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昭和四十八年十二月。
殺風景な白い壁に、青々と葉を茂らせた観葉植物が患者の心を癒すかのように置かれている。とっぷり日の暮れたこの時間、待合室にはまだ数人の妊婦が談笑していたが入院している人たちなのだろう。年末の慌ただしさを忘れてしまうほど背景に溶け込んでいる。
「村田さん」
名前を呼ばれて振り向くと、ひょろっとした看護婦が白いカーテンを開けて手招きをしてきた。
「どうぞ、中へお入りください」と、にこやかに言う。促されて足を踏み入れると、五十代半ばと思われる女医もカルテを手に穏やかな目を向けてくる。
波江は素直に笑顔を返せず、おずおず奥へ進んだ。半開きになったカーテンンの横に処置室と書かれた鉄の扉が見えた。手前に小さなかごが置かれ、灰色がかった手術衣が丁寧にたたまれていた。
「決心は変わりませんか」
女医が優しく問いかける。
波江は返事をせずに、目を伏せながら肯いた。できるのであれば産みたい。でも……考えただけで怖かった。
「すでに五ヶ月をすぎていますから、もう立派な赤ちゃんですよ。事情はあると思いますが、考え直したらどうでしょう」
再度、女医が諭してくる。看護婦も波江の肩に手を乗せてきた。
「すくすく育ってるわよ。赤ちゃん、生きようと頑張ってるんじゃないかしら」
思いもよらぬ励ましに戸惑い、波江は返答に詰まる。
「ねえ、カトリック系の産院を選んだのは、多少でも生む気持ちが残っているからなのよね」
女医が手を握ってきた。看護婦が肩に熱を残して手を離す。横にまわりこんで膝をかがめた。
「よかったら、先生に話してみない」
「話して。力になれると思う」
女医が唇を引き締める。考えもしなかった言葉に決心が揺らぎ、胸の中が温かみにつつまれた。
ちょうど七か月前、私は若い頃にバイオリン奏者を志したこともあって、どうしてもリバイバルされていた「ライム・ライト」という映画を見たくなったのです。上映後、思っていた以上に感動して、しばらく席を立てずにいた私は皆より少し遅れて映画館を出ました。目が赤く腫れていたので、手で顔を隠しながら外へ出たのを覚えています。
でもどうしたわけか、舗道に人だかりができていて駅方向へはまったく進めませんでした。
どうしたのだろう。恥ずかしかったけど、涙で化粧の落ちた顔を人目に晒して覗き込みました。するとそこに、今見た映画と同じ世界が繰り広げられていたのです。
バイオリンの奏でるもの哀しい旋律に合わせ、チャップリンがパントマイムをしていました。
もちろん本物ではありません。ですが感動の余韻を引きずっていたせいもあるのでしょうか、私はそのチャップリンに扮した青年に一瞬で魅せられてしまいました。
だからといって恋したわけではありません。誰もがスクリーンの中の主人公に惹かれるよう、私も青年の演技と映画のチャップリンを重ね合わせて心を持っていかれてしまっただけなのです。
「では、その人が父親なのね」
女医がノートに何やら書き込んだ。
波江は「そうであれば、こんなにも悩みません」と、小さく首を振る。
「違うの?」女医がペンをとめる。波江に向き直った。「続きを聞かせて」
ショータイムが終わり、気がつくと周りには数人しか残っていませんでした。すっかり魅入っていた私は、我を取り戻し、青年の手に抱かれるシルクハットにありったけの小銭を入れて立ち去ろうとしました。
そのとき……青年が「波ちゃん、波ちゃんだよね」と声をかけてきたのです。
えっ? 職場の同僚から村田さんと呼ばれても、波ちゃんと呼ばれたことは一度もありませんでした。そのように親しく呼ぶのは故郷の人だけなのです。
不意に心が緩みました。都会生活に疲れ、自らバリアーを張って生きてきた私の胸に、その言葉が心地よく駆け巡りました。私は青年の顔をまじまじと見つめます。でも、チャップリンに似せてメイクしているため、誰なのかわかりません。
すると「俺だよ、慎平だよ」と、いきなり青年が抱擁をしてきたのです。
私は青年に抱かれながら、すぐに彼が誰なのか思い出しました。そればかりか、バイオリンを弾いている人の顔からかも懐かしさを蘇えさせられました。
二人とも故郷の高校の同級生だったのです。
中でも私を抱擁している人は当時学校中の人気者で、マスクもいいせいかとにかく目立つ生徒でした。家柄も頭もよく、いずれ地元に根を張り、洋々たる未来を築くだろうと誰もが思っていました。
ですが特定の恋人に縛られるのが嫌なのか、その都度違う女性と一緒にいました。いわゆるプレイボーイの類だったのです。
私自身も何度かデートに誘われたことをおぼろげに覚えています。でも私はその頃、後ろで控えめにバイオリンを弾いている人に淡い感情を抱いていました。
夢じゃないかと抱擁をとき、もう一度二人の顔をじっくり見つめました。それぞれ頬に少し肉がついていましたが、至る所に懐かしい少年時代の面影を濃厚に残していました。ですがあまりに唐突で何の前触れもなかったせいで、そのときはまだ、これは夢なのだと疑いのほうが大きかったのですが、徐々に現実だと理解していくうち粋な神様の計らいに心から感謝しました。
夢は潰えたものの私はバイオリニスト、彼はダンサー、それぞれ微妙に道は違っていても同じ芸術を志した者として共感できたのだと思います。「今夜、いやこれからも一緒にいたい」そんな彼の言葉に私は酔いしれました。
今とは違い、その当時は私なりに夢を持っていました。だからこのような狭い世界で弄ばれるのが堪らなく嫌だったのです。しかしながらすでに三十六歳、まして夢破れた女なのです。相手にしてくれる人もいなくなりました。
私たちは居酒屋で再会を祝い、その夜、彼とどちらかともなく求め合いました。私たちは交際をはじめたのです。一つ部屋で一緒に暮らしながら。
でも破局は、それこそあっけなく訪れました。