信仰
洞窟の中で松明が灯っている――
見ているものがそう錯覚してしまう程に暗く、そのなかでそこだけがぼんやりと円く明るかった。
明かりの中に、一人の女が座っている。
三十代、それも半ばには至っていないであろう女だ。格別目立った容姿をしているわけではない。狐のような印象の顔に細身の体付き、何処にでも居る女と断じることは可能だろう。
ただし、この場においてはその限りではない。
彼女が纏っているのは、水干のような白装束。彼女が被っているのは、白い烏帽子のようなもの。
白無垢を纏った花嫁のようであり、巫女のようであり、姫のようである。そんな装束と、白化粧を揺らめく明かりが彩っている。
彼女を照らす明かりは蝋燭の火。暗闇の中に浮かび上がった、神秘的な白い女。いや、まるで世界の全てが彼女を照らしているようですらある。
愛子様……
愛子様……
千年上宮様……
一段低い場所から、彼女の名前を呼ぶ声が四方八方から響く。それらは全て小声であり、機を計って声を合わせているわけでもない。ただのざわめきだ。だがそれ故にざわめきは途絶えることがなく、彼等は女の名前を呼び続けている。
救いを……
私に救いを……
我等に救いを……
彼等は、女に縋っていた。地獄に垂らされた、一本限りの蜘蛛の糸。それに縋りつく罪人達のように、女に声で縋り付いていた。
救いを求める、浅ましき亡者共――
浅ましく醜い彼等の中心に据えられる事によって、女の存在は隔絶したものとした確立していた。
亡者共の救いを求める声を受け、女はすました顔をしていた。存在の格が違うものからの声など、影響を受けることはない。
女は亡者共の内では、高次の存在だった。
その高次の存在が降りてくるからこそ、救いはもたらされるのだ。愚かなる者、地獄の亡者にも救いはもたらされるのだ。
女の口が開かれる。
鎮まりなさい――
その声で斬り裂かれたかのように、亡者共のざわめきは収まった。高次の存在に放たれた声。放たれた命。それに逆らう亡者など、居るはずもないのだ。
女の手がゆっくりと上げられ、一人の男を指し示す。
そこのもの、来なさい――
指差された男はのろりと立ち上がり、誘蛾灯に群がる虫のように女のもとへと歩いて行く。その歩みは鈍く、片足を引き摺っていた。
男を見る亡者共の目には、今までとは異なる光が宿っている。
女に呼ばれた男は、救われる。それが羨ましい。
何故救われるのは自分ではないのか。それが悲しい。
何故自分ではなくあの男が救われるのか。それが妬ましい。
女の目の前までやってきた男は、腰を落として女を見上げた。
話しなさい――
まるで母親が泣いている幼児に向かって言うような調子で女は言った。
それを聞いた男は、涙を流した。最初は一筋だったそれが、滂沱となるのに時間はかからなかった。
しゃくり上げながら、男は話した。自分のこれまでの境遇を。
それはありふれた悲劇と言っていいものだった。とある事故が原因で、男は職と家族を失い、脚に障害を抱えることとなった。
何故自分がこんな目に合わねばならないのか、と男は女に問うた。自分は悪事を働いたのだろうか、と。
女はそれを聞いても、表情一つ変えなかった。まるで何も聞いていなかったかのような様子だった。
女はただ、男が全てを話し終わった後に一言だけ発した。
私が許します――
何故こうなったのか、何か悪事を働いたのか、といった事に女は答えなかった。ただ、許すとだけ言ったのだ。
悪事を働いていても、自分が許す、だからいいのだと。
それを聞いて、手を着いて男は地に額を擦り付けんばかりに下げた。ありがとうございます、ありがとうございます、私は救われました――
男はそう言い続けている。まるで、壊れたテープレコーダーででも有るかのようだ。
まだです――
女の声で、男の声と動きが止まった。自分は既にこんなにも救われているというのに、何故そんな事を――そう言いたげな顔で、男は女を見上げる。
脚を出しなさい。動かない方の脚を――
そう言われて、男は動かない方の脚を女の方へ出した。事故の結果、もう戻らないほどに捻れた脚。
脚を出す男の表情は悲痛ですらあった。事故の記憶を呼び起こされて居るのだ。
何故、そんな顔をするのです――
貴方は許されたのだから――
そんな顔を擦る必要はない筈です――
女にそう言われて、男ははっとした。そして表情を神妙な、それこそ神仏の前にでも居るかのようなものへと作り変える。
表情の変化を確認すると、女は右手を男の脚に向けて翳した。
白い、白い掌。そこに突然、ぼぅとした光が宿った。まるで人魂のような、或いは蛍の光のような、淡く暖かい光だ。
おお、と周囲の亡者が声を上げた。彼等の視線は、全て女の生み出した光へと注がれている。
私が許します――
許しの証を与えます――
そう女が言うと、ぼんやりとした光は玉となって女の手を離れた。テニスボール程の大きさをした蛍、亡者共にはそう見えただろう。
光の玉は明度を変化させながら、男の脚へと飛んでいった。光の玉が男の脚へと触れると、それは弾け、光の粒子となって消えた。まるで水風船が弾けたかのように。
立ってみなさい――
女のそんな声を聞いて、光を見てぼぅっとしていた男は慌てて立ち上がった。その動きは、女に呼ばれた時と違って非常に滑らかなものだった。
動く、脚が動く!
男が歓喜の声を上げると、周囲の亡者も歓喜の声で応えた。そこに、先までの嫉妬と羨望は無い。男は救われた。いずれ自分も救われる。
誰ともなく始まった拍手が、伝播していく。それはどんどん大きくなっていき、音の洪水となってその場を制圧した。
拍手の洪水の中、女は初めてその表情を変化させた。
女が取った顔の形は、緩やかな微笑みであった。