邂逅 一
内藤古書堂のカウンター奥、トイレの向かいには休憩室がある。と言っても、この部屋がそんな用途に使われることはない。
部屋の奥には、畳一枚よりも大きい蓋がある。正確には扉なのだが、青錆がついた重々しい金属製のそれは何かに封をするもの――蓋にしか、鷲介には感じられない。
屈みこんで持ち手を掴み、それを引く。ぎぃ、という音を立てて、老人のストレッチのような速度とぎこちなさで扉が開く。
「店にも増して、ここは酷いな」
鷲介は眉を顰めて、そう呟く。扉を開けた先に有るのは、階段だった。掃除などをしていないため、土埃が舞い、隅には滲むように黴が生えている。
何処まで続いているのかすら分からない、途中で闇に飲まれているかのような階段へと、鷲介は足を向ける。
こつん、こつんと足音だけを響かせながら、鷲介は階段を下っていく。階段は途切れること無く何処までも続いている。一介の古書堂には有るまじき長さの地下階段。
深淵へ。或いは奈落へ。
まるで地獄へと続いているかのようだが、鷲介は伊耶那岐命でもオルフェウスでもない。そこまでして取り返したいものは無い。
実際の時間は大したことがなくとも、ただ景色も変わらない階段を下り続けるのは、時間の感覚を麻痺させる。どれだけ下っただろうか、距離も時間もよくわからなくなった頃になって、進行方向に光が差した。
「ああ、やっとか」
足を止めて一度大きく息を吐き、また歩き始める。
階段は終わり、鷲介は光の中に足を踏み入れた。
そこに広がっているのは、地下とはとても思えないような広大な空間だった。地平線が見える。天井は見えない。
床は打ちっぱなしのコンクリートで、ところどころ粉を吹いている。そのコンクリートを踏んで、鷲介は振り返った。そこに有るのは、何もない空間に穴が空き、その穴の中に階段――鷲介が降りてきた階段が有るという光景だった。
ここは、内藤古書堂から物理的に繋がった地下空間というわけではない。それどころか、自然に存在していた空間ですら無い。
この広大な空間は、魔術によって構成されたもの――異界である。魔術師が管理している施設や工房ならば、こういった異界はほぼ確実に備えられている。魔術の中にはその効力が余りにも大規模に及ぶものが多数存在する。或いは、余りに危険なモノを生み出してしまうこともある。そのような魔術による影響を社会に与えないため、このような広大な異界は必要なのだ。
内藤古書堂では、未解読な魔道書の内、危険度が高いものの解析などの際に。この異界が使用される。
「確かに歪んでる」
周囲を見回しながら、鷲介はそう呟く。地平線すら見える広大な異界だが、ところどころ蜃気楼でも発生しているかのようにぼやけて歪んでしまっているところがある。まるで、大きさの違うレンズを適当に並べたかのようだ。
このままにしておくな、というのもよく分かる話だ。鷲介はメモを広げて、カードを置く位置を確認する。
位置、と言うよりも、正確には配置。どのようにカードを設置するか、というのが重要になるようだ。
五枚のカード、描くのは五角形。さほど大きいものではない。指定されたカードを、指定された配置に設置する。
すると、カードに記された紋章が光を放つ。周囲を確認すると、空間の歪みが所々弱くなっているのが一目で分かった。
「なるほど、これだけでいいのか」
そう呟きながら、一応の義務として異常は無いか確認する。空間の歪みは、全体的に萎み、消えている。これならそのまま帰っても良さそうだ、、そう思って見上げた時だった。
「なんだ、これ」
上にあるのは、今までで一番の大きさを持った空間の歪みだった。まるでそこにブラックホールでも存在しているかのように、空間がうねり、収縮と拡大を繰り返している。まるで、何かを生み出そうとしているかのようだ。
――どうする?
急いで戻り、有羅に連絡をするべきだろうか。それとも、ここに留まるべきだろうか。このカードはどうする? そのままにしておくべきか、それとも配置を乱して持って行くべきか――
そんなことを考えた時だった。
空間の歪みから、何かが生み出されたのは。
それは巨大なる金属の塊だ。まるで、金属製の軍靴のようなものが空中に浮いている。それは少しずつ降りてきて、段々と姿を現していく。足、装甲に覆われたかのような腿、同様の腿――金属製の光沢を持つそれは、白地に赤いラインが入っている。
除々に空間上に身体が現れていく様子は、まるで水底から、沈められていく人間を見ているかのようだ。
何かが魔術によって転送されている――
そう気付いた時、鷲介はとかく地を蹴って走った。あれは恐らく、足だけでは済まない。現れていく様子を見る限り、あの金属は人間の全身か、それに近い形状をしているはずだ。あの足は恐らく――
「代演機!?」
あんな馬鹿でかい人型は、フィクションなら兎も角、現実には代演機ぐらいしか存在しないはずだ。
代演機の大きさは全長で三十メートルほど。そんなものを受け止めることは出来ない。落下地点からは、可能な限り離れなくては。
汗を流して走りながらも、鷲介は首だけで現れてくるモノ――代演機を見た。
「糞ッ! あんなものが、なんでここに!」
鷲介の背筋には寒気が有る。代演機の戦闘能力はよく知っている。あんなものが暴れたら、どうなるかは分かりきっている。内藤古書堂に来客は少ない。こんな来客が来る予定は当然なかった。無許可でこんなものを転送してくる相手が真っ当なわけがない。
全身が顕現する。白い装甲に赤いラインのデザインは、足だけでなく全身に行き渡っている。全体的に滑らかなデザインは、イルカやシャチのようでもある。
そんな中で異彩を放つのが、胸部だ。まるで砲弾でも受けたかのように大穴が開き、精緻な内部構造が僅かながら覗ける様になってしまっている。
足が震える。それは疲労によるものではない。だが、足を止めるわけにはいかない。精神が警鐘を鳴らす。逃げろ逃げろと言っている。
「私にはもう、関係無い。関係無いだろ!」
二度とあんなものと関わりを持ちたくなかった。あんな、破壊を撒き散らす魔人のような存在とは――
落石のような轟音が背後で聞こえ、自身のような衝撃で鷲介の足がもつれる。代演機が、着地したのだ。
足を止めて振り返り、代演機を見た。衝撃を和らげるためか、代演機は立ち膝の姿勢で着地していた。足元には蜘蛛の巣のようなひび割れが走っている。
どうするべきか。
鷲介は未だ臆病な鼠に支配された精神の中で考える。
この異界は、半ば永遠といってもいい広さで拡散している。果てはあるが、そこは本当に空間的に果てであるというだけで、そこから何処かに繋がっているというわけではない。あの代演機から逃げるには、階段まで戻るしか無い。
いや待て、とそれは早計なのではないか、と鷲介は思う。代演機がここに転送されたのは確かだが、あれに魔術師が乗っているとは限らない。
例えば、何らかの攻撃を代演機の工房が受けたとする。その結果、損傷を受けた代演機を、緊急避難的にここに転送したという可能性も、無くはない。無機物のみの転送は、それほど難しい魔術ではない。代演機を用いたとなれば、尚更だ。
もしそうだとしても――
「私には関係無い」
襲撃だとか、魔術師同士の闘争だとか。そんなことは勝手にやっていればいい。自分がそんなものに参加した所で、吹き飛ばされて終わりだ。だから、関係無い。
階段まで戻り、有羅に一応の報告をして。全てを忘れる。それでいい。
そう思い、足を踏み出したその時だった。
代演機の胸部が開き、そこから一つの影が飛び降りたのは。
相当な高度があるにも関わらず、影は当然のように綺麗に着地した。影の姿は男。鷲介よりは頭ひとつ高い長身で、長髪。着ているジーンズとジャケット、その下のシャツもぼろぼろで、ところにより肌が見えている。見えているその肌もまた、傷ついている。血が出ているところもあれば、赤黒い痣となっているところもある。
男は血と唾の混合物を床に吐き捨て、苦痛に表情を歪めながら周囲を見渡した。
「あのクソアマ、最後までやってくれんじゃねぇか……」
呟いた男と、鷲介の目が合った。
男は一瞬呆気に取られたかのように浮いた表情をしたが、すぐに口角を釣り上げた。
「こいつは、アレだな。見られたからには生かしておけぬ、って奴だ」
男の目に浮かんだものを見て、鷲介の背筋が凍った。男の瞳は、情欲にも似た何かで濡れていた。