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「君は波江さんの孫だね」
と、彼がいきなり握っていた手を離し、切りだしたのだ。どきっとした。離された掌に父と同じような汗が滲んだ気がする。
「知ってたの?」
「ああ、駅からずっと後ろにいたのも知っていた」
距離を保っていたし、絶対に万全だと思ってはずの尾行がその時点で気づかれていたとは驚きだった。無性に恥ずかしかった。
「いけず」精一杯の嫌味を言った。
「そうかもしれない。だけど声をかけるわけにも、ついてくるなとも言えない」
それはそうだ。友里も声をかけられないから尾行したのだ。あっさり納得した。
「で、いったい君は、あの男に何をしたんだ」
「何もしていないわ。だから調子にのったんじゃない」
友里は正直に経緯を話した。
すると彼は友里の目を見すえ「僕に興味を持っても何もない」と、素っ気なく去っていく。
唖然とした。あっさりしすぎる。友人に悩みを打ち明けたのに、回答も貰えずそっぽを向かれたようなものだ。急に寂しくなった。
このままでは尾行に費やした時間が無駄になる。空しさに駆られたが、そう無理やり自分に言い聞かせ、友里は今きた道を足早に戻って先回りすることにした。
ときどき、このようにブレーキが効かなくなるのを友里は反省しつつ、一向に直らないのは、母の影響を色濃く受け継いでいるせいだと思うことにしている。やはり血は水よりも濃い。
しかしこういうときに限って、駅からの乗降客やらビルの出入り口から人が湧きだし、むやみやたらに進路をふさいでくる。友里は胸の前で軽く拳を握り、うん、と気合を入れ直した。体育の授業を思い出し、速度を緩めることなく縫うようにしてジグザグに人を搔き分ける。どうにか予定通りパルコの前へ到着した。
すぐに首を伸ばして大通りを見ると、彼がゆっくり歩いてきた。友里を見つけて目を瞬かせた。
「また、きみか」
「ひどい言い方ね」
友里は息を切らせながら、むっとさせる。
「すまない。言い換えるよ。僕は映画を見にきたんだ。これ以上つきまとわないでくれるかな」
「それ、もっと失礼かもよ。今回、わたしはきみを追いかけなかった」
「なら、待ち伏せしてたんだね」
「そうなるかな」友里は悪びれずに肩をすくめた。「それはそれとして、きみの名前を教えてくれる」
「名前を? どうして」
はて、どうしてだろうと友里も考える。祖母が死んで、もうこの男とは接点がなくなったのだ。名前を聞いてどうするのだろうと思った。そもそも通夜の席ですれ違っただけの関係でしかない。
でも友里は、なぜか引っ込みがつかず「いいから」と言った。「レディに恥をかかせるつもりなの」とも。
「教えるから約束してほしい」
「約束? 何を」
「すぐ忘れることをさ」
はっはは。友里は笑った。凄く寂しくなった。
「わたしって、そんなに魅力ないかな」
「そんなことはない」
「じゃ、あるのね」
「たぶん人によっては」
友里は、歯がゆい男の態度にだんだん腹が立ってきた。「きみ、ゲイでしょ」
「ふっ、おもしろい発想だね。でも残念ながら、至って正常だ」
彼が笑った。思いのほか歯がきれいだった。しかし歯がゆさは母の嫌味と同じで我慢の域を超えている。
「ならどうして。説明してくれなければ大声を出そうかな。そこに交番があるのよ」
「わかった。理由を話すよ」と、彼は鼻で小さく息を吸った。「きみが波江さんにそっくりだからさ。思い出すのがつらいんだ」