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なぜ死を急ぐ? 苦しいかね?
問題は生きることだ。あとは考えないでいい。
チャップリン
「悪いが、今日九時から会議をしたいので早出してくれないか。あっ、それと喪服があったら持ってきてくれると助かる」
小坂太一が、野太い声をした施設長から、そう連絡を受けたのはまだ夜の明けきらぬ午前四時だった。
「喪服って、何が起きたんです?」
寝ぼけ眼で報せを受けた太一は、半身を起こすと携帯を耳に強く当てて訊いた。異常事態を察知し、知らずに声が上ずっていたのかもしれない。通話をしだすまで寝息が聞こえていたはずの隣の部屋から、両親のがさごそ起き出す気配が伝わってくる。
「私も、さっき当直の細谷から聞いたばかりで何とも言えないんだが、どうやら入居者の一人が深夜に抜け出し、交通事故で亡くなったらしいんだ」
「徘徊……ですか?」
昨夜激しく降った雨は、この時間いくぶん小降りになっている。台風並みに発達した低気圧はいつの間に通りすぎたのか風も弱まっている。だが深夜のニュースでは、傘が差せないばかりか自転車は軒並み倒れ、集積所のゴミが散乱して車の通行を妨げる映像が繰り返し流されていた。いっとき風速は二十メートルにも及んだと聞いた。
「じゃ悪いが、頼んだよ」
通話の終りと同時に襖がひらく。父親がグレーのスエット姿で顔を覗かせる。悲しそうな目をさせた母が、後ろで寄り添うように立っていた。
「ホームの人が亡くなったんだな。早く行ってあげなさい」
太一の家族は、太一も含めて福島県南相馬市の出身。震災で近親者や友人をそれぞれ矢継ぎ早になくしている。そのため死には特別敏感なのであった。
「交通事故らしいんだ」
と太一は言って、その後の言葉をつぐんだ。理由はどうであれ、消灯後にホームを抜け出たのであれば管理側の非は免れない。そればかりか被害者が誰なのか知らされていないし、漠然としか見当がつかないのだ。
太一の勤務する特別養護老人ホームは古いだけに規模が小さい。入居者も五十人程度しかいなかった。さらに、その中に深夜徘徊する者は皆無だ。唯一の例外があるとしたら、源さんという八十一歳の老人だけだろう。徘徊とは違うが彼には脱走癖がある。
施設が私鉄沿線の駅裏という立地条件であるため、消灯後、何度かホームを抜け出してはパチンコ屋で玉拾いをしたらしい。だがそれも夜中にはベッドへ戻っているため噂にしかすぎず、目撃した者もいない。
けれど見当をつけるとしたら、源さんしかいなかった。太一は源さんの屈託のない笑顔を頭に浮かべながら心を傷めた。
「朝食をすぐ用意するから、食べていきなよ」
母が襖と父の間をすり抜け、台所へ向かった。冷蔵庫から卵を取り出してフライパンに火をつけた。じゅわっと油の弾く音がして、太一の耳の中で降りやまぬ雨音と重なった。
電車がF市に着く直前、胸ポケットの中の携帯が震えた。太一は電車が止まるのを待ってメールを確認する。職場の先輩である細谷さんからだった。事故に遭ったのは波江さんだ、と文字が綴られていた。
一瞬、固まった。階段の手前で足が止まった。後ろから押された。おい邪魔だ、と中年の男性から睨まれた。太一はすみませんと謝り、心を宙に漂わせたまま重い足どりで階段を上る。
信じられなかったのだ。
波江さんはどちらかといえば静。一般社会にも活発な人がいれば大人しい人がいるよう、ホームにも活動的な人と目立たぬ人がいる。活動的な見本が源さんなら、波江さんはその目立たぬ側の典型で、言ってみれば引きこもりと決めつけても間違いのない人なのであった。
どうしてという思いに引きずられる。何度通勤客に睨まれただろうか。気がつくと、知らぬ間に地下の雑踏を抜け職場の前に立っていた。