第一話 スモールワールドⅢ
乾はアリアが入っていったはずの隣室を気にかけながら、真っ暗な部屋の電気をつけた。余計なものをすべて排除した生活感のない部屋を訪れるのは、今日で三度目だ。
アクリル製のベッドを眺め、乾はパイプ椅子に座っている女性に気づく。目が合うと、何故かはわからないがいつも以上に嫌な予感がした。
「どうしたの? 乾」
女性は、表向きは養護施設として登録されてある研究施設の施設長──五道の一人娘だった。綿之瀬小町は、そわそわと体を動かす乾に尋ねる。
二十歳の亜子と同い年の小町。漆黒のくせっ毛を一つに纏めており、知性を感じさせるショッキングピンク色の瞳に乾が映る。五道と同じ種類の、少しだけサイズが大きい白衣を引きずりながら小町は乾の目の前でしゃがむ。同じ目線になった。乾は慌てて俯いた。
「……なんでもない。勉強って、今日は何するの?」
「前回前々回で、乾の体内に半妖の血を混入させることには成功したわ。だから今日は、〝とあるもの〟を透視するの」
「……は?」
「陰陽師が管理する、重要資料の保管場所」
「……ッ?! む、無理っ! そんなのできない!」
「できない……?」
乾は首を横に振って小町の命令を拒んだ。小町は目を細め、立ち上がって青ざめる乾を見下ろす。
「貴方には貴重なサトリの血を混入させたわ。サトリの半妖能力は、我々の推測だと透視と予知。できないわけはないの」
「今まで何度か試したけど、私が知ってるのじゃないと無理っ!」
怯えながら乾は告げた。五道はまだ怖くない。アリアは論外だ。それでも小町は別だった。
「……そう。ならもういいわ。この箱の中身を透視しなさい」
乾は小町の顔色を伺う。小町はいつの間に出していたのか、投げナイフを白衣の内ポケットにしまっていた。
「この箱の中身は?」
「……ッ!」
集中しろ。小町は子供でも容赦しない。経験上、乾はそう理解している。
「…………」
「できないの? そうならそうと早く言いなさい」
「ッ!?」
首元に冷たい何かが押し当てられた。投げナイフを再び取り出した研究者の小町は、狂気さを滲ませた瞳で乾を刺している。
「…………本当に貴方は使えないわね」
──すぅっ、と。小町に見捨てられた刹那、五感が乾の体から離れた。驚いて目を見開くと、小町の体が透けて〝精神〟が視える。
(貴重な血を無駄にしたかもしれないわね……。けど、十一歳前後で能力が出現するのはオリジナルの話であって人工の話ではないわ。本家の半妖も能力出現には時間がかかるようだし、こうして冷たく当たって恐怖心でも与えれていれば嫌でも視えてくるのかしら?)
乾は呆然と小町を見上げた。小町に対する恐怖心は一瞬で萎み、今まで何を考えているのか読めなかった小町の感情が視覚で段々と視えていく。
「……わざと怖い人を演じてるの? あんた」
「ッ、へっ?! な、何を言っているの貴方!」
「…………」
「ちょあっ」
乾の碧眼に見つめられ、小町はたじろきながら数歩下がった。投げナイフが小町の手から滑り落ち、音をたてて転がっていく。
「……チッ。貴方の能力は無意識なのね」
「…………」
小町は投げナイフを拾い、再びしまった。そして罰が悪そうにパイプ椅子に座り直す。
「能力が出現したってことはわかったから、今日は大収穫としてあげる。早いうちに制御できるようになりなさい」
乾は小町から視線を逸らしてアリアがいる隣室を見つめた。
──まだ、嫌な予感が乾の胸の中で疼いていた。
*
『なるほど。回復対象は他者のみ、か。自然治癒能力も多少はあるが……これではね』
『あーあ、気絶しちゃったのでーすよぅ。意外と脆いんですねぇ? 五道せんせぇ』
『これでも一応、十一歳の少女だからな』
『ならば別の子供を受け入れるだけでーすよぅ。サトリは森に行ってわざわざ血を流させないとダメですがぁ、座敷童子の血ならば芽童神家の本家から奪うだけですからねぇ』
『……その時はまた頼むよ。さて、アリア君。起きるんだ』
五道は眠るアリアの肩に手を置いて揺さぶった。アクリル製のベッドに横たわるアリアは、蒼目をゆっくりと開いて五道と亜子を視界に入れる。
「……ん? あれ、私……あ……あっ! いやぁあ!」
五道は、ベッドから落ちそうになるアリアを受け止めた。アリアは五道から亜子へと視線を移し、怯えた目をしてすぐに俯く。
「どうしたんだい、急に寝てしまって」
「……え? 私、寝てたの? じゃああれは……」
「どうやら悪い夢を見ていたようだね」
五道は微笑み、アリアの頭を軽く撫でた。
「……夢? でも、とっても……」
「よく見てごらん。〝なんの傷もないだろう?〟」
アリアはそっと自分の腕に視線を落とし、最後の記憶を辿ってぞっとする。
亜子が笑っていて、自分も笑っていた。すると突然亜子がアリアをベッドに縛りつけ、抵抗する暇も与えないまま注射針を自分の首筋に刺して何かを体内に注入したのだ。
わけがわからないまま激痛が全身を駆け巡り、アリアはベッドに縛りつけられたまま悶えていた。……記憶はそこで途絶えていた。
「……ほんとだ。夢……なんだ。良かった……」
でも。
「…………ふふっ。アリアは可愛いですねぇ? そういうところ、大好きでーすよぅ」
でも、それじゃあ──
アリアの視線は自分の腕を辿っていき、着ている服を軽く見回す。
──それじゃあ、この真っ白い服についている赤黒い液体はなんなのだろう。
着替えている間も疑問は尽きなくて、解放されたアリアは勢い良く一号室の扉を開けた。
「ただいまー!」
「だぁぁぁぁー! あんた夜でもうるさいの?!」
そんなアリアを、布団を引き剥がした乾が二段ベッドの上の段から一喝した。
「でも、君もうるさいよー?」
アリアはベッドに腰をかけた乾に突っ込む。
「……チッ、うるさい。黙って。そんなことよりもあんた、遅かったけどなんの勉強をしていたの?」
「え? んー……? えっと、うーんと……」
乾は唾を飲み込んで腕を組んだ。アリアはうんうんと唸ってやがて口を開く。
「……なんだっけ?」
「……はぁ?」
「んー……、あれ? 思い出せない……」
「バカなの?」
乾の呆れた表情と冷たい言葉に、アリアはニコニコ笑顔で応えた。……嘘をついて良かった、アリアは密かに安堵する。
「バカじゃないよ! お昼寝してたよ!」
「えっ、それだけ?」
「うんっ!」
アリアはパタパタと腕を振り回して元気だということをアピールした。乾は眉間に皺を寄せ、アリアをじっと観察する。
「本当にそれだけ? ……ありえない」
「そう言うそっちはどうだったのさ!」
「え、私? わ、私は……」
言葉を濁らせた乾を見上げ、アリアは唇を少しだけ噛んだ。乾の眼鏡の奥の碧眼が戸惑っていたからだ。
「もしかして……」
「ッ!?」
乾が怯えたのだとすぐにわかった。だからアリアは給仕の青年の言う通り、ニコニコと笑った。
「……そっちこそなぁんにも覚えてないのー?」
──ブチッ
「あれ? 今の音……何?」
「……く」
「え?」
「むっかつく! あんたを一発ぶん殴ってやる!」
二段ベッドの上から飛び降りた乾は、すぐに体勢を整える。
「えぇ!? やだよ!」
そして逃げ惑うアリアの後を追った。
一号室の部屋はアリアが戻ってきた時点で外側から鍵がかけられていた。だからアリアは、狭い部屋の中を器用に動き回る。
「捕まえた!」
「きゃあー!」
それでもアリアは声に出して笑っていた。乾は調子が崩されたとでも言いそうな表情をしてアリアの首根っこをすぐさま離す。
『あんまり暴れないでほしいのでーすよぅ、アリア。それと乾ですかぁ?』
「あ、あこりんだ!」
『私と小町の研究室はこの真下なのでーすよぅ? 危険物が壊されたら困りますからねぇ』
「あこりんごめんなさーい!」
『もういいのでーすよぅ。小町、では向かいましょうかぁ?』
「こまち?」
アリアは首を傾げた。取っ手に手をかけるが、鍵がかかっていて開かない。
「やめときな。無駄だから」
「え? ……うん、わかった!」
アリアは笑って手を下ろした。今ならば、なんとなくだが──乾の言っている言葉の意味がわかるような気がした。
『乾、アリア。夕御飯の時間になったら私と亜子が迎えに来るわ。それまで休んでいなさい』
「もしかして、こまっちゃん?」
『変なあだ名をつけないでちょうだい。不愉快よ』
二人の足音が遠ざかっていく。
アリアと乾は自分たちから開くことができない扉を眺めて、どうすることもできない現状を受け入れるしかないことを思い知った。