瓶より水は溢れ出る
埃臭い古書店――内藤古書堂のカウンターを挟んで、鷲介とセラフィーナは新聞と週刊誌を広げていた。
――一週間程度しか開けていないのに、なんだかこの埃臭さも懐かしい。
愛着を感じるなら、もう少しマシな場所が良かった気もするが、鷲介が今気を抜けているのは事実だった。
それはセラフィーナも同じ事のようだった。彼女は、アイスキャンデーを舐めながら、ぼんやりと週刊誌を拾い読みしていた。
二人が開いている記事の内容は、全てが同じ、千年宮に関するものだ。
あの戦闘から数日間、鷲介とセラフィーナは事後処理に追われていた。何が起こったのかも纏めて報告する必要も、偽装工作に関して手を出す必要もあった。
それが済んで、やっと一息吐けるようになった、というのが鷲介達の状況だった。
ぼんやりした、とらえどころのない言い方でセラフィーナは呟く。
「千年宮、何故の崩壊から一週間……まぁ、世間的にはそういう事になるわよね」
「上手くいったというわけだ。何も問題はない」
セラフィーナに、鷲介も新聞を開きながらそう返答した。
千年宮は崩壊した。本殿を中心とした異界での、凶神と代演機の戦闘。その結果、メガフロート千年宮は中心から砕けた。表向きは、無理な増築を重ねてメガフロートが脆くなっていた所為で、あの嵐に耐えられなかったのだという事になり、世間もそれで納得した。
――しかし、凄まじい事になってるな。
鷲介が開いた新聞には、砕けた千年宮の写真が載っている。まるで中心に隕石でも落ちたかのような有り様で、真っ当に残っているのは端の部分だけだ。あちらこちらに瓦礫が散乱している様は、殆ど災害現場と言っていい。
そんな状況であるにも関わらず、予め子鈴に本殿から離れるよう指示を出させるようにしていたため、公的な犠牲は行方不明者が二人だけだった。
行方不明者の一人は、千年上宮愛子。そしてもう一人は、紫藤恭平。
信徒からは、紫藤恭平は行方不明ではなく死亡した、という証言も上がったのだが――
「天罰を下されて、バラバラに解体されました……なんて、誰も信じないわよね」
そう言うセラフィーナの瞳は、凍えているかのようだった。寂しいのだろうか、悲しいのだろうか、虚しいのだろうか。
――悲しいのかもしれないな。
セラフィーナは自分で戦うことを選んだ。そして、その結果を受け入れることも同時に選んだ。だが、彼女が思っていたことが変わるわけではない。
人が死ぬのは、間違っていることだ。その思いは変わらない。
紫藤恭平は――いや、紫藤恭平を名乗っていた魔術師は、死んだ。鷲介達の前で、造魔に喰われる事によって。
造魔が紫藤を喰う事が、凶神が覚醒する銃爪になったのが確かである以上、紫藤は自ら死を選んだのだろう。命よりも、魔術を成す事を望むのは、魔術師らしいといえば魔術師らしい思考だ。
故に、紫藤の死についてセラフィーナが責任に感じることはない。だが、彼女は自らの前で自害した魔術師の死にも責任を感じていた。
人が死ぬのは、間違っている。例え誰であっても。それが、セラフィーナの心を掻き乱す元凶となる思いなのだ。
――私には縁遠い感情だな。
これだけ近くに居ても、セラフィーナの隣に行くことは出来ないのかもしれない。そう考えると、鷲介の胸にも寒い風が吹く。
そんなときだった。
突然、やたら暑苦しい男の絶叫が、古書堂内に急に響いた。
「な、なんだ!?」
「あ、マナーモードにするの忘れてたわ」
そう言いながら、セラフィーナはスマートフォンを取り出した。
擬音を連呼していたり、ギターがやたらとかき鳴らされている辺り、セラフィーナが着信音に使っているのは特撮番組か何かの主題歌なのだろう。もっとも、その辺りの知識は鷲介にはないので真偽は分からないが。
着信はどうやら、メールのようだった。週刊誌を閉じて、画面を覗くと、花が咲いたような笑みを見せた。
「見て、子鈴ちゃんから」
そう言って、セラフィーナは身を乗り出しながら、スマートフォンを鷲介の側に向けてくる。
画面に表示されているのは、子鈴と、妙齢の女性の写真だった。エプロンをした女性は、流し台に立って、腰から上だけを捻らせて画面側を見ている。ちょうど、洗い物の最中に呼ばれて答えたかのようだ。柔らかい微笑みを携えている様は、見ている人間の心も暖かくする。
その手前に、ニカッと笑ってピースサインをする子鈴が写っている。彼女が自分でカメラを向けて、写真を撮ったのだろう。
「上手くやれてるみたいね」
「そうでないと、私達が手間をかけた甲斐がない」
「それにしても――これがあの千年上宮愛子だなんてね」
スマートフォンの画面を眺めながら、セラフィーナは呟くように言う。
洗い物をしている女性は、千年上宮愛子その人だった。千年宮で教祖をしていた時の、ある意味神がかったような様子は完全に抜けてしまっていた。そこに立っているのは、恐らくは何処にでも居る母親でしか無かった。
「記憶を失えば、こうもなろうさ」
鷲介はそう返答する。全てが済んだ時、千年上宮愛子は記憶の一部を失っていたのだ。しかも――
「あの教団や、子鈴ちゃんの力に関する記憶だけが無くなってる……のよね」
「少しばかり、加減が出来なかった」
フツヌシの斬断魔術は、あくまでも魔術師――つまり、鷲介が行使する魔術である。物理的な斬断では無い以上、斬る事が出来るものは物理的なものに限らない。
鷲介が凶神を斬ろうとした結果、あの文字の塊である凶神だけでなく、千年上宮愛子の内側に存在する凶神をも斬り捨ててしまったのだ。その結果が、記憶の喪失だった。
「まぁ、良かったんじゃないかしら。仲の良い母娘に戻れるかもしれないわけだし」
「だが、やった事が消えるわけではない」
鷲介の言葉に、セラフィーナは渋い顔をした。
千年上宮愛子は行方不明になり、彼女は自分のしたことを忘れてしまった。しかし、千年宮があったという事実は消せないし、信徒達が救いを求めた事も、浄財として資産を差し出した事も同様だ。
その記憶は、子鈴の中からも消えていない。
全てを無かったことには出来ない。子鈴が千年宮を生む原因となった事実も消えない。その上で、子鈴がどうするかは子鈴の問題だ。
鷲介もセラフィーナも、彼女にどうしろとは言わなかった。
いずれ、子鈴は選ぶ時が来る。母に、何があったのか話すのか、永遠に罪悪感を感じながら暮らすのか。
――どちらにしても、苦しいだろうな。
しかし、それが子鈴の選んだ事なのだ。
千年宮が関連している企業は、その殆どがシギルムが引き取る事になった。しかし、個人としての信徒達がどうなったのか、鷲介もセラフィーナも知らない。
財産を千年宮に捧げた車崎達、教的な信仰者だった藤原達、他に居場所などなかった海咲達――
彼等が幸せになれた、幸せになれるとは、鷲介には到底思えなかった。彼等は、千年宮にこそ自分達の存在する場所を見つけていた。それは確実に失われたのだ。
――間違ったことをしたとは思っていないが。
不幸を産み出したのも事実であろう。
「なんで、皆を救うことが出来ないのかしら?」
セラフィーナの疑問は、虚空に溶けていった。