未知との遭遇③
3歳。元いた世界ならそろそろ幼稚園に通い始める頃だ。
もちろんこちらの世界に幼稚園などあるわけもなく、俺はソフィアと一緒に元気に遊んで暮らしていた。もっとも遊びとは名ばかりで、魔法の訓練がメインだったりするわけだが。
「フランツ! ちょっとストップストップ! やりすぎ!」
「え? あ! ごめん! すぐ戻す!」
考え事をしていたら少ししくじってしまったようだ。慌てて冷やし過ぎた木の実を解凍する。
現在俺達は、火魔法の練習を兼ねた木の実や山菜の採集をしていた。ただし火魔法とはいうものの、その実は熱魔法とでも呼ぶべきものであり、熱量操作がその主体であった。なので加熱も出来れば冷却も出来る、実に利便性に優れた魔法だと最近知ったのだ。ジェレミーやリンジーもそのことは知らず、ただ単純に火を付けるためだけの魔法だと思っていたらしい。それを伝えた時には「さすが自慢の息子だ」的なやり取りがあったのだが、どうでもいいので置いておく。とにかく火魔法を使って氷やドライアイスなどを作ることができたのだ。文字面だけ見るとなんとも奇妙な現象なのだが、できたものはできたのだから仕方がない。
その技術を使ってやることといえばもちろん一つ、食品の冷凍保存だ。
冷凍で今までは塩漬けや乾物などを保存食として冬の食料にしていたそうだが、冷凍保存やフリーズドライの技術を身に付ければより食事の幅が広がる。食事というのは人間の三大欲求を司るだけあって、その質や量は即座に精神に影響する。健康な肉体のみならず健全な精神を保ちたければ、食事をないがしろにすることはできない。
火魔法による冷凍保存の技術は、その食事の質を上げるのにそれはそれは有益なのだ。
「あちゃー、そこまでカチカチに凍らせちゃったら、食べらんないよ」
「そうかな、適当にジャムにでもすればなんとか食べられるものにはなるんじゃ」
「ジャム?」
「ええと、木の実や果物を砂糖で煮詰めて作る保存食で……あ」
「その砂糖はどこにあるわけ?」
「ちょっと難しい、かな」
「はあ……」
ソフィアに呆れた視線を向けられる。この視線にもすっかり慣れきってしまった。
最初のうちはこういった元の世界の知識を出す度に尊敬の眼差しを向けられていたのだが、何分こちらの世界ではただの子供である俺は、それを実現する具体的な手段を持ち合わせていなかったのだ。おかげで今ではすっかり「大言壮語を吐くが口先だけのやつ」という認識が定着してしまっていた。ソフィアにはとっくに見放されてもおかしくない状況なのだが、聞けば両親の興味が完全に小さな弟に向いてしまっており、俺とこうやって遊ぶことが何よりの暇つぶしになるらしい。それでも一応付き合ってくれる彼女には感謝してもしきれない。
「しっかしフランツはよくもそんなに次から次へと色んな事思いつくよね。こないだだって、食事の前は手を洗えーとか、水の汲み置きはやめろーとか。あれってほんとに必要なの?」
「どっちもすごい大事。やらないと病気になる確率が跳ね上がる」
「その確率ってのもよくわかんないんだよねー」
「都の偉い人ならきっとわかるよ」
「それもほんと?」
「僕はソフィには嘘をつかないよ」
「むう、なんか納得行かない」
ソフィアはいまいち実感が湧いていないようだが、俺がこう口を酸っぱくして言うのにも理由はいくつかある。だがその基本理念は全て、「感染予防」という一言に尽きる。
感染予防策として最も重要なのが、手洗いだ。手洗いさえすれば風邪の感染リスクを半減させることができるすら言われている。抗菌薬や消毒薬があるかどうかすらわからないこの世界では、この最も簡便で最も有効な方法を広めることが、人々を病気から守る最大の方策になる。身の回りの人の感染予防は、ひいては俺自身の感染リスクを下げることにも繋がるしな。
水の汲み置きに関しては主に二つの理由がある。一つは細菌、主にレジオネラ菌や大腸菌の発生予防。そしてもうひとつはボウフラ対策だ。
日本の最高に衛生的な水道水とは違い、ここの水は井戸の汲み上げだ。水魔法でも水を作ることはできるが、魔力の消費が大きいので生活用水全てを賄うことはできない。そのためどうしても汲んできた水が必要になるのだが、汲み置きした水は当然ながら雑菌が発生しやすい。特に大腸菌やレジオネラ菌は病原性も高いので、子供や体力のない老人は簡単に重篤な転帰をきたす。発生前に予防するのが一番だ。
またボウフラもとい蚊も、非常に恐ろしい存在である。蚊は様々な病気を媒介する媒介動物として広く世界に分布しており、こちらの世界でも例に漏れず存在しているのは確認できた。彼らがもたらす病気はデング熱のような軽めのものから、マラリアや日本脳炎・ウエストナイル熱などの致命的な疾患まで幅広く存在している。現在最も人類を殺している動物は何かと聞かれたら、専門家達は満場一致で「蚊」と答えるだろう。ならばそんな奴らの繁殖地である水溜まりを、わざわざこちらから用意してやる必要はない。
水を溜めない、というのは非常に重要な感染対策なのだ。
「そういえばフランツって都に行ったことあるの?」
「ないよ」
「じゃあ都の人が知ってるかなんてわかるわけないじゃん!」
「まあ、普通はそうなんだけどね」
それでもわかるものはわかる、と言っても当然ソフィアは納得しない。いやほんとにわかるものはわかるんだって。確率の計算なんざサイコロの発明と同時期に発達したものだし、この世界が元の世界の中世レベルだというのなら、確率はおろか微分積分にも足がかかっていないとおかしいのだから。
でもどうせなら、医学に関してどこまで進んでいるかを知りたいものだ。清潔不潔の概念はさすがにないだろうが、解剖学や生理学はある程度理解が進んでいてほしいものだ。そうでないと、俺が病気になった時に困る。
「なんだかフランツの言ってることって、難しいこと言ってるけど本当に正しいのかわかんないや」
「正しいと思ってるけど、説明するのはちょっと難しいかもね」
苦笑交じりにソフィアを見る。科学知識を理解するためには、更にその前提となる知識がなければ難しい。確率や統計のような目に見えにくい学問なら尚更だ。
数学の知識すらないソフィアに理解はできないだろう。
いや待てよ?
ソフィアももうすぐ7歳だ。元いた世界なら既に小学生として読み書き筆算ぐらいはできるようになっている歳だ。だがこんな田舎では、まともな学校教育など存在していない。それに対して勉強を教えたらダメな理由はあるか?
「ねえ、ソフィ、ソフィは勉強って興味あるかな」
「勉強? 勉強ってあの貴族とか高級市民がやってるあれ?」
「そう、それ」
「無理だよー。だってうちはそんなお金ないし、家の仕事も手伝わなきゃ」
「僕が教える」
「またまたー」
「僕が教えるから、お金はいらない。こうやって遊びながらでもいい。それなら大丈夫でしょ?」
「それなら、ってフランツが? いやいや、それはさすがに無理でしょ。さすがに4歳に教わることはないよ」
「大丈夫。教えたいことがいっぱいある」
「……本気?」
「本気」
最初は冗談だとしか思っていなかったであろうソフィアも、俺の顔を見てそれが冗談でないとわかったようだ。
実際、俺はこれが無駄な冗談だとは微塵も思っていない。ソフィアならきっと勉強に興味があると思ったし、勉強を楽しいとも思ってくれるだろう。俺の言葉を信じ提案を受けるなら、労せずして勉強する機会が手に入るのだ。遊ぶ時間が減ってしまうのは確かだが、逆に言えばデメリットはその程度のものだ。
真剣な顔でじっと考え込んでいたソフィアだったが、おもむろに口を開いてこう聞いてきた。
「フランツは何を教えてくれるの?」
「出来る限りなんでも。算術が一番役に立つだろうから、算術中心にするつもりだけど、化学、物理、生物、そこら辺は多分できる。史学や語学はちょっと教科書がないと難しいかもしれない。経済学は簡単な知識だけなら」
「しが……なんだって?」
しまった、いっぺんに情報を出しすぎた。ソフィアの目が点になっている。まず元の世界でも史学や語学を理解できる小学生なんてそうはいない。ソフィアは賢いほうだったから、ついついまだ6歳でしかないということを忘れてしまっていた。
「えーと、世の中のものがどういうふうに動いているかってのを教えようかなって」
「例えば?」
「例えば摺り足で脚を動かすのと普通に足を浮かせて動かすの、もちろんすり足のほうが大変だよね。これがなんでかわかる?」
「なんでって……すり足って慣れないからそうなるんじゃないの?」
「半分正解。でもそれだけじゃない。『摩擦力』っていう力が働いているんだ。それを理解できたら、ものを動かすときすごく楽になる。」
「その『まさつりょく』っていうのは、難しい話?」
「うん、結構難しい。でも僕もちゃんと教えるし、ソフィならきっと理解してくれると思う」
「ふーん……」
それきりソフィアは黙って考え込んでしまった。今の話で興味を持ってくれただろうか。
「簡単にできる」とうそぶくことは誰にでもできる。だがそれは何よりも無責任な言葉であり、ともすれば暴力的とすら言える。
困難な道であることを示した上で、それを支える意志を同時に示し、最終的には相手の判断に委ねる。インフォームド・コンセントを行う上で学んだ方法だ。
俺の見立てではソフィアなら受けてくれると踏んでいるのだが、さて。
「ねえ、一つ条件つけていい?」
「いいよ。できることならなんでも」
「それじゃ言うね。私の夢を手伝ってくれない?」
「夢?」
「そ。フランツだから言うけど、私村を出ていこうと思ってる」
「そうなの!?」
「うん、だからその時、フランツにもついてきて欲しいんだ」
「なんで村を出るの?」
「私、商人になりたいんだ」
「商人?」
「初めは旅商人で元手になる資金を稼いで、お金がたまったらどこかの街で自分の店を持つんだ。楽しそうじゃない?」
「うーん、でもそれって僕がついていく必要ある?」
「あるよー。だってフランツってすっごく頭いいでしょ。フランツが一緒にいてくれればきっと私、変な奴らに騙されないで済む気がするんだ。商人ってそういう奴らとの戦いもしなきゃいけないし」
「そうなんだ」
「そうなの。それに、フランツにも悪い話じゃないと思うんだ」
「なんで? 僕は商人になりたいなんて思ったことなかったけど」
「でもフランツって、そのうちこの村を出て行くつもりだったでしょ」
「それは、まあ……」
それは違う、とは言えなかった。確かにこの村にはどこか物足りなさを感じていたのも事実だったからだ。具体的には教育レベル。まともな学校のない村に期待するのも馬鹿げている話なのだが、いわゆる「賢い」と言える人間がこの村にはほとんど存在していなかった。せいぜい目の前にいるソフィアぐらいか。
それでは困るのだ。
異世界に来たのは偶然とはいえ、この世界にもそれなりに愛着が湧いてきた。だから、自分なりにこの世界で役に立つことをしたい、と思う。元いた世界では医者をやっていた俺ができることといえば、医療ぐらいしかない。幸か不幸かこの世界では、医療水準は俺のいたところに比べてだいぶ劣っている。治癒魔法というものも存在しているらしいのだが、せいぜい怪我を治すぐらいなもので、病原微生物学や内分泌学・免疫学といった病気の理解の基礎となる学問が、少なくとも一般庶民のレベルでは浸透していない。日本ならば小さい子供ですら「ばい菌」と聞いたら悪いもの、排除しなければならないものと広く認識しているのだから、その差は大きい。尤も、日本では某国民的アニメの悪役がその認知度恒常に大きく貢献しているので、単純に比べることはできないのだが。
まあそんなわけで、ぼんやりと「この世界の医療を発展させていかなければならない」という義務感というか使命感というか、そんなものを感じていた。そのためには父親の跡を継いで農業をしてこの村に骨を埋めて、というわけにはいかない。日本人らしい「もったいない」の精神が、俺の知識を有効に使えとささやいていた。
「やっぱり。だったら私の提案、悪く無いと思うんだけど。大丈夫、ちゃんとフランツが一人前として認められるまでは待っててあげるから!」
「それなら……」
「よし決まり! じゃあフランツも私にちゃんと勉強教えてね!」
「う、うん」
少々強引だが話はまとまった。まとめられたと言ったほうが正しいか。何はともあれ、これで俺はソフィアに勉強を教え、ソフィアと一緒に街へと出ることが決まったわけだ。めでたしめでたし。
……うん? なにかおかしいな。そもそもソフィアに勉強を教えるのは俺から言い出したことのはずなのに、俺が言い出さずともソフィアが勉強したがっていたようにすら見える。
「ねえ、ソフィ」
「ん、なーに?」
「もしもの話を聞くけど、僕が勉強を教えるって言わなくても、勉強したいと思ってた?」
「よくわかったねー。さっすがフランツ、私が見込んだだけはあるよ」
「やっぱり……」
つまり、ソフィアは労せずして街へのお供と勉学の教師を手に入れたわけだ。しかも交換条件という名目で、有利な条件までつけて。俺が損をするわけではないから責めるつもりもないが、なるほどこれは商人の才能があるのかもしれない。口の上手さは十分そうだ。この先ソフィとは長い付き合いになるとは感じているが、尻に敷かれるだろうことも容易に想像できてしまった。
ソフィと別れて帰宅すると、何やら家の中の雰囲気がいつもと違っていた。
「パパ、どうかしたの?」
「お、フランツも気付いたか。いやー、こんなめでたいことはないなあ。なあリンジー」
「ジェレミーは喜びすぎですよ。一度は通った道じゃないですか」
「だからこそ何度通っても嬉しいんだろう? あの喜びをまた味わえるなんて、男冥利に尽きるってもんだ」
「まあ、そうですねえ……」
そう言いながらリンジーはお腹を撫でる。そういえばさっきからジェレミーの視線は、リンジー本人というよりもリンジーのお腹に注視しているようにも見える。となると、これは。
「喜べフランツ! お前もついにお兄さんになるぞ!」
その言葉を聞いて、少しだけ血の気が引いた。
レジオネラ:循環型の温浴施設や水冷型の空調が原因で発生することが多い。重篤な肺炎の原因になることがある
大腸菌:その名の通り大腸によく生息している。様々な型があり、有名なO-157もその一つ。食中毒や肺炎、腸炎、乳児の髄膜炎などの原因になる。
デング熱:代々木公園での発生例が記憶に新しいかと思います。重めの風邪という認識で基本的には問題ないですが、ショック等での死亡例も少なくないです。
マラリア:世界三大感染症の一つ。赤血球中に寄生する原虫による。日本での発生例は輸入例のみが確認されているが、温暖化の影響でそのうち日本でも発生すると言われている。
日本脳炎:現在ワクチンが発達しているので日本での罹患者は少ないが、その名の通り脳炎を起こすウイルスとして、非常に重篤な結果をもたらすウイルス。
ウエストナイル熱:日本での発生例はほとんどないので、詳しく知りたい方はご自身で調べたほうがいいかと思います。蚊と鳥をベクターとして気をつけていればよいかと。
インフォームド・コンセント:ICと略されることも。患者の自由意志を決定するため、必要な情報が伝達され理解される一連の過程を指す