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死と同じように生も逃げられないんだ。それが人生だ。


                   チャップリン

 あの日、通夜を終えてホームへ戻り、太一が波江さんの遺品をチェックしていたら箪笥の中のバイオリンが消えていた。

 遺族が適当に処分してくれというのを断って、強引に約束を取りつけたばかりだった。その元となるバイオリンが失くなっていれば問題になるのはあきらかだった。

 楽器には詳しくないが、かなりレアだというし、たぶん万単位で三桁以上の値がするはずだ。入居者自身が部屋を忘れてしまうこともあり、また面会によって不特定多数の出入りが避けられないため、基本的に貴重品の所持は禁止なのだが、波江さんたっての希望で当時の施設長が渋々認めたらしい。

 当然その時点で、失くなったときの家族の了承は取っていた。だがそれもさっきの今では信頼性が疑われる。

       

 それにしても、いったい誰が何のために持ち去ってしまったのだろうか。犯罪でもあるし、盗んだ者がいちばん悪いとわかっていても、施設側の管理不行き届きは免れそうもない。

 とにもかくにも施設長に報告しなくてはと、太一は部屋を出た。


 憔悴させた太一が廊下を歩いていると、事務所の手前にある食堂兼娯楽室から夢子さんがひょいと顔を覗かせた。

「暗い顔をして、どうなされたのですか」と、心配そうに声をかけてきた。

「波江さんのバイオリンが見当たらないんだ」

「まあー!」

「困ったよ。三日後に、遺族の人が引き取りにくる予定なんだ」

 と、太一は娯楽室を覗いた。午後八時をすぎているためテレビの前には数人しかいなかった。いつもなら、この時間、必ず娯楽室にいるはずの源さんの姿も見えなかった。

       

 夢子さんが近づいてくる。

 七十七歳、父親の介護をしていて婚期を逃してしまった女性だ。男手一つで育ててもらったため、その親を見すてて深い交際をする男性と結婚するわけにはいかなかった。結局、父親が亡くなった頃には恋人もすでに去っていて、夢子さんも四十半ばになっていた。さすがにこの年齢まで達すると、小さな村で伴侶を見つけるのは困難だ。かといって遊びで異性と枕を共にする勇気はなかった、と夢子さんは言った。

 結局、四十七歳のときに東京へ出る決意をした。ただし新天地で新たな希望を見出そうという前向きな考えではなく、狭い地方生活にほとほと嫌気がさしたからだったらしい。でも、所詮田舎出身の限りなく初老に近い中年女。言い寄ってきたのは皆ろくでもない男ばかりだったと言う。

       

「もしかしたら、源田さんが……そのバイオリンの行方を知っているかもしれません」

 と、耳打ちするかに小声で言った。

「源さんが?」

 意外だった。太一は驚きを隠せなかった。なんのためにという思いが湧いた。だが一応確認する必要はある。夢子さんに「ちょっと源さんの部屋へ行ってみる」と言って、階段を上がった。

       

 源さんは寝ていた。太一は静かに引き出しを開けて調べた。下着やら靴下ばかりで波江さんのものと思われる品物は見当たらなかった。ガセだったかと夢子さんの情報を疑いつつ、念のためベッドの下を覗いた。黒いものが見えた。手を伸ばして引っ張り出すとバイオリンケースだった。

 ほっと安堵した後、すぐにもどかしさにつつまれた。なぜ源さんは持ち出してしまったのだろう。理由はわからないが、このままでは大問題になる。太一は理由を聞きだそうと思った。

 しかし、いくら身体を揺すっても頭から布団んにもぐって反応しない。もし熟睡しているのなら、そっとしておくべきだと思ったが、事情が事情だけにそうもいかなかった。

       

 顔を近づけた。

 と、不自然で露骨ないびきが聞こえた。いや、いびき自体は自然でそれほど露骨とは思わなかったが、布団の端を殊の外強く握っているのが不自然だと感じた。普通に寝ていれば力が抜けているはずだ。強く握らない。それで太一は、狸寝入りに間違いないと判断して布団に手をかけた。

「おやめになったほうが、いいかと」

 遅れてやってきた夢子さんが、太一の上に手を重ねて押しとどめる。

 どうして? 太一は手を布団から離して理解に苦しんだ。

「もしや、源田さんは泣いているのではないでしょうか」

「なぜ、泣く必要がある」

「太一さん、あなたも野暮なこと聞きますね」

       

 夢子さんもそうだが、源さんも認知症ではない。預金や身寄りがなく、一人暮らしが困難になったため優先的に入居してきた人たちだ。そのぶんずっと働いてきた人たちなので世間の辛酸を舐め続けている。

 それは理解できるのだが、他人の私物を隠匿するのは犯罪行為だ。本部に届け出をすれば即退去対象になってしまう。それに、その理由を説明しないで狸寝入りを決め込む心理が理解できなかった。身内でもないのにだ。

 身内? 太一は自分のふと漏らした言葉にはっとした。まさか……?


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