第一話 スモールワールドⅣ
「二人とも、今日も残さず食べてくれたんや〜。俺、めっちゃ嬉しいわぁ」
給仕の青年はニコニコと笑い、アリアと乾の皿を下げた。瞬間、食堂の自動ドアが開き白衣姿の五道が姿を現す。
五道は無言で給仕の青年を一瞥した。青年は笑顔を崩さないまま、五道から視線を逸らした。
「施設長、すみませ〜ん。俺、もう戻りますんで」
青年が立ち去るのを待って、五道はアリアと乾に向き合う。
「おはよう。今日も行こうか」
「うんっ! お勉強やるー!」
アリアは青年と同じニコニコ笑顔で立ち上がった。乾の方に視線を移すと、乾は呆然と目を見開いたままアリアのことを見上げていた。
「どうしたの?」
昨日はあれから一切話をせずに眠ってしまった。だから、乾の疑うような視線の意味を、なんとなくではあるがアリアは理解していた。それでも聞かずにはいられなかった。
言葉を濁した乾は、アリアの想像通りアリアのこもを疑っていた。アリアの〝嘘〟でもあり〝真実〟でもあるあの言葉に隠された出来事を乾はまだ視ることができなかった。
「……なんでもない。先に連れて行ってもらいなよ、そんなに楽しいならさぁ」
だからそう吐き捨てた。
怒り。悲しみ。不安。
それらを幼いながらに苛立ちに変えている乾は、これ以上アリアを見たくなくて彼女から視線を逸らした。
「アリア君」
「……おじちゃん」
「行こう。乾君も後で連れていく」
アリアは五道の元へと駆け寄った。今日は抱き締めたりも手を繋いだりもしなかった。
「今日もあこりんのところに行くの?」
亜子の怖い夢を見たアリアは、少しだけ怯えながら五道に尋ねる。五道は顎を引き、「あぁ。君の担当は亜子君だからね」と説明した。
「あの子は?」
「乾君は娘の──小町の担当だ。それと、今日は別の人間も君の勉強に立ち会うことになったから、そのつもりでいるように」
五道は、二階にある前回も使用した実験室へとアリアを通した。亜子専用の実験室は、小町専用の実験室と同じように家具が極端に少なかった。
「おじゃましまーす!」
「あらあら、アリア。今日はちゃんと時間通りに来たのですねぇ?」
亜子は昨日と同じく黒ずくめのワンピースをパタパタとはためかせながらアリアの顔を覗き込んだ。アリアが思わず身を引くと、そんな亜子の後ろから少年が顔を出したのが見える。少年は、五道を見上げて不満そうに頬を膨らませた。
「施設長、勘弁です。俺は土曜の朝は寝ていたいです。睡眠時間を要求します」
「仕方ないだろう、涙君のスケジュールは休日しか空いていないんだから。……涙君が結城家の分家で助かったよ、本家だったら休日でさえ空いていないんだろうからね」
「同意です。ですが、施設長は俺をこき使い過ぎです。アリアの書類や住民票は用意できても、陰陽師の重要資料の保管場所は教えられません。それは裏切りです。俺の首が飛びます」
「裏切り者ならば子供の首も刎ねるのか。恐ろしいね、陰陽師は。……アリア君、彼は結城涙君だ。君よりも二歳年上の中学生だよ」
アリアは涙を見つめた。同じくらいの身長の少年は、不満げでありつつも完全に嫌がってはいない。
「るいるい、よろしくね!」
だから安心して手を伸ばした。涙は頷き、アリアと固い握手を交わす。
「よろしくです、アリア」
そう言って小さな笑みを零した。
「ねぇねぇ、るいるいは外から来たの? どうしてここにいるの?」
涙は薄花色の瞳を見開き、困ったように桑茶色の髪を掻く。
自分は何かまずいことでも言ったのだろうか。涙袋と泣きぼくろが特徴的な綺麗な顔は、こんな質問を受けると思っていなかったのか本当に困惑し切ってきた。
「……俺は、陰陽師であり《十八名家》でもある人間です。俺たちは常に、この町に潜在する妖怪と戦っています。なので俺は、この町を、人を、守りたいです。それが俺の夢です」
だが、アリアには涙の言っていることの半分も理解できなかった。それでも徐々に輝き始める涙の瞳から目が離せなかった。
「俺の夢はここで叶います、アリア。その為に俺は、君の力を借りたいです」
まっすぐな瞳でそう言われると拒否できない。儚げな雰囲気を纏っている彼の頼みを断れる人間なんてこの世界にいないんじゃないだろうか、そんなことを思ってしまう。
「私からもお願いなのでーすよぅ、アリア。私はアリアに、私がどれほど望んでも手に入れることができない力を託したのでーすよぅ。乾の力は唯一無二ですが、アリアの力は多くの人が持っていてほしい力ですからねぇ。アリアがその力を使ってたくさんの人を救うことが、私の夢なのでーすよぅ」
顔を上げると、亜子の笑顔がそこにはあった。
あの時見た亜子の笑顔は嘘ではなかったのだ。そのことを知れただけでも良かったのかもしれないとアリアは思う。
「さて、そろそろいいかな? アリア君。今日は私の手伝いをしてもらうよ」
「え、お手伝い?」
「少し離れてなさい。そこから見ていておくれ」
「わ、わかった」
アリアは大人しく数歩下がった。五道の合図で亜子がワンピースの中から短刀を取り出し、アリアによく見えるように短刀を角度を変えて見せてくる。そして、彼女は涙をまじまじと見詰め、彼の腕を切りつけた。
小さな世界が、赤く染まった。
何が起きたのかまったく理解できなかった。理解することを拒んでいたのかもしれない、叫び声を上げることもできないまま、アリアはその場に呆然と突っ立っていた。
「アリア君、おいで」
そのあまりにも落ち着いた声に違和感を覚えながら、恐る恐る五道の方へと近づいていく。足元からピチャッという音が聞こえるまで、アリアは床を一瞬でも見ようとしなかった。
「水……? えっ?! 血?!」
「何を驚いているんだい? 当然だろう? さっき見たじゃないか」
「じゃあ、やっぱりさっきの赤色……るいるいっ!」
「…………」
涙の方へと視線を移すと、涙は無表情のまま流れる己の血を見つめていた。アリアが上手く理解できなかったのは、痛みを表現しない涙のなんでもないその表情があったからだった。
「いやっ、やだよ! るいるい痛くないの?!」
「平気です。俺は痛みに鈍感です」
「あこりんは?! なんでるいるいを……!」
「別に涙に恨みはないでーすよぅ? 涙を切ったのはここにアリアがいるからですしぃ」
なんでもないのは亜子の表情も同じだった。
アリアは蒼目を見開いて、狂気を滲ませる二人から数歩距離を取る。
「安心したまえ。その為だけに君が存在しているのだから」
「……ど、どういうこと?」
「こういうことだ」
「ッ?!」
五道はアリアの手を引き、涙の腕に無理矢理翳す。
「さぁ、アリア君、もう一度君の力を使うんだよ」
「ち、力……? さっきからおじちゃんたちは何を言っているの?! 全然わかんないよ! 血なんて見たくないよっ!」
昨日見た夢は夢ではなかった。
最後の記憶は、どうしようもないくらい真実だった。
「見たくないのなら、早く君の能力を使って回復したまえ」
「やり方はアリアの中に流した血が覚えているはずでーすよぅ。アリアは乾以上に妖怪の血に対する適正があったのですからぁ」
「……ッ!」
アリアは涙の薄花色の瞳を見つめた。本当に何も感じていないのか、涙の中身は夢があっても空っぽだった。
「……痛いの……」
「痛い、ですか? 何故、アリアが?」
首を傾げた涙の傷口にそっと触れる。
「……痛いの痛いの、飛んでいけ……」
ポウッ──と、アリアの両手に淡い黄金色の光が灯った。
「これは……」
五道が目を見開く。亜子は黄緑色の瞳を耀かせ、夢への第一歩を今か今かと待ち構えた。
「血を見たくない……回復……。血を見たくない……回復……」
アリアが呟く度に、涙の傷口が徐々に塞がっていく。切りつけられた服さえも修復され、後にはこべりついた赤い液体だけが残る。
「…………はぁっ……っ、はぁ……!」
滝のような汗を流して、アリアは思わず膝をついた。
「アリア、すごいでーすよぅ! 疲れたんですねぇ? 大丈夫、ゆっくり休むでーすよぅ!」
亜子はアリアを抱き寄せて、自らの膝にアリアの頭を乗せた。アリアの金髪を撫でる亜子は、傍目から見るとアリアの姉のようで──涙はいつまでもその様を眺めていたいと思った。
「施設長、洗濯を要求です。血がついたままでは帰宅困難です」
「もちろんだよ。ここから出て、〝彼〟の部屋に行きなさい。頼めばすぐにでもやってくれるだろうから」
「了解です」
涙が退出し、微かな息切れが消えたところで、五道は亜子の膝の上で休むアリアに声をかけた。
「アリア君、君は〝兵器〟なんだよ」
「……へいき?」
薄く目を開けて、アリアは五道を見上げる。
「そうだ。だからアリア君は、誰かと仲良くなっちゃいけないんだよ」
「……どうして?!」
理解できなくて思わず起き上がると、酷い頭痛が襲いかかった。その頭を優しく撫でたのは、亜子だった。
『──Get to remain life of children』
一生子供のままでいなさい、誰かが言ったその言葉がアリアの脳裏にふっと浮かぶ。それが今のアリアを作った礎のような気がして、反射的に「私はどうすればいいの?」と小声で尋ねた。
「何もしなくていいんだよ。〝兵器〟は人を傷つけることしかできないのだから」
「でも、私の力は……よくわかんないけど、るいるいみたいな人の傷を治すことでしょ? 傷つけてないもん、私は誰も傷つけてないもん……!」
「違う」
断言した五道の圧がアリアを襲う。強ばった体はまったく動かなかった。
「五道せんせぇ、あんまりアリアをいじめないでほしいのでーすよぅ。私はアリアに夢と希望を託してるのですからねぇ? 私の夢と希望を〝兵器〟と呼んだら嫌でーすよぅ」
「それは悪かったね、亜子君。君は私がスカウトした頃からそんな夢を抱いていたのを忘れていたよ。私の配慮が足りなかったね」
「私に謝られても困るのでーすよぅ。ねぇ? アリア。五道せんせぇは小町が生まれる前から研究オタクらしいですしぃ? また忘れてこれからもそう言い続けるのは目に見えているのでーすよぅ」
「辛辣だが、否定はできないな」
亜子は頬を膨らませて、撫でていたアリアの髪を指で梳いた。
亜子は悪人なのか、善人なのか。
少なくとも、その指は今まで触れられてきた中で一番優しく、一番温かかった。
「アリア君、言い過ぎたことは謝るよ。けれどあれは真実だ。君は〝兵器〟になる為に生まれてきた、〝道具〟として扱われる為だけに生まれてきたんだ」
「ちっ、違うもん!」
「いいや、真実だ。そしてこの町で人工半妖として暮らしていく君は、いずれ嫌でも思い知るだろうね」
亜子はくすくすと、「そうさせたのは五道せんせぇでーすよぅ」と笑う。
「亜子君はしばらく黙っていてくれたまえ……。アリア君、君が嫌がった血が亜子君が愛している癒しを呼ぶ。そこから新たな戦いが生まれることを、君は嫌でも思い知ることになるんだよ」
アリアは黙って五道の話を聞いていた。
理解できていないことはたくさんある。理解できたのは一つだけ。自分が〝兵器〟なのだということだった。
(じゃあ、それじゃあ、私は)
五道の言葉を幾度も脳裏に刻み込み、アリアは静かに蒼目を閉ざした。