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意味を求めたってはじまらないよ。人生は欲望だ。
チャップリン
ちょうど朝食の時間だった。一人で食べられない人や食事中に奇声を上げている人を、ヘルパーさんと介護士が甲斐甲斐しく世話していた。事故の当日にしては平静で、別段いつもと変わらぬ朝の光景がくり返されていた。
「おはよう、太一くん」
突然ハスキーな声が部屋全体に響く。振り向くと、若い女性介護士の涼子さんが窓際から手を振っていた。若いといっても三十代前半で、太一より七歳近く年長だ。入社も三年先輩である。ただ年齢のわりにはとてもエネルギュッシュなせいか、二十代後半にしか見えなかった。
おはようございますと挨拶を返し、太一は他のヘルパーさんにも頭を下げて会釈した。
「あの女には気をつけなよ。性悪だから」
不意に、すぐ横でヨーグルトを食べていた入居者の松本さんが、涼子さんを指さし太一の服の裾を引っ張った。つい先月、八十歳の誕生日を迎えたばかりの男性だ。
家族が言うには、この言葉が彼の常套句で、三十代の女性を見ると必ずと言っていいほど吹聴するらしい。何でも松本さんが五十歳のときに、同じような年頃の女性に騙されて、多大な慰謝料を請求されたそうなのだ。あげく奥さんから離縁されたことで、松本さんの惚けがはじまったとも聞かされた。
おそらくそのことが、松本さんの人生の中でいちばんショッキングな出来事だったからだろう。松本さんは八十歳ながら五十歳のまま現在を生きている。いや捻じれた過去に埋没しているといっても過言ではないかもしれない。ターゲットにされた若い女性にとっては非常に迷惑だけど、この常套句は彼にとって格段の重みがある。
「松本さんたら、またわたしのことを性悪女って言ってたんでしょ」
涼子さんが食器を下げながら松本さんの前で足を止める。口もとに、妙に艶めかしい笑みを浮かべた。
「言ったとも。ほんとうのことだ。わしから全財産を絞りとったじゃないか」
「もしそうだったら、わたし、すっごい金持ちだよね。こんなつらい仕事なんかしてるかな」
涼子さんが膝をかがめて、ぐいっと松本さんに顔を近づける。松本さんはたじろぐ。
「はい、解決。今日はここまでね。ところで太一くん、きみもわたしのことを性悪女だと思ってる?」
「いいえ、全然。むしろ純粋だと思ってますよ」
「まあ、きみって乙女心をくすぐるのが上手なのね」
涼子さんは機嫌よさそうに調理場へ去っていった。純粋だといったのは単なる社交辞令のつもりだったが、考えると、まるっきりの嘘ではないような気もした。細谷さんが一つのことに集中すると周りが見えなくなるよう、涼子さんもまた、一人の男に惚れてしまうと見えなくなる傾向が強く感じられるのだ。
そんなことを考えながら入居者に声をかけているときだった。廊下をぱたぱた走る音がした。玄関を掃除していた明子さんが「小坂さん。会議があるんでしょ。みんな集まってるよ!」と、息せき切って顔を覗かせた。
「え、もうそんな時間ですか」時計を見ると、まだ三十分前である。「岡田さんも来てるの?」
「小坂さんと入れ違いに来たわよ。尾崎さんと連れ立ってさ」
「尾崎さん……と?」
なら時間を早めた可能性もある。そしてそれを太一にだけ連絡してこない。いつものやり口だった。
尾崎さんは、太一の苦手な先輩職員だ。小さな問題を大きく取り上げ、こじれさせるのが得意な人であった。それと、あの涼子さんと交際していると源さんから耳打ちされたことがある。
出所が出所だけにかなり信憑性は薄いのだが、ただお喋りなはずの源さんが、そのことに関してだけは他の人に漏らしていないことが謎といえば謎である。
年齢は四十歳で、顔もどちらかといえば整っている。そのうえ仕事もできる。女心を惹きつけるには十分すぎる魅力があると思う。けれどもしそれが事実なら、涼子さんが純粋なだけに素直に祝福できないものが感じられる。
「何をのんびりしてるの。遅れるから行くわよ」
涼子さんがエプロン姿で調理場から出てきた。
「遅れるって、会議ですか」
「決まってるじゃない。尾崎さんから連絡があったはずよ」
案の定だ。
「すぐ戻ってくるから、明子さん、ここお願いね」
涼子さんは太一の不安もどこ吹く風、大股で歩いていく。
頭に波江さんやら細谷さん、それから涼子さんの思いをぐるぐる交錯させながら太一も事務所へ向かった。