれるわけではないよう、言葉で説明できない縁がこの世にはたくさんあるのだ。

「偶然就いた仕事が性に合った。ってことかもね」

「そうじゃない」

「違うの?」

「僕が福島県の南相馬市出身だからさ」

       

 南相馬は先の大震災で原発の影響をもろに受けた場所だ。でも、それが介護と何の関係があるのだろう。

「ここを出ようか」

 話の途中で、突然、太一がどきっとするほどに真顔で言った。

「そうね。名残惜しいけど、これで、きみともお別れね」

 友里も誇張気味に返す。

「いや、もう少し僕と一緒にいてくれないか」

「急にどうしたの。わたしと映画でも見たいわけ」

 時間がないわけではないが、そんな気分にはなれなかった。もう十分だ。

「そうじゃない。連れていきたいところがあるんだ」

「まさか、いい天気だからドライブへ行こう、なんて言い出さないでしょうね」

「その心配には及ばない。僕の職場、君の祖母が暮らしていたところさ。そこに、きみの知りたい答えがあるように思えるんだ」

       

 太一が眉一つ動かさずに唇を引き締める。友里は少し気圧されたが、すぐに本音を言った。

「介護と出身地の問題なら、もうどうでもいいのよ。わたしにとって大したことじゃないから」

「もちろん、それを教えるつもりは毛頭ない。教えたいのはバイオリンのことだ」

「バイオリン?」

 祖母の大切なバイオリン。父が祖母の荷物を整理しにいくと言ったまま、忙しさにかまけて、三日後と約束した私物の引取を延ばしに延ばしている。もしや紛失してしまったのか。そうとも考えられる。だとすると値段以上に思い入れのある遺品、父に知れたら大騒ぎになってしまう。

「失くしたのね」

「申し訳ない。でも見つかった。源さんという人の、ベッドの下に隠してあった」


「源さん……?」

「ああ、じつは波江さん。もしかしたら、その人を追いかけて事故に遭った可能性もあるんだ」

 えっ、と言ったきり、友里は絶句した。

 なぜ祖母が源さんという人を追いかけたのかわからないけれど、やはり祖母の行動には理由があった。なら、その源さんという人に会えば徘徊した理由はむろんのこと、全裸で父に迫ったことも、ずっと窓から外を眺めていたことも、シングルマザーとして父を育てた理由も解明できるのではないだろうか。

 認知症になったことで祖母の封印していた記憶が解放され、頭の中で過去が現実となったとも考えられる。だから、あのときの祖母の目には父は映っていない。間違いなく祖父が映っていたはずだ。

「連れていって! わたしを源さんの所へ」


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