第一話 スモールワールドⅤ
乾はアリアと五道が出て行った直後、小さくため息をついた。
どうしても昨日のアリアの言葉が頭から離れない。本当に昼寝をしていただけなのだろうか──いや、多分それはないとすぐに否定する。
「……私と同じように、きっと何かをされている」
乾は下唇を噛んだ。だから、なんとしてでもあのキンパツを透視する。そう決意して顔を上げた瞬間、食堂の自動ドアが開いた。
「あっれー? もしかして俺、また部屋を間違えた? くっそぅ、こうなるならナミダちゃんか小町に案内頼むべきだったかなぁ……ってうわぁ?! びっくりした、座敷童子か?! いや本当に座敷童子だったら俺殺される! ナミダちゃーん! ナミダちゃぁーん! お前の術でやっつけてくれっ!」
「うるせぇ黙れ!」
乾の飛び蹴りは銀髪の少年の胸元に当たった。背中から落ちた銀髪の少年に馬乗りになり、乾はじろりと彼を睨みつける。
アリアが来る数日前に乾はこの施設に来たが、この少年は今まで一度も見たことがなかった。不審者が侵入するほど施設のセキュリティは甘くないはずだが、勘でわかる。この少年は外部から来た者だ、と。
「ぐぇっ、痛い! 殺されたんだ! 俺は革命を成し遂げる前に死んだんだ! あぁ、悔しいなぁ! このとち狂った世界を変えたかったなぁ!」
「死んでねぇよ殺すぞ」
「ほんとだ、まだ生きてる?! あぁでも俺は殺されるんだな!? くそぅ、見逃してくれ! 俺は革命を成し遂げなければならないんだ!」
乾は舌打ちをして少年に馬乗りするのを止めた。この少年とはどうしても話が合わない。どこかアリアに通ずる部分を感じて、乾はもう一度舌打ちをした。
「あんた誰」
「え、俺? 名前言ったら見逃してくれるのか?!」
「誰」
「わ、わかった! 俺の名前は白院・N・桐也! これでいいか?!」
乾は口を噤んだ。予想外の名前を聞いて、乾は慌てて「ダメ」と返す。
「なんで?!」
「白院家は、《十八名家》の一つだ。その人間がなんで同じ《十八名家》の綿之瀬家のテリトリーにいる」
「なんでって、ここの施設長に呼ばれたんだ! 施設長の名前はなんだっけ……? まぁいいや! とにかく小町のとこに行かないと、俺の革命は始まらない! 座敷童子さん、案内してほしいんだけどオッケー?!」
乾はわけのわからない言葉を話す桐也のコバルトブルーの瞳を見つめ返した。嘘を吐いているようには見えないのに、理解に苦しむ。
「私は座敷童子じゃねぇ。……乾だ」
せめて名前を訂正をすると、桐也の眉が少しだけ動いた。
「乾? どっかで聞いた名前だなぁ……待って! 苗字聞いたら思い出しそう! 苗字は?!」
「捨てた」
胡桃色の髪を掻き上げて、乾はそれだけを呟いた。
桐也がバカで良かった──。桐也は本当にどこかで乾の本当の名前を聞いたことがあるのだろう。どうか、そのまま忘れたままでいてほしい。昔の名前は言葉通り捨てたのだから。
「ふーん。まぁ、俺もこの名前捨てられるなら捨てたいし。いっか!」
「……白院の方?」
「そうそう! あぁ、生まれ変わるなら白院家以外の家がいいなぁ! 分家とはいえ、やっぱ白院家の名前は嫌いだし!」
乾は黙って桐也を見下ろした。
手を伸ばし、寝そべったままの桐也を起こす。話は噛み合わないが、桐也のそういうところは嫌いではなかった。
「小町のとこだろ? 案内する」
「っわ、マジで?! やった! 乾、ありがとな!」
自分も小町のところに行かなければならないから──ということは言わないでおいた。
階段を上がり、すぐ傍にある小町専用の実験室の扉を叩く。扉を開けた小町は目を見開き、乾と桐也を中に入れた。
「遅いと思ったら、二人で行動していたのね」
「小町! やっと会えて嬉しいぞ!」
「小町、じゃないでしょ。私は年上よ?」
「なんで?! 小町は小町だ!」
「本当にいつも話が通じないわね、桐也は……。乾、桐也は放っておいて今日も箱の中身を透視してみなさい」
桐也の頭を上から押さえた小町は、奥に置いてあった白い箱を視線で示す。
「わかった」
乾は頷き、表情が動かないように細心の注意を払って透視した。箱の中身ではなく、隣の亜子の実験室を透視する為に。
神経を研ぎ澄ませると五感が自分の体からすうっと離れた。感覚が完全に消えた時、透明になった壁からうっすらと四人の人影が見える。この状態を逃さないように集中力を高めると──
(いやっ、やだよ!)
──アリアの心の叫びが聞こえた。
状況なんてよくわからないのに、恐怖心が心の中に流れ込んでくる。それは自分から生まれる心ではない。アリアから生まれた心だと理解した瞬間、乾は怯えた。次第に体全体が、震え始めた。そんな乾を、小町と桐也が不思議そうに眺めていた。
「……どうしたの?」
小町が声を低くして尋ねた。
「いや、やだよ……?」
「い、乾? 何が?」
桐也が乾に手を伸ばすが、乾は思い切りその手を払って自分の体を抱き締める。
「まさか、また心を視たの?! しかもその反応は……アリアね?!」
(血を見たくない……回復……)
血、って、なんのことを言っているのだろう。
アリアの身に、一体何が起きているのだろう。
「答えなさい、乾!」
乾の腕を力強く掴み、小町はすぐに力を強めた。腕の痛みが乾の能力を徐々に低下させていき、乾の意識は目の前の小町の方へと移る。
「ちょっ、離せ!」
慌てて小町の腕を剥がそうとすると、辛うじて残っていたアリアへの意識が再び開いた。
(……へいき?)
平気? アリアはまた、何を言っているのだろう。
乾は顔を歪めた。平気なことなんて今までの感情からはどこにも感じられなかったのに。
(……どうして?!)
いや、違う。
〝へいき〟は〝へいき〟でも、〝平気〟じゃない。
「……〝兵器〟?」
「乾、本当にどうしたんだよ! 箱の中身は兵器じゃないぞ?!」
(でも、私の力は……よくわかんないけど、るいるいみたいな人の傷を治すことでしょ? 傷つけてないもん、私は誰も傷つけてないもん……!)
乾は下唇を噛んだ。
どういうことなの。こんなに強い力を持っているのになんにもわからないことが悔しかった。
「小町、乾はどうしたんだよ!」
「まさか、まだ能力が発動しているというの……? 桐也、なんとかしなさい」
「俺?!」
「えぇそうよ。涙は痛みに鈍感だからアリアの担当になったの。桐也は頭の中がおかしいから乾の担当になったのよ?」
「いやよくわかんないよ小町! 頭がおかしいとか今の状況関係ないし!」
「バカなりにこの世界に革命を起こそうとしてるんでしょう? だから涙と一緒にここに来た。無駄に行動力はあるんだから乾の気を逸らすことくらい簡単よ」
二人の会話は聞こえていた。それでも乾は、普段自分が感じていた以上の不安をアリアから感じて体が動かなくなっていた。
「違う……?」
アリアは不安の根源を否定している。
それはわかるのに、肝心の根源がわからない。
「そっか、なるほどな! よし乾、俺を見ろ! バックてーん……いったぁ?! くそぅ失敗した!」
「バカね、桐也は。でも、もしかしたら面白い結果が出たかもしれないわ」
「え、俺って面白い?!」
「貴方じゃなくて乾よ。箱の中身を当てることよりも、人の感情を透視する方がこの子には向いているのかもしれないわ」
自分の感情とアリアの感情が混じり合い、乾は耐えきれなくなって涙を流した。
これは自分自身の涙なのだろうか。それとも、アリアが今流している涙なのだろうか。
知りたいたいことを知ることができない自分の能力が嫌になる。鍛えたら思いのままになるのだろうか。それまでの間、こんなに苦しい思いをしなければならないのか。
「うわっ、乾?! ナミダちゃんじゃないんだから泣くなよ!」
「桐也、貴方まだ涙のことを〝ナミダちゃん〟なんて呼んでいるの? 涙は乾の二歳年上で男の子よ? 涙よりも乾やアリアの方が泣くのは当然だわ」
乾は今すぐにでもアリアの無事を確かめたかった。これほどまでに人の感情を揺さぶれるということは、五道の仕業なのだろう。昨日も今日も五道が一緒だったのなら、自分の経験上絶対に無事なわけがない。
(私は〝兵器〟なの?)
違うよと、頬を引っぱたいて否定してあげたい。
(じゃあ、それじゃあ、私は──なんでこの世界に生まれてきたの?)
どうしてそんなことを言うんだよと怒ってあげたい。
乾は自分の出生を思い出して、何度目かはわからないが下唇を噛んだ。
「ッ!」
「んっ? おい、どこに行くんだよ!」
桐也に腕を掴まれる。
「離せ! 今からキンパツのとこに……」
「ダメよ、向こうの邪魔をしては」
乾が振り返ると、心配そうな桐也の表情がそこにはあった。そしてその奥にいる小町が取り出した投げナイフを見て、乾はすんなりと抵抗を止める。
「…………」
「いい子ね。もう少しで終わるから」
小町は微笑み、投げナイフをしまった。乾の表情しか見ていなかった桐也は、コバルトブルーの瞳をまばたきさせて乾の碧眼を見つめていた。
報告書を書き上げた小町の「はい、終わり」を聞いた瞬間、乾は実験室から飛び出していく。瞬間に誰かにぶつかって、尻もちをついた。
「……ッ!」
「平気ですか?」
顔を上げると、薄花色の瞳と目が合った。
「乾! 急に飛び……っあ、ナミダちゃん!」
「桐也ですか。急に抱きつくのは禁止です。あと、俺の名前はルイです。ナミダではないです」
「誰だよ、あんた……」
乾は言葉を続けられなかった。ナミダちゃんと呼ばれた涙の、袖口に付着した血痕が生々しい。
「……なんだよ、その血」
「わっ、マジだ! 大丈夫かナミダちゃん!」
「問題ないです。アリアが治癒してくれました。あと、俺の名前はルイです。ナミダではないです」
「治癒? じゃあ、キンパツの血じゃないんだな?」
短く頷く涙を見て、乾はほっと息を吐いた。そしてすぐに目の色を変え、涙に飛び蹴りをした。
「ナミダちゃん?! ちょっ! 乾は急にどうしたんだよ!」
「あんたか。キンパツのすぐ傍にいておいて何もしなかったクズは」
アリアがいて、五道がいて、亜子がいたあの空間で傷ついていくアリアに何もしなかった唯一の人物。
五道と亜子は施設側の人間で、アリアの味方をしないことは小町を見ていたらわかることだった。桐也でさえ自分を気遣ったのに、涙は、傷つくアリアを見てもなんの感情も動かさなかったのを乾は全身で感じていた。
「理解不能です。理由なき暴力は悲しいです。あと、俺の名前はルイです。ナミダではないです」
「本当に悲しかったのはキンパツだ!」
涙の胸ぐらを掴むと、誰かが走ってくる足音が聞こえてきた。それでも乾はやめなかった。
「それ以上はあかんよ」
「あ、食堂の人!? いいところに来てくれたな!」
給仕の青年はニコニコと笑って、乾を涙から引き剥がす。こいつも施設側の人間だ。味方はこの中に一人もいない。
「邪魔するな!」
「ごめんなぁ。君が怒る気持ち、俺はちゃんとわかっとるよ」
給仕の青年は暴れる乾を抱き締めた。その抱擁があまりにも優しくて、視線を上げると給仕の青年は笑っていた。
「ここの人たちがやっとることは、絶対に許されることやない。けどな、怒ったって何も変えられへん。この子たちに暴力を振るうのも間違っとるし、俺はそれも許せへんよ」
「なんっ、だよ! 何も知らねぇくせに! お前が一番何もしてねぇくせに!」
「せやなぁ……」
給仕の青年は、乾を離した。それでも乾は給仕の青年を殴ることができなかった。給仕の青年が心の奥底を見せることはなかったが、深い悲しみだけは能力を使わなくても伝わってきたのだ。
本当に何もしていないなら、表向きは養護施設となっているここに青年がいる意味はない。名前さえ名乗ることを許されない給仕の青年は、悲しそうに笑って涙に声をかけた。
「おいで、涙。その服、施設長に洗うように言われたんやろ?」
「肯定です」
「桐也。暇なら洗うの手伝ってほしいねんけど」
「お、おう! 任せとけよ!」
「君は部屋に戻り。あの子は君には救えんよ」
去っていく給仕の青年と二人を呆然と眺め、今は何も感じない心のまま乾は給仕の青年の言葉通り部屋に戻った。しばらくベッドに横になっていると、すぐに扉が開いてアリアが顔を出す。
「ただいまぁー!」
「ッ?! お、おかえり……」
乾はアリアの態度に目を見開いて、混乱した。
どうしてあれほどの恐怖と不安を与えられたのにそんな風に笑っていられるのだろうか──そう思って、その瞬間アリアの笑顔と給仕の青年の笑顔が重なった。
──嘘だ。
アリアは、あの給仕の青年と同じく無理矢理笑っているだけのだ。
『あの子は君には救えんよ』
それも嘘だ。
乾はベッドから這い出てアリアの腕を掴んだ。その腕は驚くほど細くて白い。よくよく見ると人形のように綺麗な顔をしている異国の子は、不思議そうに首を傾げていた。
乾は無理矢理アリアの腕を引っ張って、まだ開いたままの扉から一歩ずつ外に出る。
「えっ?! ちょっ、何? 離してよ、どこに……」
「逃げよう」
「……え?」
とても腑抜けた声だった。
もっと驚いたり喜んだりしてもいいのに。
「だぁーかぁーらっ、逃げるの!」
振り返ると、笑っていない、戸惑った表情のアリアがいた。どうしてそんな表情をするんだろうと逆に乾が戸惑うくらい、アリアは喜んでいなかった。けれど、きっと、こうすることが一番いい。
「ダメッ!」
瞬間、アリアが腕を引っ張り返した。
「なんでよ!」
「私はっ、誰かと仲良くなっちゃダメなの! だから、行くなら一人で……」
「キンパツがいなきゃ意味がない!」
「……でもそんなこと!」
アリアが困っているような気がした。
そんな表情をたった今させているのは自分なのだと気づいて、少しだけ乾は考える。自分より苦しくて悲しい思いをしているアリアが、嘘を吐くことなくちゃんと笑える方法を。
「できる。でも、キンパツが逃げたくないならこうしよう?」
給仕の青年が言っていたのは、このことだったのかもしれない。
「抜け出してみよう」
「どうやって?」
「私の能力で」
「──ッ!」
ほんの少しだけ見せてくれたのアリアの笑顔が、乾の心をほんの少しだけ軽くした。