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われわれは一生素人だ。素人で終わる。


             チャップリン

 玄関の前に、黒塗りのベンツがエンジンを噴かしたまま停まっている。

ずいぶん待たせたのだろう。ボンネットの横で所在なげに煙をくゆらせていた運転手が、友里たちの姿を確認すると、携帯型の吸い殻入れに慌てて煙草をもみ消した。


「悪い、悪い。すっかり待たせてしまった」

 父は寒いというのに、額に噴きだす汗を拭って助手席に座る。友里は、ぶすっとした母に続いて無言で後部座席へ乗り込んだ。

「暖房が入ってますけど、消しますか」

 運転手が父の汗を見て言った。

「つけたままにしてください」運転手の背中越しから、母が感情的に答えた。「喪主なのよ、恥ずかしいといったらないわ」

       

 どちらかといえば、友里も母の意見に同意だった。ぎりぎりまで何の用意もせず、車が来てから急にばたばたしだした父が悪いのだ。それに気温は十一月にしては異例の七度なのである。ダイエットの必要性も感じた。

 運転手は父の体形を見てから、もっともらしく頷き、暖房を消さずにアクセルを踏み込んだ。車は、ぽつりぽつりと明りの灯る夕暮れの中をゆっくり進んでいく。


「大丈夫ですよ。通夜は六時からですので何とか間に合います」

「ぎりぎりでもいいんですか」

 友里は訊いた。

「ええ、打ち合わせは昼間のうちに済んでますから問題ありません」

「でも、家の前で三十分待たされましたでしょ。問題あるんじゃありません?」

「ええ、まあ……」

 運転手が母の詰問に、しどろもどろになった。夕方の五時十五分。ちょうど通勤時間帯なのである。昼間なら二十分もかからずに到着する距離だったが、渋滞に引っかかれば倍の時間を覚悟しなければならない。

       

「よせよ。運転手さんを責めるなよ。困ってるじゃないか」

「別に運転手さんを責めてるわけではないわ。あなたを責めているのよ」

 母が父の責任のなさに噛みつく。だが父は平然としている。

「遅れることはよくあることだ。それほど重大な問題じゃない」

「重大よ。あなたはすべてに楽観しすぎるの」

「悲観してどうするんだ」

「じゃ、言い方を変えるわ。あなたは能天気なのよ」

 友里は、またはじまったとげんなりした。どうして場もわきまえず口論するのだろう、といつも思う。そんなに嫌いなら別居すればいいのに、とさえ考えを飛躍させる。


 父は屋外広告業。とはいっても代理店ではなく施工業者だ。ヘルメットを被って駅前の大きな企業広告を定期的に貼り替えている。社員はたった六人しかいないが、中堅代理店の下請け業者として着実に信用を築いていた。

 天候や先方の都合で開始時刻が遅れてもいつまでも待ち、文句を言わずに滞りなく無事作業を終了させることで信頼を得ているらしい。ただそれは母が言うように能天気なのかもしれなかった。そしてそれ以上に空気を読めない。


 友里がまだ高校生だった去年の夏、友人と渋谷に行った帰りのこと。駅前に作業車を乗り入れ、壁面の広告を張り替えている人たちがいた。

 彼らの手にする印刷された一枚一枚の絵は、最初、ただのぼやけた色の集合体にしか見えなかったが、それを何枚も貼り合わせていくうち完成された一つの作品になっていったのには驚かされた。まるでマジックのようだと友里は思ったのを覚えている。

 友人も魅せられたのだろう。「へえ、広告ってあんなふうに変えるんだ。しばらく見ようよ」と言い出した。その絵柄の中に、友人の大好きなタレントの顔が半分だけ大写しになっていたことも一因だった。

       

 そうして、しばらく作業を眺めていた友人は、急にぼそっと言った。

「あの貼ってる人……友里のお父さんに似てなくない?」

 言われてはっとしたが、父の仕事はこのような広告作業だ。ただ、どこでどのように仕事をしているのか今まで聞いたこともなかった。けれど嫌な予感に、完成されていく作品もそっちのけで大柄な作業員を凝視した。

 暑さのせいかTシャツは汗だらけだった。その汗が白いズボンにも染みて、股の辺りが小便を漏らしたようにみっともなく濡れていた。風がないのが幸いで、もし風が吹いていたら臭ってきそうなぐらいの汗だった。

 すぐ父だとわかった。

       

「気のせいだよ。もう行こう。終電に乗り遅れるよ」

 友里が時間に気を逸らせようと友人に返答したときだった。声が聞こえたのだろうか、不意に大柄の作業員がこちらへ振り向いた。瞬時に汗だらけの顔がたるむ。すぐさま嫌な予感は耐えられない現実となった。

「おーい友里、親の仕事っぷりを見学に来てくれたんだな」

 高い所から、大きな声で臆面もなく叫んできたのだ。

 もう最悪。友里は無視した。友人の背中に手を当てて、無理やり駅方向へ押していった。父と公衆の面前で同席するのは中学の授業参観で懲りている。

       

 すると父は娘の心理も考えずに続けた。

「待ってろ。帰りに、お前の好きな牛丼の大盛りを奢ってやるぞ」

 その、これっぽっちもデリカシーのない言葉に友人が笑う。通行人もどっと沸いた。

 あのとき、しみじみ父は能天気だと思った。。

 母も同類だ。考え方は父より多少まともで体形も正反対だけど、少しでも不満を感じると所かまわずねちねち反論する。こちらは、まるでブレーキに問題のある軽自動車だ。


 やはり中学の授業参観は、その最たるものだろう。クラスでいちばん可愛い女子生徒の後ろで、父がヤニさがっているのを見た母は、ブレーキをかけようともせずアクセルを踏みこんだ。友里がやめてよとサイドブレーキを引いても、母はとまらなかった。たぶん両親はその一件以来、別の意味でモンスターペアレンツと赤丸をつけられたはずだ。


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