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このひどい世の中、永遠のものなんてないのさ。我々のトラブルさえね。
チャップリン
だだっ広い敷地に不釣り合いな建物が横たわっている。今では滅多にお目にかかれない二階建てのレンガ造りで、ところどころ色がくすんで変色している。どこから見ても外観は古い洋館としか思えそうもない。そのせいで近隣の若者はここを異国の姥捨て所と名付けて気味悪がり、誰一人として近寄ろうとしない。ただ幸いなのか不幸なのか、近隣のお年寄りとは交流があっても若者とはほとんど接触がなく、入居老人たちの大半も認知症のためか、彼らにとって世間でいう姥捨ての概念はなかった。
傘を少し斜めにして見上げると、やはり水滴が貼りつく二階の窓に、いつも影絵のように立ちつくす波江さんの姿はなかった。
波江さんは、晴れの日も雨の日も、いつもその位置から時間の許す限り同じ方向を眺めていた。いったい何が見えるのか、そう思い、しばらく横に立って一緒に見入ったことがある。けれど太一がいくら目を凝らしても何も得られなかった。彼女の生きてきた人生を知らないよう、彼女の目にしているものを見つけることなどできるはずもないのだ。
思い出しつつ、太一は改めて波江さんが事故の被害者なんだと認識した。それでも、一度も徘徊したことのない彼女が当直の目を盗んで外へ出ることなど考えられなかった。仮に出たとしても、当直がなぜ気づかなかったのだろうと、別の疑問を抱いた。
「あれ? 小坂さん、今日は遅番じゃなかった」
玄関で掃除をしていたパートさんから声をかけられた。明子さんといって名前通りに明るい人だ。五十歳代の主婦で、隣町から片道十五分かけて自転車で通勤してきていた。
「うん。施設長から連絡があったんだ」
「細谷さんから聞いたわよ。波江さん、夜中に抜け出したんだってね」
明子さんが困ったように顔を曇らせる。太一は何も答えられず、傘を閉じ、無言で傘立てにしまうと室内靴に履き替えた。事務所へ向かった。
昨夜の当直の細谷さんが背をかがめ、パソコンの画面を食い入るように見ていた。後ろから近づき、肉のだぶついた肩を叩くと、細谷さんは驚いたのか大げさに椅子から飛び跳ねた。
「何だ、小坂くんか。びっくりさせるなよ」
「すみません。そんなつもりはなかったんです」
太一は少し閉口しながら謝った。最初は声をかけようと思ったのだが、あまりに真剣にパソコンを見ていたので躊躇ったのだ。けれどあの状態で声をかけても、結局は同じリアクションを取っていた気もする。
細谷さんは一つのことに集中すると、周りが見えなくなるタイプで、ながら族には絶対になり得ない人間。そのためじっくり仕事をさせれば能力を発揮できるが、少し忙しくなるとその能力も半減する。いやそれ以上かもしれなかった。彼は勤務がピークになる入浴時と夕食時に、度々動作停止状態に陥ってしまうのである。
もしかしたら、昨夜波江さんが抜けだしたときも、このようなシチュエーションだったのかもしれないと太一は思った。
だとしても、それで彼を責めるわけにはいかない。運営側もそのことを知っていて、都合よく勤務させているからだ。裏を返せば、慢性的に介護士が足りていない状況が、この業界には絶えずつきまとっている証明だろう。
さっきはメールをありがとうございました。と言って、太一は訊いた。「岡田さんは二階ですか」
「いや、施設長なら来てないよ。直接病院へ行くと言ってたから、そこで波江さんの家族と話し合ってるんじゃないかな」
そうか。太一は上着の袖をまくって時計を見た。会議が始まるまで、まだ一時間以上あった。なら、とりあえず入居者の様子を見に行こうとロッカーで着替え、一階の中ほどにある食堂兼ディルームへ足を向けた。