02.
〔2〕
むろんマルティナとて本当にまったく何も行動していなかったというわけではない。
成果がどれほどかと問われてしまえば、答えられるものは乏しかったが。
事態の鍵となるもの、それは文字通りに鍵だった。
つまり、師から託された書斎の鍵だ。これは実際には複数連なった鍵束だった。神殿奥の祭司領域に設けられた書斎の部屋の扉鍵であり、部屋内における執務机の引き出しの小鍵であり、重要書類を納めた箱などの鍵であり、あるいは書物そのものの封の鍵だ。
そして、その中身に少しでも目を通してみれば、なぜ師がこれを肌身離さず持ち歩いていたか、それを否が応にも悟らされた。これは、人目に触れさせられるものではないと。――首から常に下げるものなどとしては、本来であれば神官として聖印のみをこれとすべきであるところ、なおもってエンゲルブレクトが鍵束を服下に潜めていた理由。
王国内各都市における大商会の動向、収益と物流の出入り、その整合性と矛盾点に対する指摘、そこから導かれる本当の収益額および税額等の分析。各地の領主貴族たちと、商会それぞれの会頭たちの繋がりを示した相関図、予想図。今後数年内の動向予測、対抗を考えた場合にどのような手段が有効であるかといった考察……などなど。
マルティナには一見しただけでは理解の及ぶようなものではなかった。ただ分かることは、これらは知るべきでない立場の者が知ってしまっては危険だろうということだった。
慕うばかりであった師の、隠された裏の顔の冷たさとでもいうべきものを見透かしてしまい、戦慄に震えかけもしたが。
だが恐ろしいだけではなかった。師の――やはり暖かな、あの人らしい顔もそこにはちゃんとあったのだ。マルティナのために整えられていた書面をまとめた一箱が。
それは、もしあのような唐突に訪れた悲劇と別離がなく、順調にこの先の数年を過ごせていたならば、エンゲルブレクトがマルティナに迎えさせてやりたかったのだろう未来を詰め込んだ希望の綴りだった。マルティナが神聖魔法の使い手としての一定の位階まで修めるに至ったことを認め、正式な神官として大地母神ラフェルティリアの大神殿(大陸の神殿系譜を統括する組織であり、最高司祭が座されている)が管理する神官名鑑に登録する手続きと、それが達せられたことの証明書。モッテンセン村神殿司祭エンゲルブレクトの侍祭としてその筆頭弟子たるマルティナを認め、あわせて司祭位の継承候補としても第一優先者であることを大神殿高位司祭の署名によって保証させた、念書。マルティナの神官修行や、村付き祭司役として周辺の有力者たちとの顔つなぎなどを、どういった順番で進めるべきかといった計画勘案。また、いずれマルティナの婿として招くための候補者たちに関するリストなどもあった(資本の確かな商家の次男三男、あるいは下級貴族の次男三男など、これを見る限りどこのお嬢様の婚姻を考えているのかという、エンゲルブレクトの親ばかめいた一面が垣間見える……)。
師の手記もあった。幾年かけ各方面さまざまな事柄が何冊にもわたって書かれているためそのすべてを読み通そうと思えば日数を要してしまい、この時点ではマルティナに関わりがあるだろう部分だけを抜粋したに過ぎないが。これによるとエンゲルブレクトはマルティナにこの“書斎”を引き継がせるつもりはなかったようだ。かといって無責任に放置するなどといったわけでもない。ではどうするか、それは、婿として迎える男を見極めながら、少しずつ任せてゆくことを考えていたらしかった。なお、大地母神ラフェルティリアを奉じる教義において神官司祭が結婚して家庭を持つことや出産などは忌避されていない(元が豊穣を司り、大地の自然なる生命を敬いあるいは畏れる教えであるから、人もまた大地の上に生きる命として自ずからあるべき営みは推奨されるものとなる。反面、糧とすべき度を越した狩猟や自衛のためでない争いや暴力などは、強く戒められている)。
マルティナがいかに神官として真摯に奉仕修行に励んだとしても、人物としては純朴な田舎娘に過ぎないのだから、都会の組織的な権益だの権力だのが関わる話を飲み込んで見せることなど到底できることではなく、これは妥当な判断といえた。婿候補が商家や貴族の子息で勘案されていたことも、ひょっとしたらこうした側面を含んだ上でのことであったのかもしれない。マルティナごときを単体で見たならばそんな縁談に応じることはとてもありえたものではないが、もしエンゲルブレクトの秘めた“資産”――人から人にしか受け継ぐことのできない立場の価値を見たならば、あるいは魅力的といえる話になってくるのかもしれない。マルティナにとってはこれをどう喜んだらいいのかそれとも嘆いたらいいのか、それすらよく分からなくなってくる話ではあったが。
そうしたすべてを、ここ数年で神官としての修行の成果が結実しつつあったマルティナの行き先をつまずかせぬよう、時期を見ながら少しずつ話してゆく形で、数年後を見据えての準備を進めつつあった……ようだ。かなうことなくご破算と化してしまったわけだが。もし、予定通りに事が進んでいたならば、マルティナは傍目に幸せな家庭を築く未来もあったのかもしれない。それがマルティナの望むものであったかはともかく。ちなみに、十代の後半を迎えても縁談も婚約もないという状態は単なる村娘であれば行き遅れ(婚期逃し)の危機ではあるが、神殿付き司祭の侍者としてまた弟子として祈祷術の研鑽を積んでいる最中ということであればその限りではない(一種の専門職としての特殊能力に価値が認められるため)。
理解さえ及んだなら。遺されたものの価値は、高い。
しかし同時、だからこそ危険だった。
師、エンゲルブレクトの葬儀から一月ほどが経ち、また流行り病の騒ぎにも終息が見えてきた頃。モッテンセン村の地母神殿には訪う者が続いていた。
エンゲルブレクトの生家、エールリン家からの使者。エンゲルブレクトと付き合いがあったという複数の商会からの使者。エンゲルブレクトの出身元である王都大学院の教授の遣いを名乗るもの。エンゲルブレクトの旧友を名乗るもの。
マルティナからしてみればいまさらと思う面も強かったが……しかし、致し方のない面も大きいと理性では認めざるを得なかった。流行り病が猛威を振るう最中とあっては誰しも本拠を守るだけで精一杯であり、使者の派遣なども難しい。ましてや遺体の引き取りや葬儀の段取りを手間隙かけてとはいかない。こうした病の末に倒れた者の遺骸は、迅速に荼毘に付すのが慣例であった。本来のこの地方の風習と宗教観念としては、人の遺体はその身に宿る魂の還るべき自然なる働きに任せておくものであると考えられており、丁寧に土葬することが優先されるべき事柄ではあるのだが、大規模な病の流行りとなった際だけは別だった。なにせ扱い方に手抜かりがあれば周囲ごと全滅してしまいかねないのだから。
それでも知らなかったとはいえ貴族の子息であった者の葬儀を本家のあずかり知らぬところで勝手に済ませたとあれば後からでも何か難癖の言でも寄せてくるのかと始めは警戒したものであったが、彼らの態度は奇妙であった。そもそもエンゲルブレクトの出自に関しては葬儀時点で具体的には判明しておらず(村長だけは何らかのいわくある背景事情を察してはいたようだったが)、彼らの訪いによって徐々にマルティナたちにとって理解されていったことであった。しかし、そうした経緯を責めるようで責めきらず、もっと別の譲歩を引き出そうとしているかのようであった。しかも、その中身についてはなぜか具体的に言及しようとせず、こちらに――そして場に帯同する他の面々にも――なるべく悟られぬまま済まそうとしているような。
そのせいでかえって手間取ってしまい、次々に訪れる客人が膨れてゆく中で騒ぎは大きくなってしまったわけだが。
結局、しびれを切らしたのだろう、ある日の夜間に神殿奥領域へと忍び込もうとした者がとうとう出始めるに至って騒ぎは決定的になった。神殿奥は俗世から切り離された領域であり正式に祭司の役にある者以外が勝手に踏み入ってよい場所でないことは常識であって、名乗りにその背後たる各組織の名誉と責任を負っているはずの男たちが犯すには軽挙であった。この犯人たちは、怪しい動きを訝っていた村長ほか村の青年団数名が神殿周囲およびマルティナたちの警護を買って出てくれていたため取り押さえられたのであるが(村長は神殿から見て氏子の代表者でもあるため、こうした行動には当然の筋合いが備わっていた)、捕まった犯人たちを尋問――とまでは後々のことを考えれば厳しく下すわけにもいかなかったため、村長宅で硬軟入り混ぜた“質問”を念入りしたところ――ようやくに判明した。
彼らの目的。それらはすべて、エンゲルブレクトの遺した権利書面もしくは資料、であった。
そこに値千金の価値を見いだしていたのだ。
事態を受けマルティナは“遺産”の再精査に乗り出したのであるが、しかし一読で理解するには難解なものが多すぎた。そのため、村長にも協力してもらったのであるが(村長は氏子筆頭でもあるため祭司側から正規に協力を求めた場合などであれば神殿奥に踏み入ることができる)、やはり彼にも理解が及ばないことが多かった。それでもなんとか、数日かけて把握できた諸々がつまりは先述した“価値のとんでもなさ”であり……そして、危険性だった。
マルティナは恐怖した。
遺産を求めて集まった訪問者たちは事ここに至ってなりふり構わない態度を見せ始めており、また把握できた範囲に限っても遺産の示すものはマルティナらが手の内として御すには大きすぎた。とても扱いきれない。そして、なりふり構わなくなった男たちによって村の人々や、なにより孤児院の兄弟たちが害されてしまいかねなかった。
残された時の猶予も少なかった。肌に痛いほど緊張の高まりを感じていた。彼らが神殿から、つまりはマルティナたちから力ずくでもし奪い取ったならば、その後にあるのは独占するための争いであり……そして、口封じのための“措置”であろうと。そのような災禍を招くわけにはいかなかった。
だから決断した。遺産を手放すことを。一切合財だ。なぜなら中身を分別する精査が難しく、また下手に知ってしまうこと自体が危うかったため、「なんだかよく分からない物を丸ごと手放す」体裁を取るしかなかったのだ。少なくとも幼い子供らの身の安全を優先しようと考えるならば。
引渡しの場には村長宅を提供してもらい、一番広い応接間に件の書斎部屋から運び出したすべてをごちゃごちゃに置いて、中身なぞ知らぬとし、その分別も誰が何を引き取るかといった決め事も彼ら自身で行うようにと丸ごと預けた。そして立会人を村長に頼んだ。村長は、繰り返しになるが氏子代表であると同時、モッテンセン村のような中規模以下の村落においては領主から直々の代官や徴税役人などが常駐していないことから統治上の責任委任者(の、末端)であって、戸籍整備などが隅々までは行き渡っていないこの地方においても領主下の税務名簿などに名が記載されている。つまり公的な立場が管理されており、領主の知らぬところで他の権威などによってどうこうしてしまうことが難しいのだ。これはマルティナたちなりの精一杯の“保険がけ”であった。また、マルティナについてはこのような対処によって直接関わる場面を最小限にしてかわしたことと、やはり神官位を正式に得ている書状が出てきたことによる“公的な立場”の確保がかなっていたことにより、おそらくは無事に済んだ。……もし、それらがなかったならばあの時どうなっていたものか、いまでも振り返るに恐ろしくあったが。
結果、マルティナの手元に残ったものは、明らかに神殿関係の書面等が収められた小箱一つと、あとは孤児院の日々の費用として小分けされ取り置かれていた多少の現金、それだけであった。
エンゲルブレクトの個人的な日々の思索を綴った手記から、端切れのメモ書きまで。手がかりになりうるものならば関係ないとばかりに貪欲に、遺産を巡った男たちは余さず持っていってしまった。
師の声を――ありし日の教えを思い返すためのちょっとした形見すら、手元に残すことができなかった。
それでも兄弟たちの身の安全を守れたことは、誇っていいのだろうか……。しかし、そうした騒動を経て神殿と孤児院の資金繰りは目に見えて悪化しており、ついにはあの日、何人もの兄弟が旅立たざるを得なかったことを、止められなかった。
無力だった。顔を伏せ、ただ涙を流すことしかできないこの己の、細い腕こそ恨めしく。
打たれて過ごす日々の中、しかしマルティナが“折れきって”しまわなかったことには理由があった。
持っていかれたエンゲルブレクトの手記。遺産の分別をまだ試みていた時期に、その中の一節を読んでしまっていたから。彼の苦悩を知ってしまっていたから。
古び、使いこまれた歳月のうかがえる羊皮紙の綴じ合わせに、おそらくは師がまだ青年の時分であった頃に書かれただろう断片的な言葉の散らし。
――“神よ、我が慈母なる女神よ。しかし膝折る祈りでは、眼前の飢え痩せた子供をいかにして助けられましょう……”
――“神よ、我が信仰捧げたる慈母神よ。祈りのとき、あなた様の大いなる御心は我が身を暖かく包んでくださる。されど、真に救いの必要な子供たちほど、その温もりを知らぬのです。祈りの温もりでは、寒風の吹きすさぶ夜、あの子らの身を凍えから遠ざけてやることはできないのです……”
――“神よ、果てなき大地の広がりと生命の巡りを司りし方よ。なれば、人の子の生き死になど些事ごとき砂粒に過ぎぬのでしょうか。けれどあなた様は我らがごとき卑小の祈りを聞き届けてくださる。なぜ。なぜ。日々の祈りを捧げることができる者はその始まりから余裕があるだけではないのですか。恵まれた者だけがより恵まれてゆくのであれば、神意の説く先とは、すくいの御手は、どこに”
――“神よ。神よ。祈りの道は開かれていますか。それはどこへ向いていますか。私には……わからない。もう、見えなくなってしまいそうです……”
ああ、なんということだ。マルティナはその一片さえも理解していなかったのだ。
彼はただ信仰の先だけを見ることに背を向け、己の手で掴みうる実利を選んだ。
彼は間違ってはいなかった。祈りの奇跡を失ってはいなかったのだから、神意に見限られていたわけではない。だが正しくもなかった。おそらくは、だから術師としての位階がそこで止まってしまっていたのだろう。
しかし、ならば正しさとは何だというのか。
間違いとは何だというのか。
未熟にすぎぬ身のマルティナに分かることではなかった。それでも一つだけいえることがあった。祈りながらも、祈りのためだけに手足を止めてしまわないこと。
そうして時に背を向ける必要があっても、ふたたび祈ることの大切さも見失わないこと。
それが師の生き様だったというのなら、後を継ぐマルティナが誤ってはならない。
この先に何度転ぶとしても。立ち上がり、自らの足で歩んでゆくのだ。
そして。
受け止めたならば。告げねばならない言葉もあった。
師よ。優しき陽だまりのエンゲルブレクトよ。
わたしたちは貴方から巣立ちます。
だから……今まで、ずっと、ありがとう。
お父さん。
さようなら。
◆
それから二十年近くの歳月が過ぎた。
暮らし向きは当初こそ非常に厳しいものがあったが、いまでは何とか日々を飢えに苛まれることなく送れる程度には至れていた。
マルティナは今日も司祭としての務めに尽くす中、一日の締めにあたる儀、夕暮れの祈りを捧げていた。
村の地母神殿が入り口から奥まってすぐ、祈祷の間であり女神神像が見守る場でもある、その中央にて両膝をついて。
両手も組んで、無心に祈りを捧げる……。石造りの神殿にあって祈りの間の高所には採光用の窓開けが取られており、日が傾いて橙から茜へと色味を帯びる時、その影と明かりのまだら模様が幻想的な、あるいは神秘的な光景を生み落とす。また、高価だが燭台にはロウソクの火も少量ながらこの時には灯される。そうした中に身を置いて、俗世から隔絶された純粋な祈りの時間を費やしていられることは、きっと幸いなのだろう。
つい、時の経過も忘れて没頭してしまうことは、マルティナにとって数少ない悪癖であったろうか。神に捧げる祈りの長さを指して悪癖などと評してよいのならば、だが。こうした精神の解放された時においては、昔の出来事に思い馳せることもあった。この二十年来の歩み行きを。
やがて夕焼けの差す光条が茜色を深めるころ。祈りの没入からゆっくりと浮上して……
組んでいた手を解いて胸元に聖印を切ったマルティナは、立ち上がると苦笑しながら場を辞そうとした。笑みの苦味には二つの意味があった。一つは、神に捧げる祈りを無心と言いながらも何かと思索がめぐってしまうことの、この己の未熟ぶりに。もう一つは、今日も務めの終える時間が遅くなってしまったこと。もう日も暮れる。灯りのためだけに燃料を使い込むことが贅沢である村の暮らしにおいて、夕餉をこれからというには遅い時刻であり、それは裏庭に建つ孤児院で待っている子供たちがお腹を空かせて待っていることを意味していた。あまり遅くなりすぎた際は無理して待たなくてもよいと伝えてはあるのだが、あの子らはそこだけは曲げようとしない。特に、皆のお姉さん役であり神官見習いでもあるリアーネあたりが、またぞろ半ば怒るようにあるいは半ば呆れるようにしながら、マルティナのことを呼びに来る頃合いかもしれない。
そうした諸々にまた考え巡ってしまいながらも、手早く場の片付けも終えて。さてあとは戸締りだけ注意したら宿舎を兼ねた裏庭の孤児院の側へ引き上げようかと、マルティナが神殿の入り口へと振り向いたとき。
最初は理解ができなかった。目に映ったものの、気配があまりにも薄すぎて。そして数呼吸かけてようやく識別が及んでから、驚いた。
びくりと身がすくむように、思わず一歩を後ずさった。
いつの間にか、神殿の入り口から踏み入ったすぐ脇の陰なるところに、一人の男が跪いて祈りを捧げていたのだ。
本当に、いつの間にか……。不意なるまま背後を取られた危うい状態だったというのに、まったく気がつきもしなかった。とても静かに、そしてひたすらに祈りを捧げているようだった。
奇妙な男だ。一見して述べられる印象はそれだった。場を染める茜色さえも暗がりつつある中、詳細に見極めることは難しかったが、清潔そうに短く整えられた黒髪の。その濃くも艶やかな色合いと、柔らかくも真っ直ぐに伸びた毛質の兼ね備えは、このあたりの土地では見かけない部類に思えた。瞳の色については分からない。目を閉ざして一心に祈っているから。
しかし何より奇妙なものは、男の服装だった。とても上質そうな、濃紺色のような濃灰色のような布地が丁寧に織られており、そしてやはり清潔そうな。そこまではいいのだが、意匠・様式についてが見かけたこともない未知のものだったのだ。かといって奇抜ということもない。華美ではないが質素でもない。落ち着きを備えた、それでいて非常に洗練されたものをうかがわせる。一瞥では礼服のようにも見えるのだが、よく見るとそれよりはもっと日常的に着こなすための工夫が垣間見え……一種の作業着めいた印象も生じる不可思議さだった。
布地を幾重にも重ね合わる形で着込んでいるのだろう上から、さらに薄く緑味を帯びたような色合いの外套を着込んでおり。その外套も相当に上質なのであろう作りの。それでありながら地味さに徹しているような。
奇妙としか言えない服装だった。まず、ここモッテンセン村のごとく田舎の山村・農村といった場所では衣服というものは貴重品であり、かつ消耗品である事実からも逃れられないため、布地を何重にも費やして一つの衣装を形作るなどといった贅沢とは無縁だった。王都や中央に位置する交易都市に拠点を構えているような上級商人だったならばそういった見栄を兼ねた服装を整えもするだろうが、そうした場合には余人の目に明らかと映らせるべく喧伝する意図が込められており、色味の使い方にしろ意匠の独特さにしろ、そこには一種の下品さにも通じかねない際どい派手さが付きまとうものだった。しかし、この眼前の男からはそれがない。派手さが除外されているのに貧相では決してない。むしろ、余裕のあふれるところから来る泰然自若とした……美学のようなものさえ感じ取れる。
また、男は鞄を一つ、跪いた脚のすぐ脇に置いており、その鞄もまた奇妙だった。上等な品ではあるようだったが材質が不明で、皮革ではなく何らかの布地に近いもののようなのだが質感が見たこともなく、推測すら及ばない。ただ、作りの様式は実用一点張りのようだとは見受けられた。黒一色の地布には少なくとも表から見る限り装飾細工の類いは皆無で、同色の幅広帯が男の肩にまわし掛けされつつ繋げられているだけだ。
と、このように見た目の印象を並べるならとにかく奇妙な男であり、また顔も知らぬ相手であって夕陽も暮れる時刻に無言で居合わせるなど不審者であることは間違いなかったが、さりとて危険人物扱いしてよいかというとそれもためらわれた。服装の上等さとその着こなしからは奇妙といえども育ちの確かさと呼びうるものがうかがえていたし、何より――男の、祈る姿勢が。表情が。
とても、とても一心に祈り続けるその姿が。苦悶に背より汗浮かすがごとく、全霊を織り込められた、その、すがりつくような向かい合わせが。
救いを求める信者のまさに有り様だったからだ。もう最後に神に祈ることしかないと、追い詰められた、迷い子のごとく。あるいは、ありし日に……マルティナ自身もまたそうであった時期のあったがごとく。
ならばマルティナは卑小の身なれど慈母神に仕える司祭の端くれとして、この男に説法することが使命だった。救いきれるものかは分からなくとも、手を差し伸べ、よりよい明日のための導きを少しでも示してやれぬものかと。
男の祈りは深く、長く、いつ終わるとも知れぬものだった。本来であれば祈りの時を横から遮ってよいものではないのだがもう日が暮れきってしまいそうで、これ以上は待つに待てないと判断したマルティナは仕方なく男へ声をかけることにした。
「もし。何方なるかは存じませぬが、もう日も暮れます。当神殿も本日は一旦閉ざすべき刻限にて、申し訳ないのですが……」
と、遠慮がちにマルティナがひとまずの声がけを及ぼしたところ、男は驚いたように顔を上げた。その表情は、なんと評すればよいのか……。まるで“驚いた自分の身動きにこそ驚いた”とでもいうような、分かっていたのに止められなったことの焦りが浮かんでいるようでもあり、それらすべてを承知の上の諦めなり覚悟なりを備えているようでもあり。
見開かれた瞳の色は、髪と同じく艶のある黒色で、美しいだけでなく知性の深さも感じさせた。顔の造作は、二十代の前半から半ばあたりの青年であろうことがかろうじて見て取れたが、しかし見慣れない彫りの浅い顔立ちをしており美醜などについてはとっさに判断を下すことが難しい。人種として少なくともここ近辺の土地に住まう者たちとは異なるのだろうということが察せられるだけだ。ついでに言うとひげは薄そうな肌とあごに見えた。
問題は。重ねて問いと謝意を述べたマルティナに対して、男が困り果てたような顔と仕草で返してきた言葉が……理解できなかったことだ。
それは言葉の細かな意味合いがすれ違っているなどといった些事ではなく、もっと根本的なところからの、つまりは言語の種類そのものが互いの知るものではないことだった。
これには困った……。マルティナは神官としての修行こそ積んでいるが特段学識深いわけではない。知り置いている言語など地元の地方語のほかは、大陸交易用の簡易共通言語を多少かじっているだけだ。しかしこの交易共通語で呼びかけてみても、眼前の青年には分からぬようであった。交易共通語は少しでも聞き及ぶことある生まれ育ちであれば片言のあいさつくらいは子供でもできる文字通りの簡易を第一に作られた言語であるから、これがまったく通じないということは普通ではちょっと考えられないことだった。僻地の暮らしぶりが擦り切れたような見るからに貧農といった姿ならばともかく、この黒髪黒目の青年は明らかに上等な服装を(つまりは金銭的にも高価であろうものを)贅沢に着込んでおり、また佇まいにもしごく落ち着きの備わった理性深さがうかがえるため、育ちが無学ということは考えにくい。
何より……神に祈るということを知っている。おそらくは本当の意味で。祈りとは、本来的に難度の高い“技法”なのだ。俗人には案外に理解されていないことのようだが、祈りの精神状態を形作ること、特にそれを一定より長い時間維持することには、高度に洗練された熟達を要する。そしてその熟達の域に臨むためには背景となる教養を厚く要する。どちらも学習時間を大きく確保しなければならないことであり、暮らしに余裕のない民人にとっては難しいことだ。この点に理解が及んでいない、たとえば無学な農民が形だけ真似していても――こうしたたとえ方は神殿に参拝する者を指して述べるには相当に失礼かもしれず申し訳なかったが――一目で即座に見抜けてしまうものだ。また余談ではあるが、神官として神の奇跡に通じる者とそうでない者の差は、この祈りに対する理解の直観的な到達の差であるともいえた。体質として魔法的な素養を備えているかどうかも重要ではあるが、祈りの精神が正しく練磨されていなくては神々が奇跡を授けるための高次領域に接触できないのだ。あるいは接触できても耐えられないため、神々の側が慈悲ゆえに遠ざけているのかもしれなかったが。
ともかく、そういった育ちの上等さが幾重にも見受けられるにもかかわらず、この黒髪の青年には言葉が一切通じない。ということは、どれほどの遠地において生まれ育ったものであるかといった話になってくるのかもしれないが、それもまたおかしかった。
言葉がまったく通じないままで、片言のあいさつすらも分からないままで、どうやってこの土地まで移動してきたというのだ? すべて従者やらに任せっぱなしであったということもあるかもしれないが……。その従者やらはどこだとか、はぐれたのかだとか、言い出してもキリがないことではあるが、さりとて片言も通じぬ無知ぶりというのはやはりにわかには信じ難い。
信じ難いが、では青年が偽りの態度を演じているのかなどと自問してみるとなれば、とてもそうとは思えなかった。非常に誠実に、そして率直なるまま、ひたすらに困り果てているようにしか見えない。
マルティナは色々と手を変えながら呼びかけてみたが、言葉は何も通じなかった。せいぜい手振り身振りで伝えようとする意図がさほど大外れになっていないのだろうという程度には共通する習慣(うなずきは肯定の意であるとか、首を横に振るのは否定の意であるとかの、とても基本的なこと)を見いだせただけだ。正直言って手詰まりだった。相手も困っているのだろうがマルティマもまた困り果てていた。
どうするか……。もう外を見れば暗がりのほうが深まっている。信心深く神殿に訪った者を言葉も通じぬ状態で放り出すというわけにはいかない。まともに応対のとれない状態ではあるがひとまず今晩だけでも神殿に招いて寝泊りしていってもらうべきか。(神殿に招くといっても宿舎は裏庭で孤児院を兼ねているため、大したもてなしができるわけでもないのだが)
と、そこへ、神殿の入り口すぐ外から新たに声が投げかけられる。
「しっさいっさまー! もーう、まだですか~? みんなお腹空かせて待ってますよぉ。ねぇ、マルティナ母さんってばー」
少女の声だ。唐突に場のありさまを突き崩すかのような、ちょっと能天気ながらも健やかな元気さが備わった。マルティナにとっては日常の呼び声でもある、神官見習いにして内弟子である亜麻色の髪の少女、リアーネの声だった。
夕餉の席にマルティナが遅れすぎていることから、代表して呼びかけに来たのだろう。もし神殿にまつわる務めが長引いているのであればそうした場に踏み入ることのできる身の立場といったものも問われるため、正式に神官見習いであるリアーネは孤児院の他の子らよりもこういった役目を担うことが多かった。
マルティナは、嘆息を一つ吐いて、返答の声をあげた。なんというかぶち壊し感がすごかった。とはいえ、よい契機であるのかもしれない。
「リアーネ。神殿内で祭事に務めている最中には、母さんではなく司祭として呼びなさいといつも言っているでしょう」
「ごめんなさーい。えーでも、もうお外も真っ暗になりそうですよぅ。夕ご飯冷めてきちゃってますし、みんなもたまりかねてお腹ぐーぐー、わたしもぺこぺこでーす」
「リアーネ……。そうした時にはわたしのことを無理に待たなくてもよいと日頃から伝えてあるでしょう。あなたたちがそこのあたりを曲げたがらないことも承知してはいますが、ともかく、お客人の前でその言葉遣いはおやめなさい」
この子の育て方、ちょっと間違えちゃったかしら……と、思わず額を片手で押さえてしまいたい気分のマルティナだった。マルティナは、自身が過酷な形で少女時代からの“卒業”を経ていることやそのことにまつわる術師としての挫折もあったために、自覚を得てからは子供らの天真爛漫さをなるべく手折ってしまわないよう気を払って“真っ直ぐ育てる”ことに尽力してきた。その結果として、元々が朗らかさの豊かな気質であったリアーネは笑顔が太陽のように輝く娘に育ってくれたものの……しかし物事をあまり深く考えようとしないきらいがあるというか、少々おば――いや、止めておこう。
そんなこんなでも神官見習いとしては(神学や祭典作法といった面はともかくとして)術法の素質に優れたものを示しており、これは師であるマルティナのことをたやすく超えてゆくかと思わせるほどであったから、言うほど何が間違っているわけでもないのだが。……ひょっとしたら、かつてエンゲルブレクト師が若き日のマルティナを見ていた視点も、このようなものであったのかもしれない。
「えっ、お客さまですか!? こんな時間に? どこどこー? ――あっ、どうしてそんな陰になっているところに佇んで!? しかも男の人だ! わー、なんかこう、すごい変てこ――風変わりな服装ですねっ! 見たこともないけど上質そうですし、遠い王都かどこかの流行りですか?」
「リアーネ……。あなたね……」
呆れ果てるように重くため息を吐いてから、これは後ほど入念に叱らねばなるまいと決意抱くマルティナだった。どう察したものなのか、リアーネはびくりと身を震わせるとぎこちなく横顔を向け直してきて、そして冷や汗かきつつ困ったように笑いかけてくるのだったが。
まずはなにより、青年に陳謝せねばなるまい。たとえ言葉それ自体は通じていなくとも、人として欠かすべきでない礼節というものがある。
そうしてマルティナは黒髪の青年に頭を下げて詫びて見せたのであったが、かえってくるものはやはり困ったような微笑だけだった。ほかに応じようもないだろうが……。とはいえ、その時に気づいたのだが、青年の名をまだ尋ねていなかった。
マルティナだけしかいなかったときは上手いたとえ方が思いつけなかったのだが、いまならばリアーネもいる。会話も聞かせたあとであるし、三者をそれぞれ指し示しながらであれば名前の呼びわけ程度のことであれば伝えやすかろう、と。
それから何度か、「わたしは、マルティナです」「この娘は、リアーネです」「あなたの、お名前は?」といった単純な問いかけを繰り返してみたところ、青年の反応はまた奇妙なものだった。
マルティナとリアーネのことはすぐさま呼び分けてみせたのだ。主語や述語どころか、語尾の言い回しさえも使い分けた形で。やはり知性の高さを感じさせる。しかし、青年自身の名に関しては頑なに口に上らせようとしなかった。ただただ困ったように首を横に振るばかりで……。本名のみならず適当な呼び名や偽名すらも口にしたがらないということは、自ら名乗るわけにはいかない何らかの深い事情があるということだろうか。
分からなかったが、いま時点ではマルティナたちにはどうしようもなかった。そのため、悩みはしたが彼には「イェンス」と仮の名を与えることにした。このあたりの土地では珍しくもない男性名の一つだが、ちょうどいまのモッテンセン村には同じ名前の住人がいない。ならば按配も悪くなかろうと。
彼は、あっさりと受け入れた。イェンスの名を、自身を示すものとして使ってみせながら、マルティナやリアーネの名との呼び分けもそれぞれ実演してみせた。
それはつまり、意図が通じていることをこちらに対し配慮してみせたということで、そうまで頭がまわる人物であるというならばなぜ言葉一つ通じぬ状態でここに……と、またまた考えが同じところをめぐってしまいかけたが、マルティナは一度だけ首を横に振って物思いを払った。もう完全に夜が更けてきてしまっていたし、ここまでのやり取りを分けもわからぬ体ながら従っていたリアーネの腹部からぐーぐーとアレな音が鳴りっぱなしになっていた。いくら当人に色気のいの字もなく、まだ十台の半ばに届く手前であるとはいえ、そろそろ年頃ではある娘の身に対し、身内でもない男性の目の前で(いや、身内であっても問題が皆無というわけではないのだが)このアレっぷりを晒し続けるのはさすがに酷というものだった。
ならば、とにかく明日だ。今日はもういいだろう。
祈り捧げることを知る信者に対してであれば、神殿が屋根を貸して数日の逗留を面倒見るくらいのこと、たとえば巡礼路の途上にある町の神殿などであれば珍しくもないのだから。ここモッテンセン村のように辺鄙な位置の山村となれば珍しいことではあったが、それでもたまの経験がないわけではない。
「では、イェンスさん。裏庭の宿舎までお越しください。いまでは孤児院を兼ねた建屋であるため多少騒がしいかもしれませんし、あまり贅沢にはおもてなしもできませんが、夜露を凌いでいただくお役にならば立てることでしょう」
そう一応は言葉でも告げて、実際にはマルティナは手振り身振りをもってイェンスと名付けた青年のことをいざなう。
しかしイェンス青年は、意味が分かっているのかいないのか、なかなか足を動かそうとしなかった。何度かの呼びかけの後、ええいならば致し方あるまいと――マルティナだっていい加減疲れが限界に達してきていたしお腹の虫とて鳴り出しそうなのだ――イェンスの手を握ってマルティナは、多少強引に引っ張ってみた。すると……イェンスはまるで観念したかのように諦めのにじむ微笑で一歩を踏み出し、その後は手を引かれるままに従って歩いた。
まったく、はじめから素直に招かれておけばいいものを。
そのように何となく思い至ってから、マルティナはくすりと一つ笑みをついた。いい大人の年齢に達しているとも言える青年に、それも身形も立派な男性に対して取っていい態度ではない。しかし、当たり前の言葉も知らぬ様、そうした状況に戸惑いながらも困り果てた様、あげくマルティナに手を引かれて歩いている様を見たならば……。失礼だとは思いつつも、まるで母親からまだ離れられぬ年端の、幼い子どものようで。落差が微笑ましくて。
「ほらイェンス、早くおいでなさい。夕餉のスープを温め直しましょう。きっと、お腹の中から身がほぐれてくれますよ」
つい、そんな言い方が口からこぼれてしまっても、大目に見てほしいものだ。
面倒を見ているのだから、それくらいの役得は許してほしい。
この日、この奇妙な青年との出会いが、マルティナの生涯を激しく揺さぶることになる運命の瞬間であったことを――
悟る日は、まだ少し先のことだった。
服装の描写のあたりなんですが、ぶっちゃけますと現代ビジネススーツ(と、付随するトレンチコートやらビジネスバッグやら)なんですけども。
それと知らない相手から見たらどのように印象と検分が生じるかっていう面がちょっと難しくってですね、無駄に字数を費やした冗長な文章と化していたら申し訳ないです。
あと後半部が勢いで書きなぐった感が酷いので後日手直しを――しないぞ! しないとも! 勢いで生きるっ! テンション! ヒャッハー!
ここまでお読みいただけたあなた様に、おありがとうございますと感謝の舞い ┐(´゜д゜`)┌ ポアー




