四章・Happy end or Bad end?
芹彦に送らせるよ、という草子の言葉を綾は断った。それについて草子は何も言わなかった。
綾は夜道を歩き、家に帰る。
思考がひどく混乱していた。
狼男の怪異が達人だった。
ということは、レッドキャップの怪異は――嫌な予感が頭を蠢く。
草子に聞けば怪異の正体を教えてくれるのだろう。
けれど何も訊いてはならないような気がした。
明日、全てが分かる。
だからこそ、綾は明日全てを知ろうとしていた。
どんな結末が待っていようとも受け入れようと決めた。
それでもその日、綾はなかなか寝つくことはできなかった。
***
「これは油断したね」
明朝、生徒会室を訪れた草子は、目の前に広がる光景を見てそう呟いた。
草子たちがいつも座っているソファーは全てずたずたに切り刻まれ、テーブルも割れている。
伽羅がお茶を沸かす急須や、お茶を淹れる湯のみも割れ、茶の葉も撒き散らされている。
「ひどい有様でござるな」
「ああ……。あたしの責任だ」
綱で縛っておいた狼男の姿は消えていた。
狼男がいた場所にはちぎれた縄が落ちている。
おそらく狼男は逃げるついでに腹いせとして室内を破壊したようだった。
「ただの狼男ではなかったということでござるか?」
「キャッキャ。じゃあ、あの怪異はなんだって言うんだ?」
芹彦と森彦がそれぞれ疑問を呈する。
「もしかしてワーウルフではないデスか?」
そのふたりの疑問に玉臣が思いついたように草子に尋ねた。
「いやワーウルフでもあの縄はちぎれるはずはないよ」
けれども草子は否定する。
「草子さん、あの縄って確か……『ねずみの恩がえし』に出てくる綱がモチーフですよね」
ああ、よく覚えていたね。草子は感心するように伽羅を褒め、
「確かに狼男を捕えていたのはライオンを捕え、ねずみに食いちぎられた綱だ」
「つーことはなんだ? ねずみに食いちぎられたのかよ?」
「確かに物語の観点から言えば、そうだろうね。けど……」
草子は生徒会室へと入り、ちぎられた縄を手に取る。
「これがねずみが食いちぎったように見えるかい?」
「どっちかと言えば、無理矢理引きちぎったって感じですネ」
草子が持つ縄を見て玉臣が感想を零す。
「その通り。これは無理矢理引きちぎったんだ」
「でもだとしたら、誰が引きちぎったんだよ?」
「あたしたちが狼男だと思っていた怪異だ」
「ということは、まさか怪異は狼男ではなく、ねずみ男ってことですか?」
ねずみがライオンを捕えた綱を食いちぎれるというヒントだけを頼りに、伽羅は答えを導き出す。
「どこのゲゲゲの妖怪だ。それにねずみじゃないって言ったばかりだろ」
伽羅の的外れな答えに草子は嘆息しつつ、言葉を続ける。
「この場合、綱に使った物語は関係ない。むしろ関係あるのは神話的要素だ」
「神話的要素ですか。そういえばその縄の神話的要素ってなんなんですか?」
「ドローミだ」
「はて、なんでござったかな?」
どこかで聞き覚えのある名前に芹彦は首を傾ける。
「北欧神話に出てくる、鉄鎖の名前だ。ちなみに〈絞首斬首人〉を捕まえたのもこの縄を使った」
「そうでござったか。だから聞き覚えがあったわけでござる」
「このドローミという鉄鎖、これはある怪物に破られたことがある」
「つまり、ミーたちが狼男だと思っていた怪異は実はその怪物だったってことデスね?」
理解が早くて助かるよ、と草子は感心し、
「その怪物の名はフェンリスウールヴ。フェンリルって言ったほうが、なじみがあるかもしれない。それこそがあの狼男の本当の神話的要素だよ」
「……それは強いのでござるか?」
「北欧神話の主神であるオーディンをラグナロクのときに飲み込むね」
「……それは強いでござるな」
「……強者、楽しみ」
芹彦の呟きに同調して、健も戦うのが楽しみだと言わんばかりに呟く。
健は一晩眠ったことで、昨日の疲れはすっかり取れていた。
「どうするんですか?」
「どうするも何も、あたしが予想した物語は、フェンリスウールヴだろうが狼男だろうが、変わりはしない」
「キャッキャ。それなら何も支障はねぇだろ」
「大ありだよ。ちったあ考えろ、赤毛猿。あたしは捕まえた狼男を利用していようと思っていたんだ」
「なるほど。つまり逃げられた以上、利用することはできない、とそういうことデスね」
「そういうことだ。でもまだ策はあるよ。綾をさらに危険な目に遭わせるのはしのびないけどね」
***
「私を囮にですか?」
昼休憩、綾を屋上に呼び出した草子は、綾に囮になってほしいと告げた。
「ああ、そうだ。危険はないとは言えない。けど物語を完結させるには、綾の力が必要だ」
草子は綾に力を貸してくれと力強く訴えた。
だからこそ、だ。
「やります」
綾は草子の想いに応えるように、頷いた。
綾がすぐに頷けたのは、昨夜、覚悟を決めていたからだ。
全てを知ろうと。どんな結末でも受け入れようと。そう決めていた。
だからこそ、今日の綾の目覚めは心地良いものだった。
「ありがとう」
草子は綾の手を握り締めた。綾を包むその手は太陽のように暖かかった。
それだけでなぜか綾は囮になるという不安が少しだけ薄れたような気がした。
「綾」
草子が綾の名前を呼ぶ。綾は黙って草子を見つめた。
「今日の放課後、全てを終わらせるよ」
草子の言葉に綾は大きく頷いた。
***
「放課後、生徒会室に来てくれ」
そんな指示を受けた綾は言われた通り、生徒会室を訪れた。
「待っていたよ」
ノックして入ると足を組んでソファーに座っている草子が出迎えた。
朝、ボロボロだった室内は驚くべきことにすっかり元に戻っていた。
綾は狼男改めフェンリスウールヴが逃げ出したことは教えられていたものの、室内がメチャクチャになっていたということを知らされていない。
だからこの生徒会室が修復されたものだということには気づかずにいた。
草子が座るソファーの机を挟んで向かい側、いつもは綾が座る席に、うなだれた伽羅の姿が見える。
なにやら、疲れているようだった。
それでも伽羅は綾に気づき、今お茶を淹れますと立ち上がり、ふらふらとした足取りでいつもいた場所へと歩みだした。
「伽羅さん、大丈夫なんですか?」
伽羅を心配そうに眺めた綾は伽羅の体調を草子へと尋ねた。
「たぶん、大丈夫じゃないね。何せ、伽羅はたった半日でこれをやってくれたんだからね」
草子が綾へと言葉を返したが、綾にはそれが何のことか分からなかった。
伽羅が疲れている理由は、明白だ。
早朝から今の今まで、全身全霊を費やして伽羅はひとりで生徒会室の修復を行ったのだ。もはやそれは神業だった。
まあ座りな、と草子に促された綾は先程まで伽羅が座っていたソファーへと腰を降ろした。
「他の皆さんは?」
伽羅と草子の姿しか見当たらない室内を見回し、綾はそう尋ねた。
いつものように伽羅がはいどうぞと気配なく近づき、お茶と串団子を置く。綾はその光景にももう慣れていた。今日の串団子は白い三つの団子にきな粉がまぶしてあった。
「いただきます」
小さく呟いた綾は、串の一番上に刺さったきな粉団子を頬張る。
パサパサとした感触のきな粉が口の中にくっついた。噛む度に団子がそれをはぎとり、口の中に甘みを作っていく。
「健と芹彦は、時間ギリギリまで武道館で稽古をしているよ」
綾が串団子を味わうなか、草子は独り言のように言葉を続ける。
伽羅はいつもの定位置でふたりを見守っていた。
「森彦は昨日に引き続き、死にスポットを見張ってもらっている。そこにレッドキャップが出てきてもらっては困るんでね」
綾が串団子の一番下に刺さっている、一番食べづらい団子玉を大きく開けた口へと入れ、唇で串から引き取り口の中で転がす。
併せて、何も入っていない草子の口も動き、そして言葉を紡ぐ。
「玉臣には、これを使って人払いをしてもらっている」
草子が見せたそれは菱形をした透明のプラスチックのように見えた。そこになにやら草書体のような文字が書かれている。
「ほれはなんれすか?」
口に団子を含んだままの綾が尋ねると、
「ちょっとした嘘が込められた不思議なアイテムだよ」
草子はそうごまかした。
だから当然、それがなんなのか、綾には分からなかった。
けれど同時に綾は教えてくれないだろうと薄々感じていた。
きっと言えない何かがあるのだ。
けれど綾はそれでいいと思っていた。
今日、物語は完結する。
その幕が降りてから、綾は尋ねようとそう決めていた。
***
「行くか」
芹彦と健、森彦に玉臣が生徒会室に戻ってくると同時に草子は立ち上がった。
草子を先頭に綾に芹彦、伽羅が続き、その後ろに玉臣、森彦、健と続く。
七人が歩く廊下は静けさに包まれていた。校庭で行っているであろう部活の声もなぜか聞こえない。
その静けさが綾には不気味だった。
嵐の前の静けさというのはこういうことをいうのかもしれない。
玄関で各々が靴に履き替える。
綾は自分の靴が閉まってある下駄箱に、先程、草子が見せた菱形のプラスチックが貼ってあることに気がついた。
玄関の前で草子は言った。
「綾、ここからはひとりで行くんだ」
「いよいよなんですね」
ああ、そうだと草子は一言。「それと危険な目に遭わせてすまない」と言葉を続ける。
「気にしないでください。私が決めたことですから」
言葉を紡ぐ綾は明らかに怖がっていた。囮になるということは怪異に襲われるということだ。
今まで平凡な日々を過ごしてきた女の子が、そう簡単に覚悟など決められるわけがなかった。
若干ながら綾の手は震えていた。
「綾殿。大丈夫でござるよ。拙者がすぐに駆けつけるでござるから」
芹彦は綾の恐怖を和らげるように言って綾の手を握り締めた。
芹彦の手の温もりによって綾の手の震えが止まる。
「行ってきます」
握られたまま、綾はそう呟いた。
「頼んだでござる」
芹彦は綾の覚悟を後押しするように笑顔で応え、握る手を離した。
***
やっぱり誰もいない。
玄関の前で草子たちと話していたときから感じていたことだが、グランドに出ると改めてそれを実感させられる。
いつもなら、様々な運動部が部活をしているはずなのにグランドには誰ひとりとしていなかった。
いや部活をやろうとしていた形跡はある。
グランドの左右に設置されている大きな照明が、誰も使っていないグランドを照らしていた。
綾はそのグランドを校門に向かって歩いていく。
少しだけ気になって後ろを振り返ると、玄関には誰もいなかった。
芹彦たちは既にどこか――おそらく校内だろう――に隠れていた。
綾は振り返るのを止め、再び歩き出した。
グランドの真ん中あたりに差し掛かった、ちょうどその頃、そこかしこから犬の鳴き声が聞こえ始めた。
さらに校門から何者かが入ってくる。
グラウンドの大照明がその何者かの姿を映し出す。
その何者かは、今日終わらせようとしている物語に、フェンリスウールヴという神話的要素を付け加えることで、この世に顕現した異形の化け物――怪異だった。
フェンリスウールヴは何の迷いも見せず、犬のような走りで、綾へと向かってくる。
同時に――、
「ババァァァアアアアアアアアアア!」
大音声が大気に轟いた。
綾が声の聞こえたほうを見やると、そこにはレッドキャップがいた。
囮になることしか聞いていなかった綾は大いに慌てた。二匹の怪異が来るとは思わなかった。
おろおろする綾の上空から、空を切り裂くように、稲妻が迸り、グランドに刺さる。
綾に噛みつこうと突進していたフェンリスウールヴは自分の前に落ちてきたそれ――ゲイ・ボルクにぶつかりそうになり、立ち止まる。
空から健が降りてきた。両手両足をどしんと地面につけ、きちんと着地する。大地に突き刺さるゲイ・ボルクを抜き取るとフェンリスウールヴへと向かう。
綾が視線を空に映すと、雲ひとつない空にぽつんと金色の雲だけがあった。
それは森彦のきんと雲だった。ただし、森彦ひとりが乗っていたときよりも大きい。どうやら生徒会の面々はそこに隠れていたらしい。
さらに、ぎぢんっ、と金属のぶつかる音が横から響く。
見れば、レッドキャップの斧を、芹彦の刀が防いでいた。芹彦も同じく飛び降りたのだろう。
「やれやれ、どうやら無事におびき寄せることに成功したようでござるな」
フェンリスウールヴとレッドキャップ、二匹の怪異が現れたことに安堵の息を漏らす。
きんと雲が綾の前まで一瞬で移動し、そこから草子、伽羅、玉臣が降りる。
最後に森彦が降りると、役目を終えたきんと雲は空高く舞い上がり、遙か彼方へと消えた。
「芹彦、今回は二刀流はやめること。十字架作って逃げられたら台無しになる」
「分かっているでござるが、それはかなり大変でござるよ」
「健がさっさとフェンリスウールヴを倒してくれればすぐに終わる」
「草子さん、僕は何をしますか?」
「綾を守れ。玉臣もだ。あたしは健と協力して、フェンリスウールヴを倒す。森彦、お前は自分の役目分かってるだろうね?」
「雲の上で散々言われたから、分かってるっての。つーか、なんかワシだけこき使われてないか?」
「気のせいだ。四の五の言わずにとっととやれ」
分かった、分かった、と少し投げやり気味に森彦は答えると、自分の頭の毛を引きちぎって手のひらに乗せ、ふぅーと息を吹きかける。
すると息を吹きかけられた髪の毛が宙を舞い、やがて人の形を象る。
現れたのは森彦に瓜二つの森彦の分身だった。数はぱっと見では数え切れないほどだ。
全員がキャッキャと笑い、一斉に走り出す。
走り出した森彦たちは学校を囲うように円を組む。
「これで怪異を学校から逃がすことはないね」
フェンリスウールヴに向かいながら、草子が呟いた。
「待ってください。学校には他の生徒が誰かいますよね、その人たちが危ない目に遭っちゃいますよ」
綾は他の生徒の身を案じて、思わず叫んでいた。
「いないし、遭わないよ」
草子の代わりに応えたのは、綾の傍らにいる伽羅だった。
「この学校にはもう僕たち以外、誰もいない」
「なんでそんなのが分かるんですか?」
「そうなるようにこれで僕たちが誘導したからだよ」
伽羅が見せたのは下駄箱にも張ってあった菱形のプラスチックだった。
「そんなもので……」
「これは人避けのお札みたいなものなんだ。これを貼った場所に、一般人は近寄れなくなる」
「まさか……」
綾は声に出したものの、部活が行われてなかったことが、人避けのお札の効果を証明しているように思えた。
「だから大丈夫」
伽羅は綾を安心させるように笑顔を見せた。
***
「健。変身はするなよ」
草子は健へと指示を出しつつ走り、さらにポケットから取り出したウチデを自分の身長ほどの長さに伸ばす。
健の変身を草子が止めたのは昨日の変身の疲れがまだ取れてないと判断したためだ。
「……御意」
健は小さく頷く。
変身は身体への負担が大きいため、疲れが取れきってなければ変身したところで全力は出せないのだ。
頷いた健の紫電を纏い逆立っていた髪が落ち着く。
健は接近するフェンリスウールヴをゲイ・ボルグで突いた。
フェンリスウールヴは少しだけ体を横に逸らすことで、その槍を避け、前進。
しかし前進を阻むように草子が左からウチデを振り回す。
フェンリスウールヴはウチデを避けることはしなかった。わき腹へとウチデの熱く重い一撃が入る。結果、フェンリスウールヴの腹は鎚頭をかたどった火傷を負う。
それでもフェンリスウールヴは踏ん張り、衝撃だけは耐える。瞬時に草子へと左爪を払った。
草子は退くことで辛うじて避けるものの、爪の切っ先が頬を掠める。
フェンリスウールヴはそのまま前進し、健へと迫る。
健はゲイ・ボルグをそのままフェンリスウールヴのほうへと薙ぎ払うも、フェンリスウールヴは右脇に挟むことでそれを受け止める。両腕でゲイ・ボルグの柄を握ると、振り回した。
健は咄嗟の判断でゲイ・ボルグを手放すが、それがフェンリスウールヴの狙い。
フェンリスウールヴは健の手放したゲイ・ボルグを投げ捨て、健の眼前まで一気に加速。
健の顎を狙ってフェンリスウールヴは掌底を放つ。
それをまともにくらった健は、脳が揺さぶられ、眩暈に襲われた。
さらにフェンリスウールヴは健の身体を担ぎあげると彼の首輪から垂れる鎖を握り、一気に地面へと叩きつけ、足で踏みつけた。
だがそのぐらいでやられる健ではなかった。
「健っ!」
草子の叫びに呼応するように、足を押しのけて健は立ち上がる。
髪の毛は紫電を纏い、逆立っていた。
***
芹彦の突きをレッドキャップは軽快な足取りで左へと避ける。芹彦は突きを放った刀をそのまま左へと薙ぎ払い、レッドキャップに追従させる。
レッドキャップはしゃがみ込むことでそれを避けるが、それを見切っていた芹彦は払った刀をすぐさま上へと振りかぶり、そのままレッドキャップへと振り下ろす。
レッドキャップは振り下ろされた刀を斧で受け止める。刃と刃はせめぎ合う。音が鳴り響き、弾かれるようにふたつの刃は離れる。
転がるようにレッドキャップは背進し、芹彦も一歩後ろに下がる。
両手で刀の柄を握り締めて、前に構える。
気合が足りぬでござるな、自分の不甲斐なさを責めるように芹彦はそう思った。
まるで諦めたように地面に刀を突き刺した。もちろんその隙をレッドキャップは逃さない。
レッドキャップは一気に距離を詰め、跳躍。芹彦の頭めがけて斧を振り下ろした。
芹彦が刀を地面に突き刺し、レッドキャップが襲いかかるまで僅か数秒。
たったそれだけの時間で、芹彦は頭に白い鉢巻を巻いた。運動会などでクラスごとに巻く鉢巻にそれはそっくりだが、ただ一点違いがある。
芹彦が巻く鉢巻の額のあたりに文字が書かれている。『日本一』と。
「はあああああああああ!」
芹彦は気合の入った叫びとともに、地面に突き刺した刀を握り締め、前転。斧を避けるとすぐさま翻り、着地したレッドキャップへと刀を薙ぎ払った。
レッドキャップも同時に芹彦のほうへと向きを変えており、迫る刀を防ぐべく、斧刃を刀へとぶつけようとしたが――
「鬼退治はここからが本番でござるっ!」
それよりも早く、芹彦が刀へと力を込める。刀速が増していく。
刀と斧はぶつかり、斧刃が真っ二つに折れた。いや、斬れた。芹彦が刀で斧を斬ったのだ。
気合を入れただけでは説明できない何かがあった。それを現すかのように、芹彦の瞳孔は赤く染まり、光り輝いていた。
速度を速めた刀はそのままレッドキャップへと襲いかかる。レッドキャップは避けきれないと思ったのか、左腕に提げるバスケットを身代りにして、退くことで刀を凌ぐ。
バスケットが切断され、中身が落ちる。
その中身は七篠の生首――ではなく、他の被害者の生首でもなかった。
バスケットから落ちてきたのはぬいぐるみ――グールズベアだった。
「ババアアアアアアアアアアア!」
レッドキャップは叫びながら、急いでそのぬいぐるみを拾い上げた。
まるで大切なものを守ろうとするその姿に、なぜか芹彦は追撃を躊躇った。
レッドキャップはぬいぐるみを左手に抱え、斧を失ってもなお、前へと走り出した。
***
健の髪の毛に紫電が奔り逆立つのは変身の前兆だった。
けれども健は変身しなかった。
草子の命令を忠実なまでに守っていた。
「グルルアアアアアアアアアアっ!」
けれども怒りは収まらず、まるで眼前のフェンリスウールヴのように、叫び、怒りを大気中に発散する。
その怒りの咆哮に威圧されたフェンリスウールヴは少しだけ動けずにいた。
草子はその間に、ゲイ・ボルグを拾い上げ、健へと投げた。
健はゲイ・ボルグを受け取ると足に挟んで、フェンリスウールヴに背を向ける。
フェンリスウールヴが健に向かって動き出すなか、健はばく転して足に挟んだゲイ・ボルグを投げた。
『雷の投擲』を意味するようにゲイ・ボルグは投擲槍として使うことも可能だった。
フェンリスウールヴへと放たれた魔槍に変化が訪れる。
穂先の稲妻のような切れ込みが、三十の矢となって槍の周りに出現。槍の動きに合わせてフェンリスウールヴへと襲いかかる。
それでも健に突っ込んでいたフェンリスウールヴは冷静だった。
投擲された槍は、一直線にフェンリスウールヴへと向かっている。
身体を横に逸らせば簡単に回避できる、そう考えたフェンリスウールヴは考えた通りに身体を横に逸らし、さらに前進する。
しかし投げられたゲイ・ボルグはあたかも追跡装置のついたミサイルのように軌道を変え、なおもフェンリスウールヴへと迫ってきた。
驚いたフェンリスウールヴは急いで身を守ろうと身体の前に腕を突き出した。
途端、一本の魔槍とその周りにある三十本の矢全てがフェンリスウールヴへと突き刺さる。
稲妻がフェンリスウールヴの体を駆け巡り、内臓をズタズタにし、皮膚を焼き焦がしていく。
フェンリスウールヴは動かなくなり、徐々に達人の姿へと戻っていく。
「芹彦。レッドキャップと戦うのは終わりだ。綾のところまでレッドキャップを連れて行け」
フェンリスウールヴを倒したのを確認した草子は芹彦へと驚くべきことを告げた。
***
「正気でござるか?」
レッドキャップへと刀を振るっていた芹彦の口から驚きの声がこぼれ出た。
無理もない。芹彦は綾をレッドキャップから守ろうとしていたのだ。
それだけじゃない、綾も森彦も玉臣も、健ですら驚いていた。
ただひとり、伽羅だけが分かっているのか驚かずにいた。
「そこはせめて本気ですか、って聞こう。そしてあたしは正気で本気だ」
芹彦の言葉に呆れつつ、草子は言葉を紡ぐ。
「しかしでござるよ……」
「大丈夫だ」
躊躇いを見せる芹彦に草子は一言。芹彦を見つめる瞳は真剣そのものだった。
「それが物語を完結させる手立てなのでござるな」
悟ったように芹彦が言うと、草子は頷く。
「分かったでござる」
そう言って刀を鞘に納める芹彦の動作はまだどこか納得してないように見えた。
レッドキャップが芹彦を警戒しながら、横を通り過ぎ、綾へ近づく。
玉臣が少しだけ前に出ようとしたが、動くなと言わんばかりの草子の眼力にびびり、足を動かすのを躊躇わせた。
綾は近づくレッドキャップに恐れをなして後ずさるも、後ろにいる伽羅がそれを押さえる。
「なんでっ?」
伽羅の行動が理解できない綾の戸惑いの声に、
「いいから。大丈夫だから」
伽羅は安心させるように囁いた。
伽羅はやはり草子の意図が分かっているようだった。
「ババアアアアアアアア! ババアアアアア! ババアアアアアア!」
綾の前に走り寄ったレッドキャップは、左腕に抱えるグールズベアのぬいぐるみをゆっくりと綾に差し出した。
綾はそのぬいぐるみが何を意味するのか分からなかった。
突然、綾の脳裏にこんな言葉が浮かぶ。
――私さ、このぬいぐるみ集めてるんだ。キーホルダータイプもあるけど、やっぱり大きいのには憧れるなあ。
それは綾自身が、親友である乃香に告げた言葉だった。
そして目の前の怪異は、自分が欲しかったぬいぐるみを差し出している。
「まさか……でも、もしかして……乃香……なの?」
綾の唇は震えていた。
その言葉を皮切りにレッドキャップの身体から光が螺旋状に広がっていく。
一面を一瞬、ほんの一瞬だけ光が覆い隠す。
そのなかでレッドキャップは首を縦に振り、綾の質問に答えた。
光が破裂するように消え去り、レッドキャップの姿が赤井乃香に変わる。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
乃香は何度も何度もごめんなさいと涙を流しながら謝るように呟き、やがて気を失った。
「乃香ぁああああ!」
綾は気絶した乃香に飛びつき、ぎゅっと抱きしめる。
「私こそ、ごめん。達人くんとのこと、秘密にしていてごめん!」
綾は気絶した乃香を抱きしめたまま泣き続けた。
これだけの惨劇を引き起こしたきっかけ、今回の“物語”の始まりが、ふたりの他愛もない、ごくありふれた喧嘩だったと知れば、大抵の人は驚くだろう。
綾と乃香は親友で、綾と乃香のふたりと達人は友人だった。
綾も乃香も達人のことが好きで、けれど達人は綾が好きだった。
やがて達人に告白された綾は、乃香の気持ちを知りつつも達人と付き合い始める。
けれど乃香との関係を壊したくなかった。
だからこそ「付き合っていること」を教えないことで、乃香へ気遣いをしたつもりだった。
けれどそれが大きな間違いだった。ふたりが付き合っていることを知った乃香は激怒。それが仲違いを生んだ。
乃香は、すぐさま自己嫌悪に陥り、綾が欲しがっていたぬいぐるみをあげて仲直りしようとした。
けれどそれは叶わなかった。
なぜなら、ウサギの甘言に唆されて怪異になってしまったからだ。
「伽羅、芹彦、ふたりを頼むよ」
そう言って草子は校舎へと歩き始めた。
「どこに行くのでござるか?」
「あたしにはまだ、やることがある。それが終わったら、全部話してやるよ」
草子はそう告げて、校舎へと進む足を速めた。
***
草子は階段を駆け上がり、屋上へと向かう。
屋上には月明かりに照らされたふたつの影があった。
「亜梨栖……やっぱりいたな。お前のことだからどこかで物語の完結を見届けると思っていた」
「ひさしぶりだね。おねえちゃん」
人形のようなフリルのついた服に身を包んだ音木亜梨栖と、ベストを着込んだ音木白兎が、草子の声に反応して振り向いた。
「お前がウサギを使って心に隙間を作った乃香を唆し、怪異の媒体にしたんだな?」
うん、と亜梨栖が頷く。それに合わせて、白兔が「たいへんだー!」と時計を確認しながら叫び、亜梨栖の周りをぐるぐると回り始めた。
「たいへんだ、たいへんだー!」
けれどウサギはとぼけているのか、それともふざけているのか、それしか叫ばない。
「おねえちゃんもなかなかやるね。『オオカミしょうねん』のうそとタリスマンをくみあわせて、がっこうからひとばらいをして、だれもいないばしょをつくりだすなんて」
感心するように亜梨栖は言い、さらに言葉を続ける。
「それにしても、なんでおはなしをハッピーエンドでおわらせちゃったのー?」
わたし、つまんない、と亜梨栖はニコリと笑う。無垢な笑顔だった。
「バッドエンドは誰も幸せになんてしない」
対する草子はしかめ面でそう答える。
「きゃはははは! バッドエンドでもいいじゃない! “不幸”はどこにだって、みちあふれているよ」
そう語る亜梨栖は、かつての純真だった音木亜梨栖とは違った。
それは亜梨栖がアリスになった瞬間から随分と時間が経ったせいだろうか、亜梨栖は神話的要素であるアザトースの影響を色濃く受けていた。
「だからこそ、ハッピーエンドのほうがいいんだろ?」
アザトースが無から宇宙を創造するように、アリスは無から物語を創造し、アザトースが最終的には宇宙を破壊するように、アリスは最終的に物語をバッドエンドに導く破壊する。
「アリス、今度こそ、終わらせてもらうよ」
草子は亜梨栖ではなく怪異であるアリスにそう告げた。
「たいへんだー」
それを聞いてウサギが笑う。
草子はアリスに向かって走りながら、ウチデを巨大化させていく。
それって、とアリスはウチデを指さし、「『いっすんぼうし』のうちでのこづちとミョルニルをあわせたぶきだよね。せいのうはちょっとちがうみたいだけど」
からかうように言い放つ。草子はアリスの独り言には構わず、ウチデを振り下ろす。
「どうやって、ふせごうかなあ」
アリスは困ったように言いつつも、身を宙へと投げ出し、屋上から飛び降りた。
落下するかと思いきや、アリスは突如現れた空に浮かぶ木の小船に着地する。ウサギも続くようにその小船に乗った。
「きゃはははは! もしかして死んじゃうかと思った?」
アリスは小船に乗ったあと、面白おかしく言い放つと続けて、
「それじゃあ、ももたろうさんたちにもよろしくいっておいてね」
手を振るアリスを乗せた木の小船は空という大海原を漕ぎ、一瞬でどこかへと消えていった。
「また取り逃がした」
舌打ちした草子が呟くその言葉には、悔しさが込められていた。
***
「草子殿、先ほどの船はもしや……」
草子が玄関に行くと、芹彦と森彦、玉臣に健が待っていた。
伽羅は綾や乃香たちと一緒にグランドで待っているようだった。
「ああ、アリスが乗っていた。いつの間にかあんなもの作りやがって」
「でもだとすると、また誰かが怪異に?」
「ああ、でも残念なことにもう死んでいるかもしれない」
「どういうことでデスか?」
「あれはおそらく『かちかち山』に出てくる木の船に魔女の箒か何かを合わせたものだろう」
「キャッキャ。そんなんじゃ、なんで死んでるのか分かんねぇよ」
「つまりだ、かちかち山って物語の結末は泥の船に乗った狸は溺れ死ぬ、ウサギによってね。確かこないだ田貫っていう人の溺死体が見つかったはずだ」
悲しそうな目で草子は推測を話す。被害者を出してしまったことを悔やんでいた。
同時に、まだまだ力不足だと草子は痛感する。
「マジかよ……」
それを聞いた森彦が驚いていた。
「ああ、もちろん推測に過ぎないから、真実は分からないよ」
けれど草子には、いや草子だけじゃない。そこにいた全員には草子の語る推測が当たっているのように思えた。
そう呟いた草子のもとに、悲鳴が聞こえてきた。
けれど草子は事情を理解しているからこそゆっくりと歩き出した。
***
「あああああああっ、あああああああっ!」
悲鳴をあげていたのは乃香だった。
乃香は息の続く限り叫び続けた。
「どうしたの、どうしたのよ? 乃香っ!」
綾もまた乃香のことを心配して、彼女を落ち着かせようと必死に叫び続ける。
「罪の意識に苛まれているんだ」
そんな綾に、校舎からやってきた草子が乃香の状況を教えた。
「どういう……ことですか?」
「怪異の媒体にされて、それから元に戻った人間はよくあることなんだ。乃香は赤ずきんになってレッドキャップの本能のままに人を殺した。乃香のせいではないとはいえ、殺したという感覚、記憶は残っている」
その重圧に乃香は耐えきれないんだろうな、と草子は続ける。
「どう、すればいいんですか! 乃香はどうやってその意識から解放されるんですか?」
「ひどい言い方だけど、それはあたしにはどうすることもできない」
「そんな……っ!」
「けど、キミにならできるかもしれない、綾。だってキミと乃香は友達なんだ。恋人ができたとしても関係を壊したくなかったぐらいに」
そう言われて綾は何かに気づいたのか声をあげる。
泣き叫ぶ乃香に向かって宥めるように言った。
「乃香、その罪は乃香だけのものじゃないよ。だから大丈夫だよ。その罪は私と達人くんの罪でもあるんだよ。
苦しむのは乃香だけじゃないんだ。私も、達人くんも苦しまなきゃならない。
乃香と一緒に苦しむために、私も達人くんもずっと傍にいる。
だから、そんなに苦しまないで。
ひとりでそんなに背負い込まないでいいんだよ。私たちにも一緒に背負わせてよ」
その言葉を聞いて乃香の叫びは嗚咽に代わる。
涙は流したままだが、その涙の意味も苦しみから別のものに変わったように感じられた。
苦しみが和らいだのか、乃香は再び気を失った。
草子たちは乃香を寝かせるため保健室へと移動した。
達人も意識を取り戻しており、寒いのか体を震わせていた。しかしそれも無理もない、伽羅がブレザーを渡しているものの、それ以外服は何も着ていないのだ。それだけで、上半身を暖めることはできず、皮膚には鳥肌が立っていた。
達人にも綾を襲った記憶、伽羅に重傷を負わせた感覚が残っていた。達人は伽羅に謝り、綾にも侘びを入れると「一緒に苦しんでいこう」という綾の言葉が返ってきた。達人はそれに苦笑いした。
「綾……訊きたいことはあるかい?」
ひとまず落ち着いたところで、草子は綾にそう尋ねた。
「その前に……ありがとうございます」
綾は乃香を助けてくれたことに深々と頭を下げて感謝した。
「お礼はいいさ。言ったろう、怪異はとある姉妹のエゴが産んだって。その片割れがあたしだ。巻き込んだ以上、全力で助けるのは当たり前だ」
むしろ、そういう意味じゃ、こっちが謝らなきゃならないよ――と草子が頭を下げようとした。
「そんなことをありませんよ。草子さんがどんな理由で行動したにせよ、私を助けてくれたんです。助けてくれたことにお礼を言うのはおかしなことですか?」
草子は強く主張する綾に呆気に取られつつも、しばし思考し、
「いや、おかしくない」
小さく呟いた。
「だったら、私のお礼を受け取ってください」
ニコリと綾は笑い、
「助けてくれてありがとうございます」
綾はもう一度お礼を言った。
「……どういたしまして」
草子は照れくささを隠すように、頬を掻き、
「じゃ、訊きたいことはなんでも訊いてくれ」
話題を変える。
「ひとつだけ訊いていいですか?」
「ひとつでいいのかい?」
草子が訊き返すと綾はこくんと頷き、そして尋ねた。
「草子さんたちって一体、何者なんですか?」
フフ、と草子は笑い、
「あたしは御伽造師――まあ、要は怪異専門の退治屋ってところだね」
「他の方々は?」
「芹彦と、健、森彦、玉臣はあたしが御伽造形術で『桃太郎』を使って作った怪異だ」
「怪異……なんですか?」
「ああ。けど恐れることはないよ」
「それは分かります……」
特に芹彦は綾を守るために一緒に下校してくれたのだ。恐れたりなどしない。
「綾を襲った怪異とあたしの作った怪異は、作り方が違うんだ」
「えっ? そうなんですか?」
「ああ。綾を襲ったのは、唆した人間を媒体にして、怪異を作る。対してあたしの別のものを使うんだ。まあそれは……なんだ……」
あたしが使う御伽造形術は人間ではなく術者の命を媒体にする、なんてことは綾に教えなくていい、と思い草子は言葉を濁した。
「ともかく、何にせよ、そんな感じだ」
「茂部さんは……怪異なんですか?」
「いいや。違うよ」
「けど、生き返り……ましたよね?」
「あれは、フェニックスを神話的要素とした玉臣の能力のおかげだ。伽羅の力じゃないよ」
「じゃあ伽羅さんは?」
「僕は人間ですよ、人間です」
草子に代わって、伽羅がそう答えた。しかも人間であることを強調するように。
「そのぐらいでいいかい?」
全員が正体を明かしたところで、草子は綾に尋ねた。すると綾は、
「あの……あともうひとつ、いいですか?」
「ああ、遠慮はいらない」
「草子さんたちはなんで怪異と戦っているんですか?」
「それは簡単な答えだよ。乃香を怪異にしたのはね、あたしの妹と弟なんだ。だからあたしはふたりを救うために戦っているんだ」
そうだったんですか、綾は草子の答えに呟き、あ、そうだと何か思いついたように、
「私が手伝えることってありますか?」
「あるよ」
草子は静かに言った。
「怪異にこれ以上、関わらないことさ」
そう言われて綾は突き放されたような衝撃を受けた。
「あたしたちは全力を尽くすけど、取り込まれたら助かるという保障はできない」
だからこそ、身勝手に怪異に干渉されては困るのだ。
「分かりました」
綾はしばしの思考のあと、言った。
「けど、私たちは友達ですよね?」
身勝手かもしれないが、それでも綾は繋がりを残しておきたかった。
「ああ。いつでも生徒会室に遊びに来な。串団子をご馳走してやる」
生徒会の全員が頷き、笑顔を見せる。
草子の答えに満足した綾は、
「それじゃあ私たちは帰りますね」
今までありがとうございました、ともう一度お礼を述べる。
「ああ、気をつけて帰りな」
綾が何度も振り向きながら頭を下げる。
綾たちの姿が見えなくなったところで、
「あたしたちも帰るか」
草子が呟き、誰からともなく歩き出す。
「ところで物語はなんだったのでござるか?」
ふと芹彦が尋ねた。
「赤ずきんですよね?」
それに伽羅が答えた。ああ、そうだよと草子が同意する。
「今回、なかなか物語が特定できなかったのはなんでだと思う?」
「キャッキャ。そりゃあれだろ、なかなかレッドキャップに会えなかったからだろ?」
「違うよ。あたしたちが、依頼者が怪異にならないように食べさせる団子。あれが原因だよ」
「あれは確か、黍団子とポーションを合わせたものでしたヨネ?」
思い出すように玉臣が告げる。
「ああ、そうだ。綾は赤ずきんにとって重要な人物である『おばあさん』になる予定だった。けれどそれを防いでいたせいでなかなか物語に気づかなった」
「それでもヒントは合ったんですよ。そうですよね、草子さん」
伽羅の言葉に草子は頷く。
「森彦、レッドキャップの鳴き声、思いだせるか?」
「確か、ババァァアアアだったよな」
「ああ、もうそれがヒントになっていたんだ。レッドキャップを要素にした赤ずきんは『婆』と叫びながら、ずっとおばあさんを探していたんだ」
単純すぎるヒントだな、と森彦は納得した。その後、気づいたように、
「もしかしてあのオオカミ野郎が綾を狙っていたのは、おばあさんを食っちまおうとしていたからか」
「そう考えるのが妥当でしょうネ。でもだとしたら狩人は誰になるんデスか? 赤ずきんには最後に狩人が出てきますヨネ?」
草子に尋ねた玉臣は続けて自分の推測を述べる。
「まあ、ミーが考えるに健か芹彦サンでしょうけどネ」
「誰にもならないよ。おそらく今回はグリム童話の物語が元になっていない」
元になっているのはペロー童話のほうかもしれないね。そっちのほうがアリスが好きそうだ、と草子は淡々と言葉を続ける。
「狩人は出てこず、赤ずきんとおばあさんは食べられてお終い。とはいえ、赤ずきんちゃんがオオカミに騙されておばあさんの血や肉を食べるなんてことがなかったから、『赤ずきん』が何度も修正されたように、亜梨栖によって物語が修正されていたのかもしれないね」
淡々と語った草子の目は、どことなく悲しい目をしていた。
「あたしたちも帰ろうか」
欠けた月が空を照らし、優しい風が吹く。
草子は大地の感触を確かめながら、一歩を踏み出した。
***
早朝、人払いのタリスマンを剥がし終えた伽羅は屋上へと上がった。
そこにいるのは草子。
昨夜、亜梨栖がいた場所に佇み、グランドを眺めていた。右手には少し古ぼけた表紙の本。
「草子さん」
伽羅が呼びかけると、
「やっと、来たか」
草子は呟いた。そして、ほら、できたぞ、と持っていた本を投げる。
伽羅はそれを受け取ると、ページをめくり軽く目を通す。
「僕を登場させないでくれて、ありがとうございます」
そう呟いた。
「あたしとしては今でも反対なんだけどねえ」
「でも僕は所詮、茂部伽羅ですから語り継がれる物語には出てこないほうがいい」
伽羅が紡いだその言葉はまるで自虐のように聞こえた。
「ねぇ、草子さん」
伽羅は草子に問いかける。けれど草子は何も答えない。それが分かっているかのように伽羅は、昔も尋ねましたが、と言葉を続ける。
「なんで僕はただの人間であるはずなのに、怪異たちが織り成す物語に干渉できるんでしょうか?」
伽羅は昨晩の綾の問いかけに、人間だ、と答えた。けれど、それは半分正解で半分外れだった。伽羅はただの人間ではない。
御伽造師を除く人間にして唯一、物語に介入でき、しかも怪異に変わることもない特異体質を持っていた。さらにそれが原因で物語に介入しても、主役にはなれない。
ゆえに伽羅は悩む。
特異体質以外に何の力も持たない自分が何の役に立つのだろうか、と。
自分がいてもいなくても物語が進むのだから、自分は必要ないのではないのか、と。
だから簡単に命を犠牲にして、盾にもなった。
それが愚かなことかどうか、草子には分からない。
それでも今回の事件で伽羅は役に立った。
特異体質によってレッドキャップに認識されなかったために、レッドキャップは綾がひとりでいると誤認して、伽羅と綾が一緒にいる際にも襲いかかった。だから伽羅が守ることもできた。
それがなければ物語は悪い方向へ転がっていたかもしれない。
「さあね、知らないよ」
草子は伽羅の質問に短く答えた。伽羅の体質については伽羅自身が答えを出すべきだと、草子は思っていた。
「でも――」草子は伽羅へと一瞬、笑顔を見せた後、「お前がいてもいなくても関係ないのだとしても、あたしはお前がいてくれたほうが嬉しいよ」
大地を眺め、誰に言うこともなく呟いた。
伽羅は何も言わず、ただ草子だけを見ていた。
わずかな静寂が、伽羅に心地良さを与える。
「おっ!」
下を見ていた草子が驚くように声をあげた。
「どうしたんですか?」
伽羅は急いで草子に近づき、同じように下を見る。
「見てみろ、物語の結末だ」
登校してきた生徒のなかにいた三人組を指し、草子は言った。
その三人組は綾と乃香と達人だった。
「伽羅、本を」
草子は伽羅が持っていた本を開く。パラパラとページをめくり、取り出したペンで今見た光景を書き込んでいく。
そして最後にこう書き入れた。
おしまい、と。
草子は本を閉じる。
その本の表紙には『赤ずきんちゃん』と書かれていた。