非実在うどん屋の父親
「ご入信の方ですか?」
千年宮本殿は土足禁止だった。鷲介とセラフィーナが靴をスリッパへと履き替えて直ぐ、その女性は話しかけてきた。
丸い眼鏡にロングヘアーの、鷲介達より幾つか年上の女性だ。セーターにロングスカートに柔和そうな顔作りからは、垢抜けない文系の女子大生といった印象を鷲介は受けた。
ぱたぱたと歩み寄ってきたその女性はセラフィーナに視線を向けて一度目を大きく見開いた。鷲介はもう慣れてきたが、いきなり見るとセラフィーナの容姿は見惚れるより驚いてしまうのも無理は無いだろう。
対して、セラフィーナはこくりと首肯する。
「そうなんです。あの、貴女は教団の方ですか?」
朗らかに返されて、女性もまた微笑んだ。
「はい、新しく入信する方のお手伝いをしている、皆川海咲と言います」
柔和な笑みを浮かべる彼女からは、新興宗教団体の構成員という一種のアウトサイダーをイメージすることは難しいだろう。少なくとも、鷲介には出来ない。
「セラフィーナ・ディクスンと言います」
「黒神鷲介です」
「セラフィーナさんに鷲介さん、後で名簿にもサインお願いしますね」
着いて来てください、そう言って海咲は廊下を歩き始めた。鷲介とセラフィーナはそれに続く。
セラフィーナが鷲介の手を握ってくる。指の股に、蛇のように滑らかなセラフィーナの指が入り込んできたが、今度は先と違って反応せずに済んだ。セラフィーナはまた笑いを堪えているだろうか。そんな事を鷲介は思う。
建築してからあまり間が開いていない所為か、廊下には木の匂いが濃密に漂っていた。廊下や柱の木目も白く光を放っているようにみえる。
「お二人は、何故千年宮に?」
海咲が微笑んだまま、顔を横に向けてそう問うてくる。それはつまり――
――自分の事と千年宮を客観視出来ているのか。
そんな事を鷲介は思う。
理由を問うということは、理由無くここへ来るものは居ないと理解しているということだ。もし本当に千年宮が唱える世界の終末を信じていたり、ここが理想郷だと信じているのなら、出てくる発想ではない。
そういう、バランス感覚を失っていない人間だからこそ新人の手伝いだか教育係だかを任されているのだろう。
「実は私達恋人同士でして」
「それは、分かるわ」
そう言って、海咲はその視線を下げる。鷲介とセラフィーナの繋がっている所を見ているのだ。
「ただ、私の国籍……というか人種が問題で、彼の両親が交際を認めてくれなくて」
寂しそうに笑んで、セラフィーナは髪を弄る。中々見事な演技に、役者にでもなればいいのではないかと鷲介は思ってしまう程だ。
このぐらい上手く出来るなら、鷲介は何もしない方が上手くいくだろう。明るい少女と、シャイなんだかニヒルなんだか無口なんだかな少年のカップルという感じで。
「グローバリゼーションだなんだ言われるようになってから大分経ったのに、珍しいご両親なのね」
「ええ、彼の実家がちょっと特殊でして」
そんな設定も指示にあったのだろうか、と鷲介は疑問に思う。だとしたら、魔術結社シギルムはそんな妙な部分で設定を凝ってどうしたいのだろうか。
「特殊って?」
「彼の実家は五代続くうどん屋でして」
――何だその設定。
思わずツッコミそうになるのを、鷲介は必死で飲み込んだ。
「はあ、うどん屋さんですか」
口を半開きにした海咲は、なんだそれ、とでも言いたいのを我慢しているように鷲介には見えた。気持はよく分かる。何故うどん。
「ええ、何代も続くうどんにスパゲッティを混ぜるわけにはいかないと」
そんなもんが混ざるわけがない。そう言いたいのを鷲介は震えながら堪える。大体、見ようによってはうどんもパスタだろう。小麦粉食品だし。
「あの、セラフィーナさんはイタリアの方なんですか?」
「いえ、全然」
「じゃあなんでそんな事を……」
「彼のお父さん、ちょっと頭が――」
「ああ……」
セラフィーナは目を伏せ、海咲は鷲介に同情の視線を送ってくる。
――あったこともない父親に変な属性を付けるのはやめて欲しい。
セラフィーナが言葉を続ける。
「――悪いんです」
「……あ、はい」
「時々二桁の引き算を間違えるんです」
「致命的ですね」
可哀想なものを見る視線が鷲介に降り注ぐ。謂れ無き視線にも程があるが、何も言い返さず受け止めざるをえない。今の鷲介は頭が悪い父親の所為で彼女と一緒に宗教団体にやってきた少年なのだ。セラフィーナの所為でどんどん酷い設定が増えても反論は許されないのだ。
「客に出すうどんに金髪が入ったらどうする、とも言われました」
「色以前の問題として、うどんに髪が入る時点で駄目ですよね!?」
海咲のツッコミは正論も良いところだった。親父を馬鹿設定にしたから、何を言っても良いと思っているのではないかと鷲介は疑ってしまう。セラフィーナが悲壮な表情で悲劇のヒロインぶった所で、そんなものは無意味である。
――まぁ、顔も知らない父親がどんな扱いを受けようと知ったことではない。
そう思うのも事実なので黙っていることにする。
「まぁそんな馬鹿なお義父さんなので」
「あ、言っちゃうんだ」
「……事実なので」
――もう可哀想な視線を送ってくるのにも慣れた。
「そういうわけで、ここなら私達の事もちゃんと受け入れてくれるだろうって」
頬を人差し指で掻きながらそう言うセラフィーナに、別にここじゃなくても受け入れてくれると思うけどね、と海咲は笑った。
「そういう海咲さんは何故ここに来たんですか?」
「両親が自殺したの。結構な借金を残して」
さらりと、昼食に何を食べたか語るのと同じ調子で言われて、鷲介とセラフィーナは歩みを止めた。
問われたからと言って、初対面の人間に語るような内容ではない。
「通ってた大学辞めて、借金返そうと頑張って色々やったんだけど駄目でね……疲れちゃった」
「それは、その……」
「気にしなくていいよ。ここに来る人なんて色んな理由があるもの。本当に酷い人に比べたら、私のなんか大したことじゃないしね。それに――」
微笑んで、海咲は続ける。
「ここに来る前の事なんて、私にはもう関係ないことなんだもの」
その蕩けるような笑みが、鷲介には酷く歪なものに見えた。
――ただ、明るいだけの人ではない、か。
当たり前のことだ。ここは新興宗教団体。ただ生きているだけなら、一生関わることがない人間の方が多い場所だ。そこに関わったのは、関わってしまったのは、何かがあったからに他ならない。
――うどん屋の引き算が出来ない親父とかな……
急に、廊下に声が響き渡った。
「貴方は何の権限があってそのようなことを言っているの!」
揃って――特にセラフィーナはまな板の上の鯉のように大きく――背を跳ねさせ、三人は声がした方向を見る。
「権限も何も当然のことでしょう。終末が来る以上、多くの人間を救わなければならないのは」
「その為に、私達の生活に支障が出るのはおかしいと言っているのよ! 大体、最近の入信者は浄財が少なすぎるわ! そんな事で救いを求めようというのは強欲というものよ!」
前方から口論しつつ歩いてくるのは、中年の女性と年若い男だった。
女性は全体的に脂肪を余らせた短躯で、化粧が濃い。釣り上がった目と大きく甲高い声からはヒステリックさが発散されている。病衣のような衣装よりも、無駄に金のかかる格好のほうが釣り合う事だろう。
男性はもやしのようにひょろりとしており、肌の白さと無精髭が不健康さを見せつけている。声音は冷静だが、そのぎょろりとした魚類のような眼光はじんわりと暗く、病的な物を感じさせた。
「浄財の多寡は問題では有りません。救いは求めるもの全てに与えられるべきなのです」
「だから! そんな事は貴方が――っと、皆川さん、お見苦しい所を。そちらの二人は?」
こちらに気付いたのか、足を止めてそう言う女性に対して、鷲介とセラフィーナは頭を下げる。
「新しく入信なさる、セラフィーナさんと鷲介さんです。こちらは車崎さんと――」
言いながら、海咲は女性――車崎に向けていた手を、男性の方へと動かす。
「藤原さん」
「よろしくお願いします。入信とは、貴方達は懸命だ、これで貴方達は終末から救われるのだから」
視線を動かすこともなく言う藤原にも、鷲介とセラフィーナは頭を下げた。
「それでは失礼しますわ。皆様にも千年上宮様とアマツテラスホノミコト様の加護があらんことを」
そんな事を言いながら、車崎と藤原は廊下を歩いて行った。
――教団も一枚岩というわけではないか。
そんな事を考えながら、鷲介は海咲に問うた。
「今の人達は?」
「何というか、昔から千年宮に帰依してた人達と、今の体制になってから入ってきた人達の間にはちょっと諍いがあってね」
「諍い?」
首を傾げるセラフィーナに対して、頷きながら海咲は言う。
「昔からの人達からすれば、新しく人がどんどん入ってくるのが気に入らない。それに対して、新しく入ってきた人はどんどん人を増やすべきだって思ってるのよ。それで、ね」
車崎さんは典型的な前者、藤原さんは後者ね、と海咲は言う。
――保守派と革新派とでも言ったところか。
教団の急な運営方針の転換は、以前からの信者にはウケが良くないだろう。しかし、反発にはより分かりやすい理由がある。車崎が口に出した、浄財の件だ。
鷲介達が事前に得ていた情報でも、以前の千年宮は浄財と称して資産を巻き上げる詐欺団体に近いとなっていた。しかし千年宮はメガフロート購入直前から、信徒の受け入れを広くしている。
以前からの信者からしてみれば、資産を差し出した額が違いすぎるのに、扱いは同じ最近の信者は気に喰わないのだろう。
そして、終末からの救い、現実世界からのエスケープを願う最近の信者からすれば、旧来の信者は目障りなだけだと言うことになる。
「理想社会にも問題は有るということですね」
「まだ、理想社会なんてものじゃないというだけの話よ。それに――」
セラフィーナに向かって、海咲は笑いかけた。
「多少の問題があっても、あっちよりはずっといいわ」