プロローグ
西野耕平は疲れていた。
早朝からのカンファレンス、午前の多忙な外来、午後の内視鏡、夕方からの説明会、そして業務が終わった後の勉強会。果てには救急の当直だ。
この生活が続いて既に3年。今日の連続勤務時間は既に48時間を超えている。はっきりいって限界だった。
西野耕平は医師である。
大学に入るために人より多く勉強し、国家試験に受かるために人より多く勉強した。そんなつまらない人間だ。
決して裕福とは言えない家に生まれ、恵まれたとは言えない家庭環境に育ち、好ましいとは言えない境遇で勉強をした。それについて今更不満を言うつもりもないが、社会的に成功しているはずがどこか拭えない劣等感を抱えているのは、その育った環境に大きく起因するものなのだろう、とどうしようもない自己分析をしたこともある。
西野耕平は研修医である。
彼の生活は決して健全と言えるものではない。1日の平均労働時間は8時間なぞとっくのとうに超えており、もちろん休日など月に一度あれば良い方である。そして勤務時間外でも勉強を続けている。出身大学の医局は手ぐすね引いて彼を待ち構えており、あと1年もすれば大学病院での勤務と平行して研究をする生活が待っているのだろう。それはきっと今の生活よりももっと過酷で、もっと薄給だ。
しかし彼はその生活を選ぶより他なかった。義理やコネや、そこには複雑な事情が絡み合っている。
西野耕平は疲れている。
過酷な生活以上に、将来への進路に遊びがないことが、必要以上に彼の精神を摩耗させていた。しかもそれは現状最適解であることが明らかであり、レールの上から外れようとすると絶対に状況が悪化することがわかっていた。
自分で選択した未来ではないのに、それを否定出来る材料がない。目に見えない誰かの手に操られるように、どこか気持ち悪さを感じる強制力を感じていた。
だから、彼は諦めていた。
彼の体が宙に浮いており、線路へと投げ出されいることに。すぐそこまで電車が迫っていることに。
死を覚悟したことによる走馬灯の中、彼は思った。
「ああ、もうこれで終われるのか」
白い世界だった。
その白い世界で、彼は一人立っていた。
その耳にどこかから声がした。
「おはよう、そしておめでとう! 君は選ばれたんだ!」
死んだ直後におめでとうと祝われる。一体どんな皮肉なのだろう。そんな彼の苛立ちを無視するかのように、『声』は話を続けた。
「君の才能は惜しい、実に惜しい。このまま事故で死なせてしまうのは勿体無い。しかし残念なことに死者をそのまま蘇らせてしまうことは許されていないんだ。いやー残念、とても残念だ」
「用件はなんだ」
「どうだろう、君は生に未練はないかい? もしまだ生を希望するというのなら、私がその願いを叶えてやってもいいぞ」
「ないな」
即答だった。
あんな生きているか死んでいるかもわからないような生活に戻るぐらいなら、このままはっきりと死んでしまったほうがましだ。彼の言葉にはそんな思いがこもっていた。
しかし、そんな返答を嘲笑うかのように、『声』は言葉続けた。
「そっか、でも君の事情を考慮している暇はないんだ。残念だけど、君には転生してもらわなきゃいけない。ちょうど若くてそれなりに社会水準が高くて、かつ人を救うことができる人材なんてそうそういなくてね。いくらなんでも無理矢理に殺して連れてくるわけにもいかないし。そういう点では君が事故で死んでくれたのはとても僥倖だった。最高にタイミングがいい」
だから。
西野に『声』が聞こえたのはそこまでだった。直後視界は暗転し、浮遊感と共に世界が落ちていく。
深く深く、落ちていく。