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日本で最も医療費を圧迫している疾患は、何を隠そう心臓病だ。もっと具体的に言えば心筋梗塞や狭心症といった動脈硬化が大きな原因となる疾患が、とても財政を圧迫している。高血圧や脂質異常症の薬が、日本の売上上位を占めているのはそういうことだ。
元々高カロリーに強くない日本人が欧米型の生活を手に入れてしまった結果、どんどん血管がボロボロになっていくというわけだ。当の欧米人のほうもハイカロリーな生活が問題ないわけではないのだが、農耕民族たる日本人のほうがもちろん影響は大きい。こと欧米化社会においては全く損な民族である。
ではこちらの世界、転生後の世界ではどうだろう。
さほど流通が発達しているようには見受けられないため、山間部の集落にある我が家では
川魚以外の魚は食べられず、塩もたまに来る業者からその都度岩塩を仕入れる程度だ。そして主食主菜はといえば、畑で穫れる麦のような穀物に狩猟と放牧によって手に入る魔獣の肉だ。
要するに、日本人とは比べ物にならないほど質素な食生活をしているということである。
初めてここの食生活を目の当たりにした時、飽食に慣れきった身には相当な絶望感を覚えたものだが、慣れてみるとなんのことはない、質素ならば質素なりの生活というものがあるのだ。香辛料が貴重で思うように使えないことは残念だが、それ以外の料理は出汁がうまくとってあったり野菜の甘みが生きていたりと、そう悪くない。
この世界の発展レベルなら野菜の品種改良などまだまだ進んでいないと思っていたのだが、どうやら野菜に限っては例外であるらしい。大変嬉しい誤算だった。
しかしそうなると、色々と作りたい料理が出て来るな。一度食べた魔獣の肉はうまかったので、ハンバーグやステーキ、そぎ切りにしてしゃぶしゃぶなんかもいいかもしれない。根菜と合わせてバター焼きなんかもアリだろう。香辛料がなくたって、できる料理は山ほどあるのだ。山の向こうには海だってあると聞くし、そうなると出汁の文化が発展しているに違いない。世界三大料理はどこも海に面した国の出汁の文化がベースになっているぐらい、うまい料理の基本は出汁だ。今からワクワクしてきたぞ。
…………あれ、俺何の話してたんだっけ?
「フランツ、またぼーっとしてるけど、考え事?」
気付けば隣を歩くソフィアに顔を覗きこまれている。ソフィアは顔がいいんだから、そうやって覗き込まれると、なんというか、その、困る。俺にロリコンの気はないはずなのだが。いやでも今の俺の年齢を考えると、ソフィアは年上ってことになるわけだし、ロリコンというわけではないのか。……ないのか?
「ごめんごめん、全然考えがまとまらなくて」
「浮かれるのもわかるけどねー。そんなフラフラしてたら転んじゃうよ」
「ありがと。ソフィは優しいね」
「フランツがほっとけないだけだって」
やっぱりソフィアは年上ということでいいと思う。少なくとも実年齢にして30を超えた俺に比べたら、よっぽど大人だ。
「それにしてもいっぱい採るねー。そんなにアギの実いるの?」
「もしかしたらこれでジュースを作るとか言われるかもしれないし、多い分には問題ないよ」
「うへー。そんな青臭いものをジュースにするなんて、ほんとにそのロバートさん、だったっけ、偏屈なんだねえ」
あくまで俺は『かもしれない』と言っただけで、ロバート爺さん本人がアギジュースを飲みたいなどと言ったわけではないのだが、ソフィアの中ではそういうことになってしまっているらしい。ま、こんなアギの実を集めさせている時点であの爺さんが偏屈なことに変わりはないし、そんな細かいことを訂正する気にもなれない。
現在、俺達は爺さんのテストをクリアするためにアギ集めに精を出している。俺に与えられた試験なのだから俺一人でやるのが筋なのだが、面白そうだからとソフィアは勝手について来てしまった。それでいて俺の手伝いはせず、時折茶々を入れるぐらいで基本は静かに俺を見守っている程度だ。彼女は彼女なりに、まだ小さい子供の俺を一人にしないようにしてくれているのかもしれない。可愛いもんだ。
「そういえばこの間、お父さんが久しぶりにうちに帰ってきたからアギの実のこと聞いてみたんだ。でもフランツが自分で見つけたから無駄になっちゃったね」
「ううん、そんなことないよ、ありがと。それで、お父さんは知ってた?」
「うん、昔は薬みたいに使ってて、胸が痛くなった時に炙って煙を吸うと、すごい楽になったんだって」
それ、普通の薬じゃなくて危ないクスリとかじゃねえよな? 使って大丈夫なもんなんだろうな。
「フランツはアギの実、吸ってみる?」
「いや、俺はいい、というかソフィもやめておいたほうがいいよ」
「『俺』?」
「ううん、なんでもない」
あっぶね、つい素が出てしまった。あくまで努めて子供らしく振る舞わなきゃな。
「あ、そうだ、もう十分アギの実を」
「怪しい」
「ほら、これ以上は僕が持てなくなっちゃう」
「ふーん。じゃ、これをお爺さんのところに持っていけば、晴れて合格かな?」
「いやいや、まだわかんないよー。あのお爺さんのことだから、このアギの実を使ってまた変なことを言ってくるかもしれないし」
「うわ、それありそう」
「でしょ? まだまだ油断できないよ」
誤魔化せただろうか。この年頃の子にしては、ソフィアは鋭いところがあるから全く油断できない。
「それにしても楽しみだなー」
「何が?」
「魔法を押してもらえるのがさ」
「ふーん。確かに魔法は便利だけど、便利な分で十分じゃない? フランツがやろうとしてることって、そういうのじゃなくてもっと難しいことなんでしょ?」
「難しいって言っても、きっと必要なことだよ」
「出た、フランツの『わかってる』風だ」
「まあそう言わないでよ。そう思うものはそうなんだから」
何時の世も勉強はしないとな。とりわけ魔法だなんて便利なもの、更に研究を進めればどれだけの可能性を秘めているかわからない。俺がやらずに誰がやるってんだ。
そのための第一歩として、無事弟か妹が生まれてくるように、今から魔法を習うのだ。こんなに楽しいことがあるだろうか。
「ごめんくださーい」
俺達はアギの実を集めたその足で、早速爺さんの家に向かった。ここでもソフィが何も言わずついてくるあたり、一端の保護者気取りなのだろう。別にいいけどさ。
「ごめんくださーい!」
「いないのかな?」
「でもロバートさんて結構引きこもりなんでしょ?」
「いくら引きこもりでも、食料を取りに外に出たりはするんじゃないかな」
「そこは魔法でどうにかなったり……」
「しない」
バッサリと切り捨てられてしまった。いやさすがに俺だってそこまで便利な魔法があるとは思ってないが。……ほんとだからな?
「どうしよう、帰ろうか」
「うーん、せっかくだけど仕方ないか」
そうやって俺達が玄関の扉に背を向けようとした時、おかしな音が聞こえた。
ぅぅ……
まるで人のうめき声のようだ。というかこれ、本当に人のうめき声なんじゃないか?
「ソフィ、聞こえた?」
「うん、この中から」
「開けてみようか」
「う、うん」
うめき声という時点で、不穏な予感しかしない。鬼が出るか蛇が出るか。予想はついているのだが、正直今回ばかりはその予想が外れていて欲しいと、切に願うばかりだ。
「ロバートさん!」
果たしてそこには、予想通りの光景が広がっていた。
苦しそうに胸を抑え、床に倒れこむロバート爺さん。
あの痛がり方は、教科書で見覚えがある。顔から吹き出す冷や汗も、俺の予想を支持している。
心筋梗塞だ。
「血管がボロボロ」「農耕民族だから肉に耐えられない」などという言説はあまり正しい話ではないのですが、ここは物語の都合上とわかりやすさ優先で