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希望がなければ瞬間を生きればいい。素晴らしい瞬間だってあるのだから。
チャップリン
尾崎さんと夢子さんらが言い合う横で、太一は友里に小声で言った。
「二曲目を弾いてくれないか。僕は源さんを説得する」
「説得って、どういう意味なの」
「ライムライトだ。源さんに踊ってもらう。そうじゃないと何もかもが潰えてしまう気がするんだ」
「無理よ。だって、あの人はダンサーじゃないって言ってたもの」
「心配しなくてもいい。彼が踊らなければ、僕が踊ればいいだけのことさ」
太一が踊ることになれば完全に入居者不在の演目になる。それだけは避けたかった。
太一は源さんの所へ行って「ライムライトを演奏するから踊ってほしい」と懇願した。自らの軽率な言動で萎れていた源さんは眉を寄せて当惑する。
「おれが踊るの……ここで?」
「そうです。今ここで踊るんです」
あくまでも直感でしかないのだが、波江さんとその恋人がチャップリンで愛を蘇らせたのなら演じることができると信じている。根拠はと聞かれると、ベッドの中で泣いていたぐらいで答に詰まってしまうけど、強いていうなら無類のチャップリン好きが高じた予感かもしれなかった。
「駄目に決まってるじゃないか。今おれ、そんな精神状態じゃないんだ」
「波江さんが喜びますよ」
「おいおい、勘弁してくれよ。そのことについては悔いてるし、ずっと援助してきたんだ」
悔いてる? 援助してきた?
太一は波江さんの日記に書かれていた見出しを思い出す。プライバシーに関わることなので本文は読んでいないが、見つけたとき何かと思い、パラパラめくって見出しだけ目を通した。そこに源さんと友人の名前が書かれていた。バイオリン弾きとダンサー、逃げた人と償いをする人、確かそのような見出しが躍っていたのを覚えている。
ならば源さんは波江さんに不幸を背負わせた人で、その償いをし続けてきた人だったのか。
「あのバイオリン、もしかして源さんのですか」
友里は祖父がダンサーだと決めつけているが、ひょっとしたら違うのかもしれない。
「まいったな、それを言わなきゃいけないかい」
「話してください」
しばらく逡巡した後、源さんは意を決したのか話し出す。
「ああ、おれのだよ。だから、あの夜持ち出したんだ。彼女への償いの絆でもあったからさ。ずいぶん昔のことだけど、酔いが醒めて、とんでもないことをしでかしたと気づいたおれは、彼女の部屋にバイオリンを忘れてしまったんだ」
そのとんでもないことが何かわからないが、日記には書いてあったのだろう。そして友里はそれを読んで、勝手に物語を想像して怒った。
「僕と一緒に踊りましょう」
太一は源さんの手を引いた。友里に演奏をはじめてくれと促した。
「下を向いていたら、虹を見つけることはできませんよ」
「それ、チャップリンの言葉だな」
「いえ、波江さんの日記に書かれていた見出しです」
細く高い旋律が部屋の隅々まで響き、ふたたび皆の心に郷愁が沁みていく。
言い争いが途絶え、夢子さんが最前列に陣取って聴き入る。源さんがメロディに合わせて踊りだす。そのチャップリンを彷彿させる軽妙でリズミカルな動きに、太一は壁の隅へ身を引き二人を見つめた。
友里の祖父が源さんであるかは鑑定をしない限り誰にも知りようがない。だけど哀愁に満ちたこの曲によって過去が現実となり、現実が過去になった。それはたぶん二人にしか見えない糸で過去と現実がつながったからだと太一は思う。
この先二人がどういう関係を紡いでいくかは太一にはわからない。ただ、この瞬間二人は、過去ばかりか未来をも現実と一体化させたのではないだろうか。
見渡すと夢子さん以外にも、無表情だった入居者が瞳を潤ませ聴き入っている。彼らがこのホームで人生の終焉を迎えるかどうかは判断が難しい。でもできるのであれば、全員の終焉に太一は立ち合いたいと心底思う。
西の空が眠りにつくように少しずつ暗くなった。
了
拙い作品を読んでいただき心から感謝します。
ありがとうございました。




