一章・非日常への扉
「えいやあ」
ショートボブの女の子馬場綾は普段は立ち寄ることのないゲームセンターでパンチングマシンに向かって弱々しいパンチを繰り出した。
肩に背負うカバンのチャックについているグールズベア――食屍鬼とテディベアを組み合わせたぬいぐるみのキーホルダーが揺れる。
眼前のスコアボードに点数が表示される。
ランキングに載るには程遠いスコアだったにもかかわらず綾は気にしてなどいなかった。
なぜなら、綾にはハイスコアを狙うつもりなんて全然なかったからだ。
綾がパンチングマシンに向かったのは、自分の中に湧き上がる理不尽な怒りを晴らしたかっただけだった。
ワンコイン分のゲームが終わって、パンチングマシンがスコアを計測しなくなってもなお、綾は何度も何度も殴り続けた。もちろんそれに店員が気づき止めようとしたが、その鬼気迫る表情に怖気づいた店員は、綾の行動が迷惑だと感じつつも、止めることができずにいた。
そんなことは露知らず、パンチングマシンを殴りまくったおかげで、綾の気分は晴れる。
そうしてゲームセンターから去っていく綾を見て店員はやっと止めたか、と一安心のため息を漏らす。
綾は時計台で時間を確認しようと、ひょいと時計台のほうを見た。
時計の針は六時を示していた。そのわりには空は薄暗い。
冬も近くなって、日が沈むのが早くなったからだろう。
とはいえ他にも理由はあった。
綾の住む立里市は海と山に挟まれた自然豊かな街で、その自然の豊かさをそのまま観光資源として活用している。
多くの芸術家がその自然の造形美に感動し毎年訪れるため、街が一丸となって景観を大事にしようとするのは当然の動きとも言えた。
そのため、立里市には電柱も街灯も一本もない。電線は地中へと埋まっている。その代わり本来それらがある場所には広葉樹や針葉樹などの種類を問わずさまざまな樹が街路樹として植えてあった。
二十四時間営業の店は景観を損なうという理由で少なくなりつつあり、繁華街も同じ理由で縮小傾向にある。
そう言った理由で立里市は近隣する都市と比べて街明かりが少なく、より暗く感じられる。
綾は暗いのがどちらかと言えばあまり好きではない。
ゲームセンターに立ち寄ったため、帰る時間が遅くなった綾の足取りはいつもより速かった。
そんなときだ、綾の目の前に数時間前に喧嘩別れした赤井乃香が現れた。
綾は少しムッとして「何の用よ!」と怒鳴ろうとしたすぐに何か様子がおかしいと気づいた。
普段の乃香は控えめな笑顔が素敵な女の子だ。けれど今はその顔に陰を落とし、なんとも説明のしがたい暗い雰囲気に包まれている。
何より、一瞬だけ見えた瞳が赤く染まっていた。
「何の用……よ?」
だからこそ、綾の怒鳴り声は疑問を含んだなんとも奇妙なものになった。
ゆえに乃香は、綾が自分の異変に気づいてくれたと察したらしく、それ以上綾に近づくのはやめた。
そして一言。
「逃げて」
けれどその呟きは綾が聞き慣れた普段の乃香の声とは似てもにつかない、しゃがれ声だった。
綾は乃香の真意を汲み取ることはできなかったが、その声を聞いた瞬間、言葉では説明できない背筋が冷たくなるような恐怖に襲われすぐに逃げ出した。
***
その夜、綾はなかなか寝付けなかった。喧嘩しているとはいえ乃香は親友だ。
乃香の身に何かあったのでは、と思うと不安で仕方なかった。
綾は乃香と喧嘩しているせいで、自分からメールを送るのには若干の躊躇いがあったけれど不安でたまらなくなってとうとうに綾は乃香へとメールを打った。
メールは送信されたものの、返信はいつまで経ってもこない。
返ってこないメールを待ちつつ、もし喧嘩をしなければ、こうはならなかったのではないか、とそう思ってしまった。
喧嘩の原因は些細なことだ。決して綾だけが悪いというわけではない。けれど綾はメールに添えた一文を何度も何度も呟いていた。
ごめんなさい。ごめんなさい。
ひとしきり謝るといくらか気分が楽になったのか、綾に眠気が襲いかかり、そして夢の世界へと誘った。
綾が見た夢は実に変なものだった。
綾は壁もなく、天井もなく、けれど床も何もかもが白い空間にいた。不思議な空間だった。
綾のその傍らにはお人形のような姿の少女と、その少女と手を繋ぐ小さなウサギがいた。
綾と目線があったその少女はうっすらと気味悪く笑う。
すると綾がいた白い空間に複数の鏡が現れる。
その鏡は綾を囲うように八面体を作る。
いつの間にかその少女とウサギは宙に浮き、綾を見下している。
そして綾は正面の鏡を見た。
そこにはおばあさんのようにしわくちゃになってしまった綾の顔が映っていた。
そこで綾はなんとも言い難い気持ち悪さとともに目を覚ました。
机の上では目覚まし時計が鳴り響いていたが、綾はそのベルの音を止めるのももどかしく机の引き出しから鏡を取り出し、自分の顔を見た。
そこに写っていたのはいつもと変わらない自分の顔。
安堵しつつも、何であんな不気味な夢を見たのか分からず二の腕には鳥肌が立ったままだった。
身なりを整え、ブレザーにチェックのスカートという制服に着替えた綾は乃香からのメールが届いてないかもう一度確認する。
受信メールは一件。急いでそのメールを開く。
ファーストフード店の割引クーポンだった。
乃香からメールではないことに落胆しつつ、綾は朝食を食べるために一階のリビングへと向かった。
母親はとっくに朝食を作り終えており、ソファーに座って朝のニュースを見ている。
綾は母親に「おはよう」と挨拶をして、四人用テーブルの自分の指定席へと座る。
座ると同時に麩入りの味噌汁の香ばしい匂いが鼻をくすぐり、食欲が刺激される。
悪夢のせいで身体にまとわりついていた不快感はそれだけで吹き飛んでいた。いただきますと呟き、味噌汁のお椀を手に取る。
「続いてのニュースです。昨夜未明、立里市在住の無職、七篠権平さん|(四十二)が首なし死体で発見され、現在警察が犯人の特定を急いでおります。一部関係者の見解によりますと〈絞首斬首人〉の再来かもしれないとのことで、市民は厳重に警戒をするようにと警察は注意を促しております」
味噌汁をすする綾の耳にそんなニュースが飛び込み、もしかしたら乃香もこれに巻き込まれたかもしれないとあらぬ想像をしてしまった。
いや、そんなはずはない。と不安を打ち消しながらトーストにイチゴジャムを塗る。
そして、喧嘩中だけど学校には来るはずだと淡い期待を抱きつつ、そのトーストを頬張る。
さらに、乃香に会ったら謝ろうと綾は決意しながらもう一度味噌汁をすすった。
味噌汁とトーストという変な朝食を終えた綾は「物騒な世の中になったわねぇ」と呟く母親に「ごちそうさま」と伝え、食器を流しに置き、普段よりも早く学校へと赴いた。
***
いつもより早く学校に着いたせいだろう、乃香の姿は教室にはなかった。
来るまで待てばいい、と綾は思ったものの、SHRが始まっても乃香は登校してこなかった。
普段なら風邪を引いたのかもしれないなどと思うだろうが、昨日あんなことがあったせいでもしかしたら乃香は事件か何かに巻き込まれたのかもしれないという不安が拭えない。
今日の朝見たニュースが綾の不安をさらに強めた。
綾は居ても立ってもいられなくなり『どこにいるの?』と乃香へとメールを送る。
けれど昨晩と同様メールは返ってこない。
それも相まって綾の不安は増すばかりだった。
「どうして赤井が休んだのか知らないか?」
放課後、掃除を終えて帰ろうとする綾に担任の糸会が話しかけてきた。
昨日、乃香に会ったことを言おうとかどうか迷いつつも、黙りこくっているのは悪いと思い、慌てて言葉を紡ぐ。
「し、知りませんひょ」
そのせいで少し舌を噛んで語尾がおかしくなってしまう綾。
糸会は教え子に恥をかかせるわけにはいかないと気を利かせたのか舌を噛んだことについては何も言わず、
「そうか……。赤井のやつ、昨日から家に帰ってないらしいんだ。家の人も心配していてな」
と乃香の事情を伝えた。
そのせいで綾にますます不安が募る。
普段なら学校帰りに近くのケーキ屋でスイーツを食べたり、本屋で新刊をチェックしたりと寄り道する綾だったが、今日は真っ直ぐに家に帰った。
ただいまも言わずに乱雑に靴を脱ぎ捨て、そのまま二階の自分の部屋に入ると、ブレザーを脱いでワイシャツのまま、寝台に寝転ぶ。
そして綾はケータイを弄くり、「今どこにいるの?」と三度目のメールを打った。
送信したものの、昨晩、今朝と同じく一時間経っても、二時間経っても乃香から返信は来ない。
「きっと乃香は親に無断で田舎のおばあちゃんの家に行っているんだ」
自分を安心させるように綾は言い訳をした。
それが綾の不安を少しだけ拭い去り、気がつけば綾はそのまま寝てしまっていた。
その日は夢を見なかった。
***
次の日、汗でぐっしょりと濡れたワイシャツが身体にはりつき、その不快感のせいで目を覚ました綾はすぐにお風呂場でシャワーを浴びた。
局地的豪雨のように吹きだすシャワーの水が汗とともに綾の身体にまとわりつく不快感を流し、身体に当たる心地の良い温水が、綾の不安をわずかに和らげた。
浴室から出た綾は体を拭き、制服に着替えるとリビングへと向かった。
いつもと同じように朝食はとっくにできており、母親は昨日と同じように朝のニュースをソファーに座って見ていた。
綾もいつも通り「おはよう」と母親に挨拶して、テーブルの指定席に座ると、今日も味噌汁のいい匂いが鼻孔をくすぐる。
今日の朝食はわかめの味噌汁とトーストだった。
味噌汁をすすり、チョコクリームが塗ってあるトーストを齧り、母親の見ているニュースに目をやる。
「続いて、失踪事件のニュースです。昨夜未明、床加一太さん|(二十一)が行方不明になっており、警察は行方を捜索しております――」
母のお気に入りのニュースでは昨日の殺人事件に続いて、今日は行方不明の報道をしていた。
すると新たな不安感が芽生える。乃香も同じような事件は巻き込まれたのではないのか、と。
綾は居ても経ってもいられなくなって、トーストを口に放り込み、味噌汁を口に流し込む。口の中で混じる味噌の甘じょっぱさにチョコの甘さが加わり、なんとも言えない味がした。
それは自分自身の不安感を現しているようにも思えた。
「続いてのニュースです。明朝、口新海岸で溺死体が発見されました。溺死体で発見されたのは田貫――」
嫌なニュースが続き、綾は耳を塞ぐ。「ごちそうさま」と言うのも忘れて学校へと向かって走り出した。
***
綾が通う私立立里高校は口新市に唯一ある高校で、口新市に住む中学生だけでなく周囲にある市の中学生の多くが入学するマンモス校である。
この高校の一番の特徴は一般的な高校とは違い、農工商の三学科が同時に存在し、普通科がないというところだそれでも多くの中学生が入学するのは『家から近いから』。創立以来入学者の不動の志望動機第一位である。
というのも創立者である立里言舌がこの立里高校を創立するまで、口新市を含む周囲の市町村に高校は存在しなかった。そのため、口新市の中学生は高校に進学するのならば一番近くても通学時間往復四時間という苦行に堪えて、隣県の高校まで通う必要があったのだ。
そんなわけで口新市に住む綾も、迷わず立里高校に進学した。
朝早く、校門が開くか開かないかのギリギリの時間で綾は学校へとたどり着く。
どうやら既に警備員の人は来ていたようで校門は開いていた。綾は校門を抜け、校庭へと入る。
少し肌寒さを感じさせる風が、フェンス側に佇むイチョウの枝を揺らしのイチョウの葉を弄ぶ。黄土色の葉が枝から離れて吹雪のように校庭に舞い散った。
そのひとつが綾の肩に落ちる。綾はなぜかその葉を払う気になれなかった。
さらに地面に落ちた銀杏の実の臭いが綾の鼻へ届く。腐ったような臭いに綾は早足で校庭を通り過ぎた。
玄関に入り、鈍色の下駄箱から自分の上履きを取り出し、外靴をしまうと中庭にある渡り廊下を抜け、教室へと向かった。
渡り廊下を通っていると、ふとあるものが目についた。
中庭の中央には、堂々と仁王立ちするもみの老樹『双子モミ』がある。その老樹は落雷によってふたつに裂けても枯れずに成長を続けていた。ちなみにふたつに裂けた幹が仲睦まじい双子に見えることからその名前がついている。
この学校ができる何百年も昔からここに生えていたと云われる双子モミ。その老樹の幾重にも広がる太い根っこの隅に、それはあった。
それがいつからそこにあるのかは綾には分からない。
綾は入学してから何度もこの渡り廊下を通っているにもかかわらず今まであんなものを見た覚えはなかった。
でも今、それは嫌になるほど強烈な印象をもって綾の目に飛び込んでくる。
それは綾が小学校のときに作ったツバメの巣箱に似ていた。
上下左右の板の寸法がばらばらのため、釘を打ってもところどころに隙間が開き、その釘ですらきちんと打てなかったのか、打ち込んだ先端が板からはみ出しているところもある。
さらにツバメが出入りする穴は丸ではなく、横長の長方形だった。
もしかしたら何か別のものを入れるものかも。そう考えて綾は気づく。
もしかしてこれはポストではないのか、と。
誰がなぜ、なんのためにこれを作ったのか、そんな好奇心から綾はそれに近づいていた。
上履きで中庭を歩くのは校則違反だったが、今はそんなことは気にもならなかった。
そのポストのようなものに近づくと、なにやら文字が書かれているのに気づく。
『目安箱』
さらにその下には、ひと回り小さい文字で『解決できない悩み、解決します』と書かれている。
綾は乃香のことをずっと心配していたため、思わずその文字に引き寄せられてしまった。
もしかしたら悪戯かもしれない。
けど悪戯でもいい、嘘だとしてもいい。
そう思いながら綾が飛びついたのも無理はない話だ。
乃香が告げた「逃げて」という言葉、いなくなった乃香。昨日報道された首なし死体。今日報道された行方不明事件。
様々な情報が交錯し、綾は情報過多に陥り、何がどうなったか分からず混乱していた。
だからこそ、誰かにすがりたくなっていたのだ。今日、朝早く学校に来たのも糸会先生に全部ぶちまけてしまおうと思っていたからだ。
そんなとき、まるで何かに導かれたように綾はこの目安箱を見つけてしまった。そしてそこに書かれた魅力的な言葉。
だからこそ綾はそこに書かれた言葉を信じた。綾は中庭を彩る芝生にカバンを投げ出し、ルーズリーフとシャーペンを取り出す。
『乃香を見つけて』
そう書きなぐった。
太ももの上で書いたことも影響しているが、すがりたいという気持ちに突き動かされてペンを走らせたため、綾の筆跡は乱雑なものだった。
『お願いします』という言葉を最後に書き、ルーズリーフを四つ折にして目安箱に入れる。
それだけであたかも乃香の事件が解決したように不安が晴れた。
綾はいそいそと教室へと向かった。
教室へたどり着くとまだ誰もいなかった。誰ひとりとして椅子に座ってない空っぽの教室。初めて見る、その景色は綾にとっては新鮮だったが、同時になんとも言えない寂しさを与えた。
窓際の自分の席に座り、顎に手を突きながら暇をつぶすように窓から空を仰ぎ見た。
雲ひとつない澄み切った空がどこまでも広がっていた。
さらに視線を下に移すとポツポツと生徒達が登校してくる光景が映った。
あの中に乃香がいるのかもしれない、そんな期待を抱いて、綾は登校する生徒たちを始業のチャイムが鳴るまでずっと見ていた。
けれど乃香は登校してこなかった。
そうして授業が始まる。自分の苦手とする数学の小テストがあったこともあり、綾は目安箱にすがったことをすっかり忘れていた。
***
「綾殿はいるでござるか?」
放課後、綾が帰り支度をしていると珍妙な声が聞こえてきた。
「あやー。ござる先輩が呼んでるよー」
クラスメイトに呼ばれ、綾はござる先輩って誰だろうと思いつつも解放された入り口のほうを見る。
そこに悠然と佇む人物の美しさは綾とは月とすっぽん、雲泥の差があった。もちろん、綾がすっぽんで泥である。
そのぐらいの美人だった。
整った眉と澄んだ瞳。
なんの不純物さえも存在しない埃さえ付着するのを拒むような艶やかな黒く長い髪。それを無造作に束ねて後ろでまとめていた。
そんなござる先輩と綾の視線が合う。ござる先輩は柔和な顔でにこりと微笑んだ。
なんて綺麗な女性なんだろう。思わずそんなことを思った綾だったが、おかしなことに気づく。
綾が綺麗だと思ったヒトは制服のブレザーの下に、スカートを履かず、チェックのスラックスを履いていた。
――ということはつまり、
「おとこぉぉおおおお!」
クラスメイトがいるにもかかわらず綾は絶叫してしまった。
有り得なかったというよりも綾は信じられなかったのだ。
自分よりも、いやこのクラスにいる女子の誰よりもかわいくて綺麗な男がいるだなんて。
「ハッハッハ。拙者の正体に気づいた子は大抵そういうリアクションをするでござるよ」
綾の絶叫を聞いても、ござる先輩は何も気にせず愉快そうに笑っていた。
対して綾は叫んでしまったことが恥ずかしくて頬を赤く染めていた。
「なんにしろ、そなたが綾殿でござるな? 拙者は彦五十狭芹彦でござる」
ござる先輩こと芹彦はそう名乗った。
「下級生からはござる先輩と呼ばれて親しまれているでござるよ」
是非ともそう呼んでくれと言わんばかりに芹彦は付け加える。
さっきのクラスメイトは芹彦のことを知っているようだったが、綾は違った。
綾は芹彦に会ったことはおろか、こんな先輩がいるという噂すら聞いたことがなかった。
それはおそらく綾の交友関係が狭いからだろう。
「はあ、よろしくお願いします。私は馬場綾です」
綾が少しマヌケに答えると芹彦は言葉を続ける。
「さて綾殿。我が主が呼んでいるでござるから少しばかり一緒に来てほしいでござる」
「どこにですか?」
「着いてからのお楽しみ、ってやつでござるよ」
そう言って芹彦はニコリと笑った。
男なのに女のように美しい笑顔になぜかドキリとした綾は、無意識のうちに芹彦の言葉に頷いていた。
この学校では二年生が二階、一年生が一階と教室が分かれているため、上級生が一年のクラスにやってくることは珍しい。
さらに超美形である芹彦と一緒にいる。
注目を浴びないわけがない。
もっとも芹彦は慣れているのか、全く気にしていないようだった。その後ろで綾は恥ずかしくてすれ違う同学年の生徒たちの顔を直視できずに俯いている。芹彦の首のあたりで結った髪の先端が、綾の視界の隅で左右に揺れる。それだけを見つめて綾は芹彦について行く。
しばらく歩くと右手に階段が見えた。
ここを上れば二年生のフロアへとたどり着く。
二年生の教室に行くものだとばかり思っていた綾だが、その予想に反して、芹彦は階段を上らずそのまま真っ直ぐ進んだ。この先の廊下には職員室や事務室、校長室など、あまり生徒が立ち入らない部屋が続く。
「着いたでござるよ」
事務室と会議室の間で立ち止まった芹彦の声が響き、綾は顔を上げる。見上げた先、扉の少し上のプレートには『生徒会室』と書かれていた。
「生徒会?」
「そうでござる。まあとりあえず……ささ、中へ。中へ」
なぜここに呼ばれたのか分からないため、入るのを躊躇った綾の背中を芹彦が押す。
綾はその力に負けて、一歩を踏み出し、生徒会室の中へと入った。
同時に芹彦の手の力強さに綾は思わず納得した。この人は男だと。
***
「待っていたよ、馬場綾!」
綾が生徒会室へと入ると、よく通る元気のいい声が飛んできた。
なぜ自分の名前を知っているのか分からないまま、綾は目の前の女性を見た。
薄紅色が混ざった黒いショートヘアは、顔にある泣きぼくろと合わせて妖艶さをかもし出している。その顔に思わず見とれてしまった綾はその女性のあることに気づいて驚いた。その女性は、左目が茶色く、右目が黒い、いわゆるオッドアイだった。
驚いてしまったことを申し訳なく感じた綾は視線を下へと逸らし……また思いがけないものを目にして嫉妬してしまった。
なぜならブレザーの下に着用するワイシャツをはだけさせているその女性の胸元から、大きなふたつの丘が顔を覗かせていたからだ。
「とりあえず座るでござる」
着席を促す芹彦の言葉に我に返った綾は言われるままに黒革のソファーに座る。
綾が座ったソファーとガラスのテーブルを挟んで向き合うソファーには先ほど綾の名を呼んだ女性が座っており、左のソファーには見知らぬ男子生徒がふたり。右のソファーには見知らぬ男子生徒がひとり。その右のソファーの空いている場所に芹彦が座る。
ガラステーブルをふたりの女子と四人の男子が囲うと、
「どうぞ、お茶とお団子です」
声が聞こえ、綾の視界にすっと小さなお盆を出す右手が見えた。この部屋にはもう誰もいないと思っていたので、気配すら感じさせずお茶と串団子を出してきた男子に綾は身を竦ませ驚いた。
「なんかすいません」
綾のあまりの驚きようにその男子は弱々しく答えると素早くテーブルにお盆を置き、隅にある机のほうへと逃げていった。その机には急須と湯呑みが置いてあり、その下には小さな冷蔵庫が見えた。
気づけばソファーに座る全員の前にお茶と串団子が置かれていた。
綾を驚かせた男子は、冴えない男だった。どこにでもいそうで、さらにいてもいなくてもなんら支障がないような、そんな印象を綾は覚えた。
目を覆い隠すほどに伸びた前髪もそんな印象を助長しているようにも思える。体格はひ弱ではないものの、がっちりとしているわけでもなく、つまり……これと言って特徴が無い。
「驚かせてごめんよ。彼は茂部伽羅くん。我が生徒会の雑務係だよ。炊事洗濯掃除、諸々の雑務をやってくれている」
目の前の女子はさらりとそう告げて、
「さて、キミに話をする前に、まずはあたしたちの自己紹介といこうか」
「あたしは音木草子。この学校の生徒会長だ。んで綾から見て右のソファー。そっちにいるのが、彦五十狭芹彦と犬飼健だ」
芹彦はまたもやニコリと笑った。その隣にいる健は草子に紹介されたにもかかわらず綾の方を見ようともせず、腕を組んだまま無言を貫いていた。
「ま、健はこういう奴なんだ」と草子もさらりとそんなことを言った。
綾が健を見て一番驚いたのは、健が首輪をつけていたことだ。それはイヌに使うものとそっくりのように思えた。
首輪から垂れる鎖は座っている彼の股間あたりまで伸び、そこで途切れていた。その首輪は彼なりのファッションなのだろうか。
解放された窓から風が吹き、健の赤と金が交じった黒い長髪がたなびき、綾はふと綺麗だなと思った。
「で右のソファーに座っているのが、楽々森彦と留玉臣だ」
草子がそう紹介すると森彦は「キャッキャ」と笑った。森彦の第一印象は毛深いだった。
茶色のオールバックと一体化するように顎鬚が生えていた。腕まくりしたシャツの袖から見える肌も茶色い剛毛に覆われており、それは手の甲まで伸びていた。
一方、玉臣は孔雀の鶏冠のような髪の一部を指で弄りながら綾の視線を笑顔で迎えた。後頭部の髪の先だけ赤紫に染まっているのも気になったが、それよりも何よりも、金色に輝く羽毛のマフラーを巻いていることが綾の目を引いた。
「よ、よろしくお願いします」
緊張しながら全員を一通り見回した綾がペコリと頭を下げる。
さて本題に入ろうか、そう呟いた草子は、まず初めに綾にこう尋ねた。
「綾。まずキミがなぜここに呼ばれたのかなんとなく予想はついているかい?」
「い、いえ」
上履きで中庭を歩いたのがバレたと思った綾の声は少し怖気づいて掠れていた。
綾の緊張ぶりに草子は苦笑しつつ串団子を食べるように勧めてくれた。
綾が食べるのを躊躇っていると、草子は自分の前に置かれた串団子を手に取り、薄桃、白、緑という三色の団子を一気に頬張り、じっと綾を見つめた。
それを見て綾は恐る恐る伽羅が出してくれた串団子に手を伸ばした。綾は串団子を見てなぜだか懐かしい気持ちになっていた。
その気持ちのまま、一番上にある薄桃色の団子を頬張ると砂糖の味が口の中に広がった。
綾の緊張がほぐれたのを見て、草子はもう一度問いかけた。
「綾、なんとなく見当はついているだろ?」
草子の問い詰めるような口調に、
「もしかして……中庭を土足で歩いたことですか?」
綾はおそるおそる尋ねてみた。
「ハハ。そんなことは気にしないよ。その様子じゃ見当はつかないみたいだね……」
「キャッキャ。ほら見ろ、会長さん。だからワシはあんな場所に置くなって言ったんだ」
「いやはや、ミーが思うに、生徒会と明記しなかったのがいつも言ってるように敗因ですヨ」
左のソファーに座るふたりが囃し立てる。
「黙れ、赤毛猿に孔雀が。あれはあれでいいんだよ」
「会長、綾殿が呆れているでござるよ。続きを」
芹彦に促され、草子はそうだった、と話を戻す。
「キミは中庭にある目安箱に、これを投函しただろう?」
そう言って草子は四つ折にしてあるルーズリーフを見せた。
「これには『乃香を見つけて』と書かれていた。だから生徒会はこれを了承し引き受ける」
「待ってください。それ……確か、私の名前なんて書いてなかったのに……」
「なんでこれを、キミが書いたと分かったのか。そんな些細なことはこの際どうでもいい!」
「キャッキャ、どうでも良くないだろ」
草子がキッパリと宣言したのが面白かったのか、森彦が軽快に笑う。
「だから黙れ、赤毛猿。とにかくあたしたちが、綾をここに呼んだのは、この件に関してより詳細な情報を提供してほしいと思ったからだ」
目安箱にすがったのは確かに綾だ。けれども綾は、一昨日、乃香に出会ったことをなぜだか話したくなかった。話してしまえば何か危険なことに巻き込まれてしまう、そう感じたのだ。何かが分からないにもかかわらず。だからこそ、
「詳細と言われても……私は乃香が家に帰ってないことぐらいしか知りません」
綾は嘘を吐いた。まるで逃げるように。
「それは……本当?」
けれど草子は綾に尋ね返した。綾を見つめる草子のオッドアイは心の底まで見透かしているように思えた。
それに恐怖を感じた綾は、あの……その……、と言うか言うまいか少しだけ迷った後、本当は……と話を切り出し語り始めた。
乃香が行方不明になる前、乃香に会っていたこと、そして「逃げて」と言われたことを。
それを綾が話し終わった後、草子は「なるほど」とだけ答えた。
その場にいた誰もが無言だった。今までキャッキャと笑っていた森彦ですら。
重苦しい雰囲気が生徒会室を覆っていた。綾はその雰囲気に耐え切れず、思わず尋ねていた。
「あの……それで、乃香を見つけることはできるんでしょうか?」
「ああ、うん。それについては任せてもらって大丈夫だよ」
あー、あとさ、少し質問していいかい、と言葉を続けた草子は綾の家族構成などについて二、三、質問し、
「他に変わったことはなかったかい?」
最後に念を押すように尋ねてきた。
「ありません」と綾が首を横に振る。
「そうか。色々訊いて悪かったね。今日はありがとう。乃香さんの件は任せて安心して帰ってくれ」
***
草子の言葉を最後に生徒会を出た綾は、ひとりで帰路についていた。家までは真っ直ぐ進めば歩いてだいたい三十分でたどり着く。
道を逸れてゲームセンターなどに寄り道すれば話は別だが。
その三十分弱の道のりで、暴漢に襲われたり、事件に巻き込まれたりしたことなど今まで一度もなかった。
だから綾はその道を通るとき、警戒なんてしない。むしろ何も起こらない、起こるはずがないと思い込んでいた。
閉店した小売店の前を通る。自動車があまり通らないこの道にできたその小売店が開店してわずか三ヶ月後に潰れたことを綾は思い出した。確かそれ以来、ここにはテナントが入っていない。廃墟だった。
町の景観を保存するという理由から電灯が少なく、あたりは薄暗かった。
近くの茂みで鈴虫が鳴き、遠くの道路を車が通る音が聞こえる。
そんななか、ふと茂みの向こうから鈴虫ではない、草を蹴るような、別の音が聞こえた。
綾は立ち止まり、耳を澄ます。
その音はどうやら足音のようで、どうやらコンビニの横手にある茂みから聞こえているようだった。
綾はその足音が妙に気になり、恐る恐るその音がする方向へと歩を進めた。
そして乃香は出会った。
「ババァァァァアアアアアアアアア!」
月明かりがそいつの姿を映し出す。
そいつは赤い目をしていた。
それだけで綾は恐怖を感じていた。
そいつは豚のような、猪のような顔をしているにもかかわらずどこか人間らしさを残していた。
恐怖に神経が麻痺してしまい、綾はすぐに逃げることができなかった。
赤いのは目だけではない、そいつは赤い帽子を被り赤いローブを羽織り、さらには赤い染みがところどころについた白いエプロンをつけていた。
綾はその姿をどこかで見たことがあった。
そいつの右手にはそいつの背丈を越えるほど大きな斧。その斧の刃はペンキを塗りたくったみたいに赤く染まり、刃の先端からは赤い滴がぽたぽたと落ちている。
さらに左腕にぶらさげるのは縄を編みこんだようなバスケット。そのバスケットの中から覗く人の頭部を見て綾は腰を抜かした。
綾はその顔に見覚えがあった。
それは先日ニュースで殺人事件の被害者として報道されていた七篠権平の首だったのだ。
だからこそ綾はそいつがつけているエプロンの赤い染みや斧から垂れる赤い滴が何なのか容易く想像できた。
それは人の血だった。
「きゃああああ!」
綾は悲鳴をあげていた。逃げなければならないのは分かっている。けれど足が動かなかった。綾は恐怖で足が竦むというのを比喩でもなんでもなく身を以って体験していた。
そんなことはお構いなしにそいつは綾へと迫っていく。
殺される!
綾は確信してしまっていた。
そのときだ、気配もなく綾の目の前を横切り、そいつに駆けて行く男がいた。
その男は生徒会室で綾に串団子とお茶を出してくれた伽羅だった。
伽羅はそのままそいつへと体当たりを喰らわした。いきなり現れた伽羅にそいつも対応できなかったようだった。
伽羅はすぐさま立ち上がると、綾に駆け寄る。
「逃げるよ」
綾の手を取り、学校のほうへと逃げようとした。
しかし、まるで瞬間移動したかのように綾と伽羅の目前に、そいつは立ちはだかった。
「ババァアアアアアアアアアア!」
金切り声に後ずさり、今度は綾の家のほうへ逃げ出そうと、身体の向きを変える。
するとまたしてもそいつは綾と伽羅の眼前にいた。
何が起こったのか分からないまま、ふたりはもう一度学校のほうへと向きを変える。
けれどもそいつはあっという間に伽羅たちの眼前に回りこんでいた。
「くそっ! あいつ、すごい速さで移動している!」
伽羅の言葉通り、そいつは伽羅たちが体勢を変えるよりも早く伽羅たちが体勢を変えるほうへと回り込んでいた。
そいつが履いている鉄でできたような鈍色の靴はとても重そうだった。だからこそ、伽羅の目にはそいつ自身はいかにも鈍重そうに映った。
しかしながら、そいつの動く速度はとてつもなく速かった。
そいつは伽羅たちがもう一度向きを変える暇を与えることなく一気に間を詰めてきた。
そして斧を振り上げ――……
今度こそ、殺される。
そう思って両手で顔を覆った綾は鋭い金属音と聞き覚えのある声を聞いた。
「いやはや、やはり伽羅殿には荷の重い怪異でござったか」
声の主は、綾たちに迫るそいつを“怪異”と呼び、そしてその怪異と綾たちの間に割って入るや、腰の左側に帯びた鞘から刀を振りぬき、伽羅に迫っていた斧を巧い具合に受け止めたのだ。
声の主の正体は芹彦だった。
そのまま斧を払いのけた芹彦は、刀を振りかぶり怪異へと切りかかる。けれど怪異はそれを退くことで軽く避ける。芹彦は左手で腰の右側に帯びた鞘からもう一本の刀を抜き取り、構える。
二刀流となった芹彦はそのまま一歩を踏み出すと同時に右の刀で突きかかる。怪異は右へと避け、斧を薙ぎ払う。芹彦は右手の剣を避けられた直後、左手の剣を横に薙いでいた。斧と剣が、ぎぢんっ、とぶつかりあい、火花を散らす。
先ほど受け止めたときとは違い、芹彦は片手で刀を握っていた。
ゆえに今度は力で負ける。
鍔迫り合いの反動で後ろへよろめいた芹彦へと怪異は詰め寄り、斧の刃を芹彦の腹へと打ち込む。
けれど芹彦はすんでのところで腹の前にふたつの刀を滑り込ませた。そのふたつの刀は十字架のように交差し斧を迎え撃つ。
ぎぢんっ、と再び鈍い音が聞こえ、交差した剣が、斧を受け止めた。
「ババアアアアアア、バアアア!」
――途端、怪異はまるで傷を負ったかのように叫び声をあげた。
剣から斧を離し、芹彦から離れていく。
「逃がさないでござるよっ!」
その隙を逃さず芹彦は、交差させた刀をハの字形に開くと同時に怪異にめがけて振り下ろす。
けれど怪異は何かに苦しみながらも回避行動を取った。芹彦の刃は胸の皮膚を少しだけ掠ったたもののそれ以上の成果はなかった。
「拙者と互角、いやそれ以上とは……。まだまだ鍛錬が足りぬでござるな」
芹彦は逃げていく怪異を見ながらそう呟いた。
「た、助かった……」
伽羅が安堵の声をもらす。
「綾殿……ケガはないでござるか?」
「だ……大丈夫です」
そう言いつつ綾はいつの間にか腰を抜かして地面にへたりこんでいた。
芹彦が手を差し伸べると綾はその手を取り、まるで生まれたばかりの鹿の赤子が立ち上がるときのようにゆっくりよたよたと立ち上がる。
「今までの経験上、一日に二度怪異が襲ってくることはないでござるから、安心してもいいでござるよ」
「とはいえ、万々が一ってこともあるから僕が朝まで家の近くを見張っておくよ」
「えっ? 夜通しですか?」
「うん。もちろん」
伽羅は頷いた後、こう言い放った。
「心配ご無用、徹夜は得意なんだ」
伽羅と芹彦、ふたりに見守られての帰り道。
綾が尋ねたいことはたくさんあった。
怪異という聞きなれない言葉があの怪物を示すのなら、あの怪異はなんなのか。なぜ自分は襲われ、どうしてふたりは助けにきてくれたのか。
そしてどうしてあんなに強いのか。
けれど伽羅と芹彦は綾と会話を慎もうとするかのように目を合わせてくれない。
自分から声をかけるべきか迷っていると、
「聞きたいことはまた明日生徒会室に来てくれればお話するでござる」
心の中で思っていたことが顔に出ていたのか、芹彦が気を利かせてそう言ったため、綾は何も言えず帰路についた。
「助けてくれて、ありがとうございます」
綾が感謝の言葉を述べると、
「いいでござるよ」
芹彦はニコリと笑い、そして去っていった。
寝る前に綾は窓から外を覗いた。外は暗くてもう何も見えないが、伽羅は宣言どおり、この闇のどこかで自分を守ってくれているような気がした。
だから綾には妙な安心感があった。
「ありがとうございます」
聞こえるわけはないのだが、それでも綾は伽羅にお礼を述べた。
綾はその日、安心して眠れた。
***
次の日の放課後、綾は生徒会室へと赴いた。
掃除当番ではなかったので、六限目の授業が終わったらすぐに生徒会室に向かった。
けれど綾はもしかしたら来るのが早すぎたために誰もいないのではないかと不安を感じていた。
その懸念を払うように、綾が扉を開いた瞬間、声が飛び込んでくる。
「そろそろ来ると思ったよ」
正面の椅子に座り、足を組んだ草子の姿がそこにあった。
それだけじゃない、昨日と同じように芹彦に健、森彦、玉臣が座っていた。
「どうぞ、入って」
扉近くにいた伽羅に促され、昨日と同じ席に座る。伽羅はどことなく眠そうだった。
彼が徹夜で自分を護衛してくれていたのだと知って、胸が熱くなった。
「昨日はありがとうございます」
伽羅へと深々と頭を下げてお礼を言った。
「いや、あれも雑務の仕事だから」
照れ隠しのように伽羅は言った後、大きく欠伸をした。
同じように芹彦にもお礼を言う。
「ハハ、拙者も伽羅殿と同じく草子殿に言われ仕事をしただけでござる」
「草子さんが私を守るようにおふたりに頼んでくださったんですか?」
「ああ、そうだ。もうすぐかなって思ったんでね」
草子の言葉の意味が理解できない綾だったが、それは気にせずに、ありがとうございますと礼を述べる。
「ああいいって。そういうの。それよりも椅子に座って。団子でも食べよう」
草子に促されるまま綾は昨日と同じ席に座る。
今日の団子はみたらしだった。
他の人が頬張る姿を見て、綾もみたらし団子を頬張ってみる。
甘い醤油の濃厚なタレが口の中で広がり、綾はとろけたように頬を緩める。下唇に少しだけタレがついた。下唇を噛み締めるようにそのタレを舐め、お茶をすする。
「で聞きたいことはある?」
一息ついたところで草子が話を振ってくる。
「昨日、私がへんな怪物に襲われたのは知ってますか?」
「そりゃあね、伽羅から報告を受けてるよ」
「あれ、なんなんですか?」
綾は声を強める。
「あれは怪異だよ。とある姉妹のエゴが生んだ怪物だ」
「とある姉妹……? エゴ……? それ、なんですか?」
「……忘れてくれ。私はたまに空想と現実を混同させる気があってね」
「そ、そうなんですか」
意外とアブない人なのかな、と綾は内心思ってしまい、慌てて打ち消す。
「ようは怪異ってのはですネ、デビルとかエンジェルとか、そういう類のものだと思えばのですヨ」
代わって玉臣が説明すると、さらに綾は尋ねる。
「でもじゃあなんでその……怪異っていうのが私を襲うんですか? 意味が分かりません」
綾は思わず声をあげてしまった。
「キャッキャ、意味が分からない? 確かに事情が分からなきゃそうだろうなあ」
けどね、綾。森彦の言葉を引き継いで草子は至って真剣な面持ちで言葉を続ける。
「綾はすでに巻き込まれているんだ」
「どういうことですか?」
「中庭の目安箱。あれってさ、怪異がらみの事件に巻き込まれた人にしか見えないようにしてあるですよ」
「そんなの嘘!」
伽羅が綾の問いに答えると綾は思わず叫んでしまっていた。
本当でござるよ、と芹彦が一言。そのまま言葉を続ける。
「では逆に尋ねるでござるが……頼みごとを書いた日以外にあの目安箱を見た記憶はあるでござるか?」
綾は懸命に思い出そうとした。けれど他の日に見た記憶はまったくなかった。
確かに分かりくい場所にあったとはいえ、渡り廊下から何気なく中庭を覗けば見えるところにあったし、第一、中庭に目安箱があったら、掃除したときに気づくはずだった。
なのに、だ。綾は見た覚えがない。
だからこそ、その事実は草子たちの言葉を確証づけた。
綾は首を横に振る。そして思いついたように、こう尋ねた。
「じゃあ乃香はその事件に巻きこまれているんですね?」
草子はゆっくりと首肯した。