邂逅 二
男は代演機に手を触れる。すると、代演機が跡形もなく消失した。転送魔術の行使だ。
あっという間のそれが終わるよりも早く、鷲介は走りだした。
――階段だ。
逃げる場所は階段しかない。あの男は、間違いなく自分を殺す気だ。なんとか、階段まで辿り着かなくては――
「水飴みたいに甘くてぼんやりしてんな、お前」
鷲介の眼前に男の顔があった。
「くっ」
頭を急いで引く。眼前を短剣――刃魔が走った。
「反応は良いな!」
続けて繰り出される、もう片手に生み出された刃魔の突き。鷲介はそれを横からの掌底で何とか弾き、更に離れる。
息を切らせながら、鷲介は考える。
代演機を転送し、刃魔を使って攻撃してくる以上、この男は間違いなく魔術師だ。いつまでも体力任せで避けきれるとは思えない。ならば、魔術を使わなくては生き残れない。
だが――
――私はもう、魔術を使わない。
歯の根が合わない。膝が笑う。魔術を使ってもなんとかなるか分からないのに、魔術を使わないというのは、自殺に等しい。
いや――
すぅ、と身体から力が抜けていくのを、鷲介は感じていた。何を悩む必要があるというのだろうが。
どうせ、魔術を使った所で自分には何も出来ない。魔術以外でもそれは同じ事。そんな人間が、生き残ったからといって、何の意味があるだろう。
ならば、魔術という強大な力にまたねじ伏せられて、ここで死ぬのも構わない。
男が振り被って、刃魔を投擲する。
眼前に迫って来る刃を見ながら、鷲介は思う。これでいいのだろうか、と。
身体的な感覚と原始的な本能は、逃げろと言う。魔術を使うなり、必死に足を使うなりして、何としてでも生き延びろと言う。
理性と思想は、死ねと言う。お前には何も出来ない。出来なかった。どうせ、何も出来はしないのだ。死んでしまえ。
二つの間で、鷲介は震える。ああ、何故こんなことになってしまったのだろう。こういう目にあいたくないから、魔術師を辞めたというのに。
眼前に刃魔が迫った時、鷲介は思わず全力で臥せった。
――ああ、結局私はどうしたいんだ。
自分でもどうしたいのか。何故こんな事をしているのかが分からなかった。急に逃げるのをやめたり、その癖に攻撃を避けようとしたり。矛盾し、混沌としている。
これが、有羅が言うところの逃げ、そのツケなのだろうか。対峙することから逃げ続けたが故の混乱なのだろうか。
頭上で音が鳴った。
鷲介は、その音に聞き覚えがあった。
防護魔術がその効果を発揮した時特有の破砕音――
臥せったままで上を見る。そこには防護魔術が展開されており、それが投擲された刃魔を受け止めていた。
「追ってきやがったか、クソアマ!」
「お生憎様」
男の視線が向いている方を、鷲介も見る。そこに立っているのは黒いロングコートを羽織った少女だった。
こんな状況であるにも関わらず、鷲介はその少女に目を奪われた。
見目麗しい少女だった。白金色の艶やかな髪、意志の強さを感じさせる瞳、すらりと伸びた手足。
ひび割れた、打ちっぱなしのコンクリートの上、風景などというものが存在しない異界にあって尚――或いはそれ故に、少女には華があった。
「マジで追ってきやがって。てめぇの所為で、こんな所まで来ちまったじゃねぇか」
「あなたが《ルベル》を奪わなければ、こんなことをしなくても良かったのだけれどね」
少女は不敵に笑う。少女の可憐な容姿とは不釣合いな、アンバランスな表情。
男は完全に少女に向き直った。どうやら、鷲介への興味を無くしたらしい。男の顔には、怒りと愉悦を足したかのような、異様な興奮が張り付いている。
――今なら、逃げられる。
そう、鷲介は思う。
あの男は、鷲介の事など忘れ去ったようだ。今なら、見咎められること無く階段まで走り切ることも出来るかもしれない。
それで良いのだろうか。少女に任せて逃げて。
何を考えているのだ――と、鷲介は首を振る。
鷲介の視線の先で、男と少女は戦闘を繰り広げていた。男が刃魔を中心とした魔種を作り出し、それに体術を絡めて攻撃する。少女は雷撃と防御魔術によって、それを受けながら牽制攻撃を仕掛ける。
しかし、双方ともそれ以外の魔術も多用している。目にも留まらぬ速度を生み出す、超人的な身体能力は身体強化魔術によるもの。双方間で散る火花と轟音は、少女だけでなく、男も使用している防護魔術によるもの。
多種多様な魔術を使用できるのは、間違いなく代演機を使用しているが故だろう。つまり、男だけでなく少女もまた代演機の繰手であるということだ。
戦況は、やや少女に不利であるように鷲介には見える。使える魔術の数には、差はついていないのだろう。だが、それの使い方に差が有り過ぎる。魔術師としての研鑽ではなく、戦闘者としての研鑽が違うのだ。
――今私がここから逃げたら、あの娘はどうなる?
いや、同じ事だ。どうせ何も出来はしないのだから、ここに居ても逃げても同じ事。むしろ、邪魔にならないように逃げて、増援を呼ぶべきなのだ。その筈だ。
心中に靄を抱えたまま、鷲介は立ち上がろうとする――
「させねぇよ!」
男の声が飛んだ。
左手で少女に向かって刃魔を振るいながら、男は右手を鷲介に向けてきた。その手から、魔種の触腕が蛇のように伸びる。
――ああ、今度こそ死ぬのか。
それは、安らぎのような気すらしていた。迷いも混乱も、死ぬまでの話だ。死んでしまえば全て終わる。
しかし、そうはならなかった。鷲介の眼前に、防護魔術が展開されたからだ。
「くぅ……」
少女の、悲痛な声。少女の方を見ると、その右肩には刃魔が突き刺さっていた。傷口はナイフで突かれたような綺麗なものではなく、壁に投げつけられた豆腐のようにぐちゃぐちゃになっていた。突き立てられた刃が勝手に動き、そんな傷口を更にかき混ぜる。
「あ……が……」
少女は背をのけぞらせ、涙を目に溜めながら、声にならない悲鳴を上げる。
「ハッ! 馬鹿なことしやがって!」
男が鼻で笑った。
少女は、鷲介に向かって防護魔術を展開した。自分の防御よりも、鷲介を守ることを優先して。その結果が、これだった。
少女は右肩を抑えて、へたり込む。先までの、殺戮者と渡り合う戦闘魔術師の姿はそこにはなかった。高速で賦活魔術をかけているのだろう。恐らく、肉体的なダメージはそれほどでもないはずだ。しかし、回復した先から神経をほじくり返され、傷口を抉られ続けては、痛みは消えない。
痛みは、確実に精神をすり減らす。精神への打撃は、肉体への打撃以上に、魔術師にとっては致命的だ。その上、攻撃を受けているのは少女だった。痛みを受ける事に慣れてなどいない、少女だった。
そんな痛みを受け続けながら、少女は防護魔術の展開を止めなかった。鷲介の目の前では、魔種の触腕が空中に縫い付けられたかのような状態で停止していた。
鷲介は少女に守られ続けていた。
防護魔術の破砕音や、少女の声を押し退けて、高い足音が良く聞こえる。男が、少女に一歩一歩近づいていく、その音だ。
男はへたり込んだ少女に近づくと、顎を掴んで無理やり上を向かせた。男の視線と、少女の視線が交錯する。男の愉悦と、少女の怒り、そして恐怖が交錯する。
「どうだ? 効くだろう、そいつは。痛みは心を支配する。痛みこそが、いまとなっちゃあお前の王だ。それに、俺が今使った刃魔は特別製でよ。魔術の阻害作用が有る毒を精製してるんだよ」
少女はその整った顔に悔しさと涙を滲ませ、奥歯を自ら噛み砕くほどの力で歯を食いしばっている。魔術を妨害する毒を受け、神経を直接弄ばれるような痛みを受けながら、魔術を行使しつつ敵意を返せるだけでも、少女は並ではなかった。
そんな少女の様子に、鷲介は動揺していた。
何故、こんなことが出来る。何故、戦える。何故、勝ち目も無いのに闘争心を失わない。何故、そんなにも――
「《グラディウス》を出す前にケリが付いちまったのは、まぁ心残りっちゃ心残りだが――まぁ、しょうがねぇや。ぶっ殺してやるよ。じゃあなクソアマ! 結構面白かったぜ!」
右腕の触腕を引き戻し、刃魔へと変化させた。
「そっちのガキは、まぁお前が死んでからだな」
「さ……せ……ない……!」
「おう、まだ喋れんのか。いい女だクソアマ。ご褒美だ、もう二度と喋れなくしてやるよ!」
男が腕を振り上げる。その手には刃魔。そのまま少女の脳天に叩き下ろせば、それで終わりだ。
少女が目に溜めた涙を周囲に飛ばしながら、目を瞑る――
「させるかぁぁッ!」
鷲介の喉が、勝手に震えた。
鷲介の手が、勝手に指鉄砲の形――ガンド撃ちの印を取った。
鷲介の脳が、勝手に魔術を行使した。
手指から、魔術の矢が男に向かって撃ち出される――