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奇跡はいつでも起きている。ただ人はそれに気づかないだけ。
チャップリン
銀杏の葉が庭に舞っている。波江さんが暮らしていた部屋にも新しい入居者が入り、何ごともなかったような平穏な日々が続いている。ふさぎがちだった源さんもようやく元気を取り戻した。
「太一くん、クリスマス会の出しもの決めたの。もう三週間切ってるわよ」
入居者のオムツ替えを済ませ、ワゴンいっぱいになった汚物を運んでいるとき、すれ違いざま涼子さんが言った。
市民ホールで催されている毎年恒例のイベントのことだった。近隣の各施設から一組、十五分ていどの出しものを披露するのだ。昨日、尾崎さんから急に言い渡されていた。
「まだ何をするか、誰が出てくれるのかも決まっていない状態です」
「昨日の今日じゃ、そうかもね。だけどプログラムの都合もあるから演目だけでも決めないとまずいと思うよ」
「わかってます。演目の届け出期限が明日ということも」
太一は白け気味に言葉を返した。入居者が五十人いて、そのうちの一割が寝たきり状態で車椅子生活の人が五割、自力で歩ける人が四割いたとしても、まともに会話をできる人は少ない。だから演目は限られてしまう。そのためどこの施設も無難な歌謡ショーに落ち着く。
それに、そもそもこのクリスマス会の趣旨は入居者が楽しむものではなくて、その家族と施設関係者などの来賓を楽しませるものにすり替わっている。いってみれば、入居老人たちが逆に外部の人をもてなすというのが正解だろう。主催者側の挨拶や決意を聞いても入居者が癒されることはないのだ。
ただ、それでも幼稚園児や小学生も参加するので彼らとの触れ合いにはなるし、普段忘れがちの感動も生み出せる。
「楽しみにしてるわよ」
と言葉を残して涼子さんは階段を上っていく。太一は裏口から外へ出てゴミ置き場へ向かった。
空気が冷たかった。さっと一瞬で全身が冷気につつまれる。ワゴンから片手を離して息を吹きかけてもすぐに温かみは消えてしまう。気温が四度しかないのだから当たり前だが、吸い込んだ息が肺の中で凍りつくような寒さだった。
早急に汚物を処分して戻ろうとしたとき、背にケースを担いだ女性の姿を目にとめた。
友里だった。なぜか胸がときめいた。彼女も太一に気づき駆けよってきた。心もち目を輝かせている。
「ちょうどよかった。きみに頼みがあるの」
と、友里からまともに見つめられ、太一は頬をほてらせる。まさか……告白? そんなことまで想像した。
「何か勘違いしていない」
友里が不思議そうに首をかしげる。
「別に。ところでどうしたの」
平静を保とうとしたものの、図星を突かれて声は裏返っていた。
「大丈夫? 熱があるみたいだけど」
「ないよ。寒さに弱いんだ」
「変なの。東北育ちのくせに」友里があきれ顔をした。「それはそうと、バイオリンを源さんの前で弾かせてもらえないかしら。確認したいことがあるの」と背中のケースを揺する。
あれ以来、源さんは波江さんのバイオリンを隠したことについて口を閉ざしている。一度問い質したときも、悪気はなかった、問題を公にしないでほしい。と逆に懇願された。太一としては元々事を荒立てるつもりはなったし、損傷もないことで施設長にも尾崎さんにもその件については伏せていた。だから源さんと波江さんの関わりは、うやむやになったまま何も明かされていない。いい機会だ。
「かまわない。大歓迎だよ」
「ありがとう。それで胸のつかえがとれそうな気がする」
「その代わり、僕からも君にお願いがある」
友里が、安堵も一瞬、怪訝な表情を見せる。太一は慌ててF市主催のクリスマス会のことを話す。
「このホームからも一組、クリスマス会の出しものをやるんだけど、できたら協力してくれないかな。みんなを集めるから、試しにそこで演奏してほしいんだ」
「ちょっと待って。そこまで大掛かりにするつもりはないのよね」
友里が両掌を胸の前で広げ、やんわり固辞する。
「そこを何とか考え直してもらえると助かる」
太一は顔の前で手を合わせた。
「でもバイオリンなのよ。お年寄りが興味を持ってくれるとは思えないわ」
一理ある。三味線ならともかく、日本人に馴染みのうすいバイオリンンに興味を持つお年寄りが何人いるだろうか。下手したらゼロの可能性だって否定できない。そうでなくとも、入居老人たちは無気力無感動に陥っているのだ。
でも馴染みがないからこそみんなに聴かせたい。そして反応を見てみたいという気持ちも強い。
「バイオリンには、封じ込めていた感情を呼び起こす特別な力があると思う。ただ聴くだけではなく、自分が歩んできた人生の一ページを旋律に重ねることができるんだ。僕がチャップリンの映画に流れるバイオリンに、あの震災で亡くなった祖父との一コマを蘇らすようにね」
「きみは、あの震災で祖父を亡くしたの!」