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01.

 その男と出会うまで、マルティナは控えめに言っても疲れた女だった。

 それがこうも色鮮やかな日々を、しかもこの歳となってから迎えようとは。人の運命とは分からないものだ。


     〔1〕


 マルティナ・フェーステットは、豊饒と慈愛を司る大地の女神ラフェルティリアに仕える女司祭である。辺鄙な山裾の農村モッテンセンの地において、細々とながらも営まれてきた神殿の今代を預かっている。

 マルティナはかつて戦争孤児であり、また出自はどこにでもいるような農民の子だった。およそ三十年前の国境紛争の折、村ごと焼け出されて両親親族を失うも、そうした惨状を嘆かれた先代司祭エンゲルブレクトが私財を投じて開いてくださった孤児院(神殿の裏庭に併設されている)に運よく拾われ、飢えることも凍えることもなく幼少時代を過ごすことができた。

 さらにはこれを幸運などという表し方をしてしまってよいのかどうか……当時数多くいた孤児たちの中、唯一マルティナだけがエンゲルブレクト師にならって神聖魔法(あるいは祈祷術とも呼ばれる)の才を開花することができた。

 初めて女神の慈悲深くも広大極まりない意識次元に触れえた際には、そのあまりの大いなる包容力に畏伏と驚嘆と……信仰者としては未熟に過ぎるありさまではあるものの、恍惚すら覚えてしまったものだ。また、この神官としてのなによりの証左たる能力に目覚めていたため、エンゲルブレクト師が夭折された際にも次代を絶やさず継承することができた。

 だが、問題もあった。

 それは神殿単体ならまだしも孤児院の運営費用まで含めた場合、どうしたなら賄ってゆけるのかという収支の問題だった。神殿としての運営だけなら、周辺の祭祀系譜に参する氏子たちが様々な形で分け負ってくれるし(農村地帯であるためそのほとんどは人手の供出か物納といった形になるが)、神聖魔法の使い手としてまた神官として怪我人や病人を癒した際などに礼料もある。だがそれはあくまでも地域に根付く神殿と祭事のためのものであり、先代司祭が個人的に開設した孤児院の子供たちの糊口のために……となると話が違ってくるのだった。そもそも農村、農民の暮らしとは決して楽なものではない。親もいないどこぞの子供を養うくらいなら、その分で自分たちの子や老いた親を少しでも楽に、と考えるは必定のことだった。

 では先代司祭エンゲルブレクトがどのようにここを解決していたかというと、実のところエンゲルブレクト・ステッラン・エールリンは貴族一門の出であり、エールリン家は商業的な立ち回りなどに成功してそれなりの資産を築くに至った子爵家であった。とはいえ、エンゲルブレクト自身は三男の身に過ぎず家財の継承位置にないことや神聖魔法の才があったことから、王都の大学院で優秀な成績を残しながらも官位に進むを望まず自ら世俗を捨てての出家を果たした“変わり者”であったため、目に見える形の私財をそこまで有していたわけではない。彼の本領はその切れ味優れた頭脳と、そして人脈にあった。

 片田舎の農村などに半ば隠棲したような身でありながらも、彼のもとにはけっこうな頻度で手紙が届いていたし、年に数度は人の訪いもあった。また、エンゲルブレクト自身が時おりどこかへ遠出することもあり、おそらくはこの際に王都を始めとした中央都市、交易都市などにおける人脈を繋ぎ、あるいは相談事の解決などに乗り出していたものと思われる。他にも、豊富な人脈というものはそれ自体がさらなる人脈のための働きをもたらす――つまり、既存の人脈に対する伝手(つて)を求めた者たちがその紹介を願い、ならばそこには相応の謝礼なりと、そして次なる人脈の広がりが生まれるということだった。

 こうした人知れず立ち働くような差配の結果(少なくともモッテンセン村の皆々はあの温厚篤実でいつもニコニコと笑顔の温かな“おらが村の司祭さま”が、まさかそうした日々の裏側で時に国政すら左右する影響力を持つ交易商会の権益に関する助言や解決を請け負っていたなどとは、思いもよらないことだろう)、先代司祭エンゲルブレクトは必要な時に金に困るということがなかった。孤児院の開設費や運営費なども、時に触れ折に触れ、いずこからともなく十分な額を円滑に確保できていた。

 そのすべてが、彼の死とともに瓦解してしまった。

 マルティナでは、尊崇する師の“代わり”には、ならなかったのだ。そもそも彼がそうした働きごとを担っていたこと自体、後から少しずつ把握できていったことだった――ある意味で唯一の弟子たる立ち位置にいたマルティナに対してさえ、自ら明かし語るということはなかったがゆえに。これは神官師弟の身としては理解できないことではない……。元より、そうした世俗に関わる金働きとなると、本来は信仰の道を歩むため世俗を捨てたはずの聖職たる身にとって忌避されるべきものにあたってしまい、小なりといえども一つの神殿を預かる長たる身の司祭が自らそこを踏み入って……となると、たとえ神殿本組織に知られたところで破門というほどの禁事ではないとしても、信仰者として“恥”の大なるところであるからだ。

 また、彼もまさかこんなにも早い時期に、ろくに司祭位としての務めに関する引継ぎもできぬまま夭折することになろうとは、さすがの頭脳をもってしても見抜けているわけがなかったのだろう。当時彼はまだ四十代の前半といった歳……これが日頃から栄養の不足した(もしくは偏った)農夫などであればその年齢で亡くなることも珍しくないとはいえ、幼少から育ちの恵まれた貴族や聖職の身分であればもっと一回り二回りは長生きできるはずであった。

 しかし、あの時――もう、二十年近くも前になるのか。そのさらに数年前から断続的に各地域で見受けられた収穫の不良、これに追い討ちをかけるように流行り病が――あるいは、だからこそ引き起こされたものであったか――広がった。この病は一旦罹患したならば致死性の高い重篤なもので、当時の彼が行使できた位階の奇跡では……つまりはせいぜいが“中の下”程度と見なされている『病気治療(キュア・ディジーズ)』の術では、すべての法力・精神力を一点投入したならば一日に一人治せるかどうか、といった厳しいものであった。もっと上位の『快癒(リフレッシュ)』や『復活(レストレーション)』の術を使えるのであれば(そしてそれほどの実力を有する高位司祭であるならば)違った結果も望めたのかもしれないが。だが単に神聖魔法の最初級の術を使えるというだけの素養者でさえ、一千人から二千人に一人ほどしかいないと言われているのが現実だ。ましてやその素養者の中からさらに数百から数千分の一、ある地方を統べるほどの大国を見たとしても一時代に数名いるかどうかの高位司祭などと、望むべくもない。

 唯一の救いは、感染力の方はそこまで強くなく、ありていに言ってしまえば既にかかってしまった病人を隔離し、触れぬまま死なすに任せておけばそれで終息を図れたということだった。民全体、国全体としては、それもいいだろう……個人の忸怩はともかくも、物事には現実的な妥協点というものが必要なのだから。

 だがそれで済ませて目の前の重病人を見捨てられるというのなら……そういう考えのできる人であったなら、そもそも何十人もの孤児を抱え込んでまで救おうなどとはしなかったろう。いくら慈母神の神官といえども、それは普通であれば個人の負える責の範囲を超えた話だ。それでも見捨てられないという人だったから、その考えと行動力の合わさった人だったから、マルティナたちもまた救われていたのだ。ゆえにこそ、ああした状況で彼が病人の治療に乗り出すこともまた、必然だった。

 それを当時のマルティナとて理解していた……。だが結局は、あの人の行動を止められなかったことを、悔いずに済んだ日もまたなかった。

 当時、まだ二十歳にも満たぬ小娘だったマルティナは――その歳だった当時の己は既に自らを一人前に働くこともできる大人だなどとうぬぼれていたが、ああ、後から振り返ってみればそれはなんと物も知らぬがままの思い違いであったことか――既に“下の上”程度までの神聖術を行使できるようになっており師からは己が同じ歳だった頃と比べれば倍の才だと褒められて調子に乗っていたものの、『病気治療(キュア・ディジーズ)』を行使するにはまだ一歩手前の段階だった。そのため、師を手伝うといっても、患者の看護や補助的な薬湯などの用意といった程度しかできず。

 日々、意識を失いかねない寸前までその生気を使い果たしながら奔走していた“慈悲の賢人”エンゲルブレクトは、モッテンセン村を始めとした近隣一帯の病状沈静化に一役を買うことには成功したものの……とうとうある日、自身もまた病を得てしまい床に伏せた。

 ただでさえ既にやつれていた心身に、加えて高熱と悪寒の攻め立て、身の震える病苦に苛まれて。そんな状態では奇跡の行使に精神を集中させることも難しい。だから治癒師が自身をその術の対象とすることは平時において推奨されない……。実際、エンゲルブレクト師は己に対する『病気治療(キュア・ディジーズ)』を失敗した。失敗といっても術自体の行使発動はできているのだが、病魔を払うに足る抵抗力を“抜く”ことができなかったのだ。そして一度挑戦に失敗した術は、同じ術者が同じ対象に対して短期に行使を繰り返しても効果を望めない。術種にもよるがしかるべき期間を置くか(おおむね一月から二月ほどとされている)、あるいは明らかな技量の向上を果たしてからでなければ意味がないのだ。いかな奇跡の法術といったところで、神ならぬ人の身を通して揮われる力だ。どうしたところの限界というものがやはりあるのだ。

 こうしたすべてを、当時のマルティナは端から眺めていることしかできなかった。病魔を己が身にも患ったことを自覚した師は、その日から自らの近くにマルティナが寄ることを禁じた。万一にもマルティナにまで感染を及ぼしてしまうことを恐れたがゆえだった。もしマルティナまで倒れたら、この村一帯から治癒術を使える神官が当面いなくなってしまう。危難の去りきらぬ中にあって、またこれからの暮らしの建て直しを見据えた際にも、重要な判断どころであった。それを命じる師の声は厳しく強く、マルティナがどんなに泣いても叫んでも崩されることはなかった。弱りゆく師の身の世話は、村の女衆の中でも年配の者たちに任せられた。

 そして、わずか十日と経たぬ内に迎えることとなった、最期の日に。だが別れの言葉すら、直接交わすことはできなかった。マルティナは部屋の外、さらにも間をあけた位置までしか近づくことを許されず。そこからどうにか届けと投げた声はおそらく師の耳まで届いていたと思う。けれど、それにあの人が返してくれたであろう声は、あまりに弱々しくそして枯れており、マルティナの耳が拾い上げてくれることはなかった。その日ほど自らの身の鈍さを呪ったことはない……。結局、最も大切であるはずの言葉を、人づてを介して聞き直すしかなかった。目の前に……本人がいらっしゃったのに。

 あの人が残してくれた言葉は、主にして三つだった。一つは、神殿と司祭位に関する次代と、また師としてそれを継ぐ弟子たるマルティナへエンゲルブレクトの資産一切を、託すということ。一つは、それら相続にまつわる書面等の引き出しのため、エンゲルブレクトが常から首に下げる形で身に着けていた書斎の鍵を、ここで渡しておくということ。そして最後の一つが……我がいとしき“娘”よ、愛しているよと。

 マルティナは泣いた。なるべく人知れぬよう、物陰に沈むようにして泣き暮らした。だが何に対して泣いているのか、その本当のところは己にも分からぬままに。そしてまた、たかが十七・八の小娘が涙を隠したつもりでいたところで、周りの人間がそれに気づかぬはずもない。もはやそうして幾日を過ごしたか判然とせぬほど頭に靄がかったかごとくのマルティナに――つまりは役立たずの小娘に――どう見切りをつけたのか、それとも純粋に気遣いであったのか。事後のさまざまな段取りは、周囲の村人と“兄弟たち”がどうにか形をつけていってくれた。

 そう、兄弟たち。おそらく最も問題であったのが彼ら彼女らだったろう。孤児院で育った仲間……大切な家族、兄弟姉妹たち。件の国境紛争の折にまとめて拾われた者たちの中においては、マルティナはどちらというなら若年層であったから、既に多くの年長たる兄姉たちが孤児院から巣立っていた。マルティナと同年代前後の者たちも。問題は、それよりも年少の、ちょうど十代の前半から中盤を迎えつつあった弟妹たちだった。なんといっても、神殿に職を得られているようなマルティナこそが例外なのだ。よほどの教養と実践的な知識・技術を身につけ、かつ強力な後見を得て紹介されるということでもなければ、身内や親族でもない人間がまともな職を新たに得るということは難しい。底辺から丁稚奉公を積み上げる必要があり、そのためには年齢が上すぎても下すぎてもいけない。丁稚の内は給金なぞろくに払われないから一家の身を立てるべきとなる大人として育ちきった年齢の者など囲えないし、教えを叩き込むにも頭が固いとなる。かといって子供すぎては便利使いするにも能が足りないとなるし、そもそも“食わせて育てる”ほどの面倒見をよくする筋合いもない。

 これら絶妙に時宜の見定めを要する職の斡旋を、先代司祭エンゲルブレクトは当たり前のように、巣立つ子の将来の希望に沿うことすら叶えつつ卒なく差配していた――ここにも師の非凡なる手腕が垣間見える――が、当時、何も分かっていなかったマルティナたちは、それが普通だと思っていた。なんと愚かしくも勘違いした様であったか、大して日も置かぬ内に思い知ったわけだが。

 結局、マルティナは何らも綺麗に解決することができなかった。師にして皆の父、エンゲルブレクトの葬儀やその後のもろもろも落ち着きかけた頃、気がついたら(現実としてそんなはずはないのだが、当時のマルティナにはそうとしか感じられなかった)明らかにまだ身体が育っていない年少の数名を除き、仲間は順を競うように旅立ったあとだった。皆、事情の正確なところが分からなかろうとも察していたのだ……。もうこれからの孤児院運営には余裕がないと。だから身体の育った年の“兄”“姉”たちこそ、そうたらんとする誇りを胸に、後を譲った。彼らはマルティナの肩を叩き、笑いかけながら旅立っていった……「なに、ある意味ちょうど各地で人手不足の時勢なのだから、手早く入り込めば働き口の一つや二つくらいあるさ」などとうそぶいて。

 見送った背中と託された言葉。その本当の意味を数日かけて少しずつ実感したあと、マルティナは静かな夜にまた泣いた。

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