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短編小説

掌編小説『にゃあ坂の夕陽』

「にゃあ坂に帰りたいにゃー。あの夕陽の見えるにゃあ坂に帰りたいにゃー」

 ネコは、東町へ来てからというもの、その言葉を何度も繰り返している。ネコが五年前まで住んでいた町には『にゃあ坂』と呼ばれる長い坂があった。だから、みんなはその町を『にゃあ坂』と呼んでいた。ある春の日、『にゃあ坂』は戦争になった。だからネコは東町に逃げてきた。逃げた理由は、ひとつ。戦いたくなかったから。ネコは、その時には大人になっていたけれど、ネコが産まれるずっと前から『にゃあ坂』の戦争は続いていた。

 ネコが薄汚れたままで東町まで辿り着いたとき、東町に戦争は無いように見えた。けれど、そう見えたのは、その事をネコ自身が見ないようにしていただけかも知れない。実際、ネコは東町に来てから木陰の下で目を閉じていることが多かった。それでも夕方になると、東町で一番長い坂道の上までゆっくりと登り、空を見上げて、あの夕陽を探した。探していたのは『にゃあ坂』で毎日見ていた夕陽。それは空を真っ赤に染め、瓦礫(ガレキ)の『にゃあ坂』を真っ赤に染め、ネコを真っ赤に染め、重く焼けた巨大な鉄球のように、揺らめき、やがて視界の外へ堕ちて行く。

「……あれは、にゃあ坂の夕陽とは違うにゃ……」

 ネコは東町の路地裏で生きていた。


 ネコは、お昼前に目を覚まし木陰の下で毛繕いをした。前足を舐め、次にその前足で狭い額や耳の裏を丁寧に撫でる。背筋を伸ばし、首をぐっと縮めて胸元を舐める。そうするとザラザラの舌に抜けた毛が付くのだが、構わず飲み込んでしまう。

 ネコの喉の奥で毛玉が丸くなっている。ネコは毛玉を鬱陶(うっとお)しいと思ったから、それを吐き出すために、すっと立ち上がって傍に生えている草を食べた。名前は知らない草。名前なんてないのかも知れない。くちゃくちゃと草を食べて、ごくりと飲み込んでいるうちに吐き気がして、ネコは草と毛玉を吐き出した。そして幾らか落ち着くと、また言った。

「にゃあ坂に帰りたいにゃー。あの夕陽の見えるにゃあ坂に帰りたいにゃー」


 三時頃になるとネコは道に撒かれた猫エサを食べた。乾いていてカリカリする。食べながらネコは自分の妹のことを思い出していた。ネコの妹は、『にゃあ坂』で奴隷として売られた。売ったのは両親。そのお金で買ったエサをネコは食べた。食べたのだから、妹を売ったのは両親だけではない。そう思いながらネコは砂の付いたエサをカリカリと食べた。食べ終わると手の甲で口を擦り、それから言った。

「……にゃあ坂に帰りたいにゃー」

 ネコは河川敷まで歩いた。まだ、お腹が空いていたから。四時前に河川敷の青テントに行くと猫缶を貰えることがある。そのときネコは幸福感に満たされて猫缶を食べる。ちょっと値段の張る高級な感じの猫缶であることが多かった。ネコが、『にゃあ坂』に住んでいた頃、猫缶などというものは見たことがなかった。毒入りのエサはよく見掛けた。それを食べて死んだ仲間もいた。戦争だから毒入りのエサが撒かれているのは当たり前のことだ。ネコは、尻尾や手足を落とされた仲間を幾度も見掛けたし、林の中を死体の山を踏みつけながら逃げ回ったこともある。ネコは、青テントで午後四時に貰えるこの猫缶を『特別猫缶』と名付けていた。でも、今日は貰えなかった。暫く寝転んでいるうちに「早く帰れ」と歌う音楽が高い柱の上から流れ始めた。ネコは、この音楽を好きだと思っていた。東町で毒入りのエサは見たことがなかった。ここは静かな町。ゆっくりと時が流れていくようだ。この町で、死んでいる仲間を見ることはなかった。あの死体の山が作り物のように思えてくる。だけど、ネコの足の裏には、強く残っている。それは、死体を踏みつけた感触。

「……にゃあ坂に帰りたいにゃー」

 ネコは暫くの間、河川敷を歩き、少し遠回りをした後で自分の寝る木陰に帰った。その途中、ネコは、首輪をされている仲間を見た。


 明くる日、ネコは公園で鳩を捕まえた。イライラしていた。イライラしていたから鳩の羽を(むし)り、首と翼が千切れるまで噛み付いて引っ張った。ぐちゃぐちゃになった鳩は死んだ。公園のブランコが風に揺られ、(かす)れた金属音を鳴らしている。ネコは死んだ鳩をぼんやりと見ていた。やがて、ネコは血の付いた口から言葉をこぼした。

「にゃあ坂に帰りたいにゃー。あの夕陽の見えるにゃあ坂に帰りたいにゃー」

 ネコは、『にゃあ坂』で見た死体の山や瓦礫の山を忘れてしまったかのように、日々、別の事をしているが、また言う。何度も。

「……にゃあ坂に帰りたいにゃー」

 「早く帰れ」という音楽が流れる。五時を過ぎた。特別猫缶の時間は過ぎてしまった。もう貰えない。


 その晩、ネコは夢を視た。死んだ母親が現れ、色々な話をした。そうしているうちに母親は笑みを浮かべて唐突に言った。

「おまえ、知らないのかい? にゃあ坂の戦争はとっくに終わってるんだよ」

 ネコはゾクゾクとする気持ちを抑え込むかのように静かに聞いた。

「いつ……終わったにゃ?」

「一年くらい前」

 ネコは目が覚めた。でも暫くは、その場から動かなかった。そして、ふと思い付いたように体を起こすとネコは歩き出し、そして走り出した。『にゃあ坂』の戦争は終わった。本当なのだろうか。ネコは西の方角へ走り、真夜中を過ぎる頃には東町を出た。月の舟が西の空を進む夜だった。そして三日の昼夜を掛けて、ネコは、『にゃあ坂』に帰り着いた。ネコは疲れ果てていたから、繁華街の狭い路地に並んでいた青いポリバケツの陰で眠った。

 眠っているうちに、いつの間にか、身体中の力が抜けてクッタリとしている酔っぱらいが傍に立っていた。重そうな鞄の取っ手に人差し指と中指を引っ掛けている。そして鞄が落ちる。酔っぱらいは鞄を拾う。また鞄が落ちる。また拾う。そして六度目になると、酔っぱらいは鞄を拾うことを諦めて、自らも路上に落ちた。酔っぱらいはネコに「鮭とば」をあげた。ネコは警戒したが、酔っぱらいも「鮭とば」を食べ始めていたから、それに毒がないことを確かめた。そして食べた。戦争は無くなっていた。


 夜が明けるとネコは、『にゃあ坂』の町を見て回った。きれいな街。にぎやかな街。戦争は無くなっているように見えた。死体は無い。瓦礫は無い。妹を売った場所はゴミ置場になっていた。町中に知っている顔はひとつもなかった。


 その日の夕暮れ、ネコは長い坂の上にいた。ここが、『にゃあ坂』だ。夕陽は歪んで淀み、ビルの谷間に沈んで行く。ネコは黙って夕陽を見ていた。腐ったオレンジのような陽が、次第に沈み、やがて沈み切る風景。

 夕陽がその姿を隠してしまうとネコは言った。

「ここは『にゃあ坂』じゃないにゃ。『にゃあ坂』は、もっと夕陽が美しいにゃ」


 ネコは、戦争の最中にあった頃の『にゃあ坂』と今の『にゃあ坂』は、何が違うのだろうかと考えた。

 産まれたのは瓦礫だらけの『にゃあ坂』。エサを食うために妹を売った『にゃあ坂』。怪我をしている者や死体が無数に転がる、戦争の『にゃあ坂』。

 ネコは思った。自分は、戦争の頃の『にゃあ坂』を求めているのかも知れない。戦争をしていない『にゃあ坂』などネコは知らないから。ここは知らない町。あのキレイな夕陽は無い。

 ネコは目を閉じた。瞼の裏に焼き付いた記憶が流れる。空を真っ赤に染め、にゃあ坂を真っ赤に染め、ネコを真っ赤に染め、重く焼けた巨大な鉄球のように、揺らめき、やがて、瓦礫と死体が埋め尽くす視界の外へ、堕ちて行く。

 それは、『にゃあ坂』の夕陽。




       『了』





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― 新着の感想 ―
[良い点]  戦争の悲惨さ(アイロニィ?)を猫の視点で描くという手法も凄いけれど、去って行った思い出は悲惨極まりないものでも個を作る原点であり、また時は戻ることがないという内容にも衝撃を受けました。
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