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私は雨の中を歩くのが好きだ。
そうすれば、誰にも泣いているところを見られなくて済む。
チャップリン
浅い眠りの耳底に、時を巻き戻すかのような雨音が響いている。
リズムは幻想的で、切なく、ときに激しく打ちつけている。そんな陶酔を誘う雨音の中に紛れ込む……異質な音を感じとり、私は目を覚ました。
彼が扉に手をかけ気まずそうに立っていた。わずかに開いた戸の隙間から仄白い常夜灯の光が湿気に滲んで揺れている。
どこへ行くの?
不安に駆られて訊くと、悪びれずにトイレだよ、冷えるせいか近くてね。と、彼はバッグを片手にいつもと変わらぬ調子で答え、すぐに戻るからさと扉を閉めた。
嘘つき。
私は光を遮断された部屋の中で、彼の残像を追いながら弱々しく首を振る。
予感はなくはなかった。十五年間質素なOL生活を送り、せっせと貯め込んできた預金もこの一年で底がつきはじめている。これ以上援助を続ければ破滅するのはあきらかなのだった。
でも……と、迫り出したお腹をさする。
直後、突き上げる情動から夜具を払いのけ、お腹をかばうようにして起き上がる。パジャマの上から厚手のカーディガンを羽織って窓辺に向かう。硝子越しに外を覗き込むと、雨でくすむ舗道に、愛着のある黒い影が傘もささずに遠ざかっていくのが見えた。
ひどい。
私は両手でお腹をつつみ込むようにしてから顔を覆い、へなへなその場に蹲る。が、ひとしきり咽ぶと反動で立ち上がり、憑かれたように黒い影の跡を追った。
静まり返った廊下を、心もとない常夜灯の光を頼りに歩いた。数メートル進んだ所で、はて、ここはどこなのだろうと頭に素朴な疑問をよぎらせた。下町の六畳一間のアパートにしては異様に廊下が長すぎるのだ。しかも、床も壁も馴染んだ板張りではなくコンクリートであった。
もしや愛する男にすてられたショックで頭が錯乱してしまったのだろうか。それとも激しく感情が揺れたせいで、どこか別世界へ飛ばされてしまったのか。私は胸に手を当て興奮を鎮めると、大きく深呼吸して、彼が向かった駅へ行くことだけに意識を集中させた。
正面玄関の手前の部屋から煌々と明かりが漏れている。すぐに大家さんの居宅だと一人合点するのだが、確か大家さんは向かいに一軒家を構えているはずだ。ならば、いつから誰が住んでいるのだろう。またぞろ不思議に思いつつ、やはりそれでもこの情景の意味を探れないまま、忍び足で壁伝いに歩き、白い服を着た男がテレビ画面に見入る一瞬の隙を突いて部屋を通りすぎた。
外へ出ると、晩秋の雨は思いのほか冷たかった。まるで氷で、その冷たい雨粒は意思に反して容赦なく目に入り込み、狭い視界をさらに狭くした。ときおり通過する車のヘッドライトも濡れた路面に乱反射して、私の生まれ育った雨氷にも似た懐かしい光の洪水をつくりだす。
そのうちしだいに風も強まり、煽られた銀杏の葉が次から次に吹き飛び、舗道へ落ちずに勢いよく空へ舞い上がった。カーディガンも凧のようにばたばたはためいた。私はかじかむ指で、はだけた衣服の前をどうにか合わせ、雨と風に震えながら彼の跡を追った。でもそのとき、思ったように足が進まないことに気づく。
悪天候で転んではいけないと、本能的にお腹の子をかばっていたのかもしれなかった。ごめんね。少し急ぐからといったん歩みを緩め、済まなそうに両手で触れると……迫り出ていたはずのお腹がへこんでいた。
えっ? 私は、よろよろ立ちどまる。もしかしたらと恐る恐る顔に手を当ててみる。潤いがなく、まるで老人のようにがさがさだった。
頭の中が真っ白になる。そんなばかなと、今度は外灯に手をかざして甲の部分を凝視した。やはり皮膚がたるみ、しわだらけだった。
これは何、どういうこと?
私は絶句し、放心して、ふらふらと猛スピードで押し寄せる光の洪水の中へ吸い込まれていった。