紅葉色の鞄
秋山紅葉。僕の名前。
「紅葉」と書いて「もみじ」と読む。
名付けたのは母である。紅葉の美しい季節に生まれたからだそうだ。しかし、僕はこの名前をあまり気に入ってはいない。母は「可愛いじゃない」と言うけれど、僕は可愛さなんかどうでもいい。第一、時々女の子に間違われるのが嫌だ。だから、僕は名前で呼ばれるのを嫌っている。
今年の春、僕は公立高校に入学した。クラスは知らない人がほとんどだ。高校生ともなると皆少し大人で、名前の件で絡んでくる人はいない。中学に入学した頃は、からかわれなくなるまでどれだけ辛い思いをしたことか……。高校では、何事もなく毎日は過ぎていく。中学でも入っていた陸上部に入り、ただ走ることだけを考えることができた。
そして、今日。二学期が始まる。体育大会が待っている。昔から、足の速さにだけは自信があった。徒競走で負けたことはない、はずだ。もっとも、走ることが得意なだけで、その他は何をしても普通ではあるが。
そんなことを考えていると、僕の足の速さを知っていたのか、窓の外の景色を眺めている間に、代表リレーの選手にされていた。別に、期待されることは嫌ではなかった。期待される自分に満足もしている。そのはずだったのに、今の僕は満足するどころか、無感動になっていた。飽きているのかもしれない。ただ走るだけの自分、足が速いというだけの優越感に。それとも、それ以上のものを欲しているのだろうか。いや、本当は今までの小さな優越感を否定したいのかもしれない。選手になることはもう承諾してしまっていたのに、急に走ることが嫌になった。九年間耐えてきたはずの期待が重い。自信がない。僕は立派な人間でもない。そんな僕に、どうやって走れと言うんだ。走ることに興味をなくした僕に。
結局、僕はこの憂鬱から抜け出すことができないまま体育大会の日を迎えてしまった。
「秋山、頑張れよ。」
なんて言いながら通り過ぎていくクラスメイトがいる。勿論、彼は僕の悩みなんか知らない。別の場所では、
「体育祭じゃない、体育大会だ!祭りじゃないぞ!!」
と叫ぶ先生がいる。確かに祭りではないが、憂鬱な気分のまま全力なんて出せるか。
ああ、苛々する。もうすぐリレーが始まってしまう。足が竦んで動かないのに。体調不良を訴えてしまえば良かったのだろうが、何かがそれを許さなかった。
僕は、第一走者だった。意地でも走ってやろうと思った。しかし、力んでしまって、スタートに失敗した。スタートに失敗すると、その分はなかなか取り返せない。走らなければ、頑張らなければ、クラスメイトの期待はどうなる……。
結局、うまく走れなかった。足は思うように動かず、体にうまく力が入らなかった。クラスメイトには「そんなこともあるさ。」と言われたが、期待に応えられなかった自分が悔しい。僕は翌日のクラス会にも参加しなかったし、その日から僕は口数が減っていった。
急に走れなくなったあの体育大会から、二か月が過ぎた。僕はまだ立ち直れていなかった。
それはおそらく、僕の誕生日が近いことにあった。十一月十八日。ちょうど紅葉の美しいであろう季節。
母の名前は楓という。カエデ。紅葉の代表。この季節になると緑の葉を紅く染める。僕はその色が好きだった。緑から黄、そして紅に染まっていく過程の、すべてが美しいと思う。幼い頃は、毎年紅葉狩りに行っていた。そういえば、僕の我儘で行かなくなったのは、いつからだろう。
誕生日の一週間前の日曜日、僕が出かける準備をしていた時だった。部屋にいると、ドアをノックする音がした。母だった。
「来週、文化祭で忙しいんでしょう?」
「うん。ケーキはいらないから。」
母には言っていないが、僕は甘いものはあまり好きではない。そもそも来週は忙しいので食べる時間がないわけだが。
「これ、誕生日プレゼントよ。」
……誕生日プレゼント?プレゼントをねだるような年齢ではないが、何故急に?
「カバンの金具が壊れたって言っていたでしょう?」
ああ、そのことか。確かに、僕の鞄はファスナーが壊れている。別に、使い物にならなくもないので、新しい鞄が欲しいと思っていたわけではないが、僕は素直にそれを受け取ってお礼を言った。
「……何?」
母は妙ににやにやしながら僕の部屋を出ていった。母の様子がなんとなく気になったので、僕は包みを開けた。
包みを開けた僕の目に飛び込んできたのは、紅葉色だった。渋い紅葉色の鞄。僕の一番好きな色。けれども、僕は鞄を投げてしまいたくなった。母は、僕を紅葉にしようというのだろうか。変な被害妄想を抱く自分の幼さに、僕は無性に腹が立った。別に、僕は紅葉を嫌っているわけではないだろう。むしろ、好きだったのではないか。嫌いだったはずのものを、僕は何よりも愛していた。別に、嫌う必要はないのに。それでも、名前が邪魔をした。僕が九年間悩んできた名前。自己紹介でいつも言いづらかった、名前が。
その時、ひらりと一枚の紙が落ちた。拾ってみると、写真だった。何年も前の、紅葉狩りに行った時のもの。まだ小さかった僕は、母と手を繋いでいる。背負っている小さなリュックサックは、紅葉色。鮮やかな紅葉、華やかさを添える黄色、抑揚をつける黄緑、秋の色の中の、秋の名前を持った僕……。入学式の桜の中の写真も、雪景色の中の写真も、多くの写真を見たけれど、やはり僕たちには秋が似合っていた。僕は、やはり秋の山の紅葉だった。
なんとなく、僕は「秋山紅葉」であることを実感した。この名前は、僕そのもののような気がする。なかなか風流ではないか、秋の山の紅葉。
写真は、どうやら何かの拍子にアルバムからこぼれたものらしかった。どこに入っていたのかはよくわからないが、確かめる時間はない。5分以内に家を出ないと、バスに乗り遅れてしまう。僕は急いで荷物を紅葉色の鞄に入れ替えると机の上の安全そうなところに写真を置いた。
「あら、もう行くのね。」
部屋を出ると、母が不思議そうに尋ねる。
「もうって……、バスはいつ来るかわからないのに……。」
「そうなの?」
質問に答える暇はないので、そうだよ、と短く答えて、僕は靴を履いた。