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異世界保健協会  作者: 真殿悠
乳幼児期
2/9

未知との遭遇

 最初に目覚めた時の記憶は、激痛が全てだった。


 プールにでも浮かんでいるような心地よさから一転、今まで感じたことのないほどの圧迫感を抜け出ると、待っていたのは激痛であった。どうしようもない息苦しさも同時に感じていたが、それにあえぐように息を吸い込む度に激痛が走った。


 ここはどこだ?今俺はどうなっている?


 その疑問を口にしようにも、全く声が出ない。というよりも体全体がうまく動かない。てかなんだこれ。痛いし寒いし苦しいし全身が気持ち悪いし、それでいて体の感覚は薄ぼんやりとはっきりしない。まるで自分の魂だけを別の体に移し替えられたような、強烈な違和感。


 そのとき、ふと暖かな感覚が全身を覆うのがわかった。どうやらお湯に入っているようだ。じんわりと温かいお湯が体全体に染みこんでいく。

しかしその暖かさもつかの間、すぐにお湯から引き上げられ布のようなもので全身をくるまれる。さっきからひょういひょいと体を移動させられているのはわかるのだが、大の大人をそう軽々と動かせるような怪力の持ち主でもいるのだろうか。

それは……少し怖いな。しかしいいように弄ばれてはいるけれど、下手に反逆しないほうがいいだろうというのはわかる。というか体が動かないのだからしたくても出来ないんだけどな。


『まあ! なんて可愛らしい男の子! 将来は旦那さんに似て男前になりますよ』


 女性の声が聞こえてくるが、どうも日本語ではないようなので何を言っているのかまではわからない。どうやら興奮しているらしいということだけはわかるのだが。


 それにしてもここはどこなのだろう。自分の置かれた状況がまるでわからない。わからないだらけのないないづくしだ。一体俺はこれからどうなってしまうのだろうか。先のこともわからない。









「フランツちゃーん、ミルクの時間ですよー」


 あれから一ヶ月が過ぎた。

 

 相変わらず体はうまく動かないままだが、いくつかわかったことがある。

まずこの体、これは完全に赤ん坊のそれだった。最初に感じた苦痛も出産に伴うものだったのだろう。

どうやらあの夢だと思っていた『声』との対話は夢ではなく現実だったらしい。いきなり転生させてやるなどと言われても、そんな荒唐無稽な話俄に信じられるわけないだろうに。

まあそんなわけで転生してしまったわけで、そのこと自体は受け入れざるをえない。まさか古来から言い伝えられる転生というものを自分で体験するとは思わなかった。

一度失った命がこうやって得られたことに対して、感謝はすれど恨み事は特にない。もらえるものはありがたくもらっておくのが性分なものでね。


 そして転生した先の世界、これがどうもおかしい。

今どき産湯など使っている時点で現代日本の産院ではないことは容易に予想できたのだが、もっと事態は深刻だった。生活水準が明らかに低いのだ。

綺麗に消毒された哺乳瓶などどこにもなく、生まれてから一度だって病院に連れて行かれたこともない。最近ようやく目が開いて気付いたのだが、母親らしき人物の着ている服が、種類が少ない上にお世辞にも清潔といえる風体ではないのだ。こんな服装、世界中のどこを探しても現代社会には存在しないだろう。つまり俺は数百年は昔の世界に転生してきてしまったのだ。そう結論づけるしかない。


もっとも、この結論が間違っていたことに後で気が付くわけだが。




「今日もいっぱい飲むねー。いっぱい飲んで大きくなるんですよー」


 聞こえてくる母親の言葉は最初、日本語ではないということしかわからなかった。

だが聞いているうちに、語順や助詞の使い方などは日本語とそう変わらないことに気付く。一から言語を覚えなくてはならないのは確かだが、随分と楽ができそうだ。


「フランツったらジェレミーに似てほんと私のおっぱい大好きなのねえ」


 その下ネタは子供に対してどうかと思うぞ。いやでもどうせ本来なら言葉がわかるはずのない年齢だからいいのか。……いいのか?


 俺の名はフランツというらしい。家族の中での会話しか聞こえてこないので、苗字まではわからない。もしかしたらこの中世のような世界では、庶民に苗字はないのかもしれない。

そして今俺が乳を吸っている母親の名前、こちらはリンジーという。ぼやけた視界ながらも、なんとなく美人であることが伝わってくる。ごめん嘘ぼやけてて全然わかんない。父親のほうは現在仕事に出ていていないが、ジェレミーという名は聞いている。事あるごとに俺を抱きかかえてあやそうとしてくるが、正直鬱陶しい。子煩悩なのはいいことだが、あんまり揺さぶられると揺さぶられっ子症候群にでもなりそうで怖いぞ。

家族は俺を含めてその3人だけ。時折産婆か親戚のおばさんかは知らないが、妙齢の女性が現れ、母に何かを言い聞かせているが、せいぜいその程度だ。まあ下手にいろんな人と会って風邪でももらったら大変だしな。

予防接種もなさそうなこの世界では、ロタにでも感染して下痢をするだけでも、脱水で致命的な結果になりかねない。


「あら、もういいの?」


 そう言って母親が俺を再びベッドに寝かしつけた。とりあえず母乳は十分量は飲んだしいいとしよう。



 この体になって気をつけていることがいくつかある。


 まず一つ目は風邪を引かないこと。

これはわかっていて回避できる話でもないのだが、水分が足りないと思ったらすぐに大声で泣いて母親を呼び出すことで解決する。乳児というものは基本的に脱水を起こしやすいので、それを回避するだけでも風邪を引きにくくなるのだ。


 二つ目はちゃんと寝ること。

子供の睡眠時間はゆうに15時間を超える。寝られる時には寝ておかないと、うまく成長しないのだ。また睡眠不足はあっという間に体力を奪っていく。体力がなくなった子供に待っているのは死だ。しっかり寝ておくに限る。


 三つ目は簡単なリハビリ風のトレーニングである。

赤ん坊の体なので当然うまく言うことを聞かない。未発達な神経系や貧弱な筋肉は、体を動かすには全く足りていないのだ。おかげで満足に寝返りすらうてない始末。あと数ヶ月、正常な発達で考えると生後5ヶ月ほどで寝返りくらいうてるようになるだろうが、そんな半年も待っていられない。せっかく前世の記憶があるのだから、それを活かして通常よりも早く体を動かせるようになっておきたい。ということで、起きている間はずっと足を上げたり体を傾けたり、小さなトレーニングに勤しんでいる。現在生後1ヶ月で首がすわるという驚異的な発達の早さを成し遂げており、この分なら1歳になる頃には歩くことができるようになるかもしれない。

 ただそれとは別に、どうにも体を覆う違和感が拭えない。例えて言うなら動脈や静脈、リンパ管以外に全身を駆け巡る新たな回路を組み込まれたようなそんな異物感だ。

転生前の体ではこんな違和感を感じた記憶はない。乳児特有のものなのだろうか。いまいちわからない。



「あらあらもうこんな時間、ご飯を作らなくちゃ」


 俺の授乳から開放されたリンジーは、そう言って目の前の土間に降り、かまどに火を点ける。

無造作に切った食材を鍋に入れ、ぐつぐつと煮込んでいく。そのまま煮込んでいけば出来上がりだろう。俺の見ている限りでは、時間がないのかこのような煮物料理が多いようだ。元から手抜きなのか、赤ん坊の世話で忙しいのか。せめて後者であってくれないと、これから先俺の食の楽しみがなくなってしまう。ぜひとも母上には頑張って欲しいものだ。


 ……いやちょっと待て。

今までスルーしてきたが、明らかにおかしな部分がある。

この世界、生活水準は明らかに中世や近世のそれだ。具体的な年代など知らないので多少のズレはあるかもしれないが、少なくとも昭和や平成の日本のレベルには到底追い付いていない。今まで一度も乳児健診を受けていないことからもそれが明らかである。

それなのに今のリンジーの操作、『火を点けた』ことがそもそもおかしいのだ。少し離れた場所にいる俺ですら一瞬で火が点いたことがわかるなどありえない。

この時代に火を点けるとしたら、それこそ火打ち石や木を削った摩擦熱で起こすのが普通だろう。つまりそこそこ時間がかかるもののはずだ。

なのに今のリンジーときたら、まるでガスコンロのスイッチでも捻ったかのようにあっという間に火を点けたではないか。まさかこのマッチすらあるかも怪しいような世界でガスコンロがあるわけでもなかろうに、何が起こっているというのか。

まるで魔法みたいに火を付けるじゃないか。


魔法みたいに。


 いやいやまさかね。だって出来過ぎているじゃないか。転生してきた世界は魔法の使えるファンタジー世界でした! だなんて、今どき流行らないだろうさ。何年前のライトノベルだって話だよ。常識的に考えてあり得ないでしょそれ。

しかし一度頭に浮かんだ疑念は、段々膨らみ続けて思考の容量を圧迫していく。まさかね。





 翌日、珍しく父親のジェレミーが昼間も家にいた。くつろぎ様を見るに、どうやら今日は休日らしい。何の仕事をしているかは知らないが、筋骨たくましいその体つきは、明らかに肉体労働者のそれであった。その鍛えぬかれた筋肉で高い高いをしてくるものだから、こっちとしてはたまらない。


「なあリンジー、俺がいない間に何かなかったか?」

「何もないわよ。フランツはパパがいなくても平気ですもんねー」

「おいおい、俺が家にいないのはお前たちのためだろう? 本当ならずっとフランツと一緒にいたいくらいなのに」


 それは俺の身が持ちそうにないからやめて欲しい。


「もっと仕事の時間減らしたりできないの?」

「無茶言うなよ。ただでさえフランツの分も稼がなきゃいけないのに、お前が安心できるためにも蓄えがまるで足りない」

「それはわかるんだけど、私が一番安心するのはあなたがいてくれることなのよ」

「リンジー……」

「ジェレミー……」

「あんぎゃあああ! ぎゃあああ!」


 俺の声にならない叫びが伝わったおかげで、気まずそうに俺の方へ駆け寄る二人。

おいおい勘弁してくれよ。子供の前で一回戦でもおっぱじめようかって空気じゃねえか。俺の中身が成人した大人だからいいようなものの、小さい子供でもそういうことは意外と深層意識に刷り込まれてるもんだぜ。いくら性欲が湧かない体とはいえ、目の前でそういうことされると、こう、こちらとしても色々と不都合がある。しかも転生後であるとはいえ、仮にも両親は両親だ。親のそういう行為を積極的に見たいと思うやつなんざどこにもいねえよ。というか産後1ヶ月なんだからそういうのはちょっと母体によくねえぞ。自重しときな。


「それじゃあ私、フランツにお乳あげなきゃ」

「あ、ああ」


 出鼻をくじかれたジェレミーの、とても残念そうな声が響く。あ、なんかちょっとスッキリした。

俺はといえば、差し出された母親のおっぱいにしゃぶりつくだけだ。とりあえず栄養を取らないと成長どころか健康に生きられるかどうかすら怪しいしな。あ、でも母乳だからビタミンKとか大丈夫かな……。

そんな細かいところも気にしなくてはいけなくて、本当に神経が磨り減る思いだ。現代医療や現代社会って素晴らしかったんだとわかる。どこぞの陳腐な恋愛ソングの歌詞じゃないが、離れて気付く大切さってのは本当にあるもんだ。


「それじゃ俺は『風魔法』で掃除でもしてるよ」

「お願いねー」


 そう言ってジェレミーは、少し広めの家を掃除し始めた。

……ん?

やはり今また耳慣れない言葉が聞こえてきた。『風魔法』と言っただろうか。

少しずつ覚えてきたこちらの世界の言葉では解釈できない新しい言葉だ。掃除という言葉はわかったので、きっと箒やちりとりの類なのだろうと推測した。それにしては強風が吹きすさぶような音がしているが、こちらからではその様子はよく見えない。まさかこの文明レベルで掃除機などあるはずもないだろうに、この音は一体なんだ? この不可思議な音は、やはり強い疑問として、点火のおかしさと一緒に俺の頭に強く残ることになった。



 数日後、俺の疑念を決定付ける出来事が起きた。


 ある日、俺がミルクを吐きこぼしてしまったことがあった。乳児がミルクを吐くというのは異常のサインでもあるのだが、俺が自覚する限り特に体の不調は感じなかったので、ただ単に飲み過ぎただけなのだろう。

すぐにリンジーがやってきて、吐瀉物を処理してくれている。しかしその処理の方法がどうにも俺の知る方法とは違っていた。


「あらあら、吐いちゃったの。あれだけ飲んでたものねー。今片付けちゃうからちょっと待っててねー」


 そう言って彼女は、俺を抱き上げて服を脱がせた。まではよかったのだが、そこからやはり聞き慣れない言葉を唱えたのだった。


『水の神メルヴィウスよ、穢れを清め給え』


 その言葉を言い終わるや否や、俺が吐いた場所に水が湧いて出て、そのまま吐瀉物を巻き込み宙に浮いたのだった。


 なんだそれは。


 いくら節穴のような目をしている俺でも、この光景のおかしさはわかるぞ。


「あ! あ!」

「なになに、魔法が珍しいの? 大丈夫よ、すぐに慣れるから」

「あー! あー!」


 いやいや慣れるとか慣れないとかそういう問題じゃないっしょ。


 何この光景。

球体の水が浮かび上がる光景なんて、無重力空間でしかお目にかかれないと思っていたよ。もちろんここは無重力空間じゃないわけで、そんな状態が許される物理法則なんてどこにもない。

ていうか今魔法って言ったよな。魔法? 御伽話や童話の世界で引っ張りだこの、あの魔法?

おいおい勘弁してくれよ。

俺が転生した先は中世ヨーロッパでもなんでもなくて、魔法が使える異世界だったって、そういうわけかよ。

おかしいと思ったんだよな。フランツなんてドイツ系の名前なのに、その親はジェレミーやリンジーとイギリス系の名前なんだもの。いくら中世とはいえそんなに名前がごっちゃになってるわけねえもんな。そりゃそうだわ。はあ。


 と納得したまではいいが、あくまで俺が納得したのはここが異世界であるということだ。

あんな不思議空間を経て転生したんだから、異世界に飛ばされたとしても特に不思議はない。ていうか不思議は不思議なんだけど、それはそういうものだと受け入れざるをえない。


 問題は魔法だ。

さすがに魔法が使える異世界なんて聞いてない。よくある大掛かりな仕掛けが必要な魔法じゃなく、めっちゃ気軽に使える便利そうな魔法だし。こんなん許されるのか? ていうかエネルギー保存則とかどこいったんだよ。デカルト先生が泣いてるぞ。


「それじゃ、後でまたお乳あげるから、それまで待っててね」


 呆然としている俺をよそに、リンジーは浮かんだ水球を引き連れてどこかへ行ってしまった。


 魔法かあ……。


揺さぶられっ子症候群:乳幼児を強く揺することによって頭蓋内出血が起きること。主に虐待の結果として起き、しばしば致命的な結果や後遺症を残すことがある。ちなみに本文中のように高い高い程度で起こることは多くないが、起きることもあるので気をつけましょう。


ロタ:ロタウイルス。ノロウイルスとよく似ており、人間に対してもノロウイルスと似たような症状を引き起こす。乳幼児の場合はノロよりもロタウイルスのほうが圧倒的に多い。下痢というか脱水は小児にとって致命的になりやすいので、しっかり水分をとらせましょう。


ビタミンK:母乳は乳児にとって非常に優れた栄養源となりますが、ビタミンKの含有量が低いという欠点があります。現在はKシロップや粉ミルクで補充可能ですが、過去にはVit.K不足による頭蓋内出血などで亡くなった赤ちゃんも多いと言われています。現在でも全くない病気ではないので、小児科でKシロップが処方されています。


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