Y
纏めた髪を背に垂らしながら、少年が廊下を歩いている。まるで滑って進んでいるかのように、上半身が上下左右に揺れていない。それでいて規則的な歩みは、全てが訓練された所作であると知れる。
容姿も端麗であるが、それ以上に所作が彼の美しく見せている。誰も見るものが居なくともそれが板についているのは、彼がそういうものとして完成しているからだ。例え見ているものなど居なくとも、花が花であり続けているように。
少年の名は京極冷泉。シギルムの十戒が一人であり、『鬼斬神楽』の異名を持つ魔術師である。
冷泉は流れるように廊下を進むと、突き当りのドアを開く。
「待ちかねたぞ、京極冷泉。まぁ、そこにでも掛けろ」
同時に、部屋の主が背を向けたまま声をかけてくる。部屋の主はスクルータ・ペルソナ。スクルータは壁の本棚から一冊の本を取り出すと、部屋の中央にあるソファに腰掛けた。
「人と会うのに本を広げながらとはな」
そう言いながら、冷泉はスクルータの向かい側に腰掛ける。
「別に、お前は気にしないだろう?」
「そうだな」
そう言いながら、冷泉はスクルータの持ってきた本に目を落とす。
「Yの悲劇……」
「エラリー・クイーンの推理小説だ。翻訳された何処の国よりも日本での評価が非常に高く、オールタイム・ベストの常連になっている」
そう言いながら、スクルータは女の服を脱がせるかのようにページを捲る。
「で、何故そんなものを今読む」
「ある種の本質を求めて」
「本質?」
「そう、本質だ」
スクルータは軽く首肯して、言葉と読書を続ける。
「日本でこの小説が評価されたのは、その論理性が故だ」
「論理性ね」
「エラリー・クイーンといえばその論理の明快さが特徴として良く挙げられるわけだが」
「知らん」
ふん、と鼻を鳴らす冷泉を見て、スクルータは静かに笑みを浮かべた。
「ならば今知ると良い。知識を得ることに、遅すぎるということはないのだから」
「まぁ、聞いてやろう」
「Yの悲劇は、そんなクイーンの論理性が特に発揮された作品と言っていいだろう。不可解な状況、不可解な凶器。それら全てに論理のメスを入れていく」
流暢にスクルータは語る。
「その結果暴かれるのは、意外な真相、意外な動機。そして意外な真犯人だ」
「推理小説なんて、どれもそんなものだろう」
「まぁ、そう言ってくれるな。重要なのは、意外に過ぎるがそれ以外にあり得ない真相が論理的に導き出されていることだ」
「だから、なんだ」
軽い苛立ちを隠さない冷泉。それを無視するかのように調子を変えること無く続けるスクルータ。
「焦るなよ、京極冷泉。どれだけあり得ないように見えても、完全にあり得ないことを取り除いて残っているものなら、それが真実だ、とはクイーンではなくドイルの言だが、そういう事だ。論理的に解明された真相は真実だ。そして真実とは暴力的なものなのだよ」
「意味が分からんな」
「論理によって導き出された結論は真実だ。真実には従わなくてはならない。導き出した本人ですら」
「……その推理小説だと、結論を導き出した人間……探偵はどうなるんだ」
何かを察したのか、先までの苛立ちを潜めて冷泉は問う。
スクルータは口調を変えること無く、返答する。
「探偵役のドルリー・レーンは、無論、自らが導き出した結論に準じることになる。独善的に過ぎるそのやり方は、探偵としての枠を半ば以上はみ出す事になるわけだがね」
「探偵としての枠を」
「それだけ重く、暴力的なのだよ。真実というものはね。我等がドルリー・レーンは、真実の前にどうするのかね。素直に従ってくれるのか。あるいは現実逃避するのか――」
さて――とスクルータは続ける。
「改めて礼を言おうか。そして歓迎しよう。ようこそ、魔術結社アペルトゥスへ。元シギルムの十戒が一人『鬼斬神楽』の京極冷泉」
「本を広げたまま言うことか」
「気にしないと言っただろう?」
「まぁな」
言うと、冷泉はソファに大きく背を預けて続ける。
「強い相手を斬りたいならば、シギルムと敵対すればいい。道理だ」
「それがお前の論理的帰結だ。十戒の離反は、シギルムという組織にとっても大きな痛手となることだろう。既にシギルムからの離反者はやってきている」
「俺の名前も随分と大きくなったものだ」
「代演機ごと離反というのも大きかったわけだがね」
「格納するスペースがあったのは幸いだった」
「まぁ、その程度は用意しておかずに、シギルムと敵対など出来ないよ」
「そういう割には、人材はお粗末なようだな。俺が討った構成員、あれはなんだ? シギルムの戦闘魔術師にも劣るぞ」
そう言いながら、冷泉は自分に触れることすら出来なかったアペルトゥスの魔術師の事を思い出す。
「だが、そんな弱さだからこそ、君はアペルトゥスにやって来た」
「……」
無言の冷泉に向かって視線を動かして、スクルータはにやりと笑う。
「強さは重要だ。しかし、弱い事が何の役にも立たないかというと、そうではない。チェスでもポーンは重要だし、将棋でも歩兵の無い将棋は負け将棋と言うだろう」
「俺にわざと弱者をぶつけたのか……」
適材適所と言うことさ、とスクルータは嘯く。
「そしてここでも真実を利用させてもらう」
「ほう」
「シギルムは二つの真実を隠している」
「一つは魔術の存在だな」
冷泉は言う。
アペルトゥスが世界にその存在をアピールする際の大義名分として、それは使われた。魔術師はおろか、今となっては世間に知られた事実だ。
魔術が実在すると彼等が信じているかは兎も角、そういう集団が存在していることは最早消し用がない。
「その通り。だが、重要なのはもう一つの真実の方だ。それは要するに、シギルムは魔術師にとって理想的な組織であるとは言い難く、その方針に全面的に賛成しているものばかりではないと言うことだ」
お前のように――とスクルータは冷泉に言う。
「確かに、それは事実だな」
独自で研究を進めたい者、以前からの魔術結社に愛着がある者、魔術師としての成果を余人に認められたい者。そういった魔術師は幾らでも存在する。
「しかしシギルムはそれを抑えつけてきたわけだ、力によって。そしてそんなものは存在しないということにしてきた」
「その偽りが生み出したという事か」
「偽りこそが暴くべき真実を生み出し、暴かれた真実は暴力となる」
「それがシギルムを討つか」
「シギルムは討たれるのではない、崩れるのだ。内側からな」
「どういう事だ」
「抑えつけられたもの達は、お前のような強者が離反すれば、同調するものも増える。そうなれば、締め付けを強くせざるを得ない」
「なるほど、そうすれば更に反発も強くなる」
「よく分かっているな。そうやって身内同士で潰し合う事になるのだ、シギルムは」
そうなれば、あいつらも顔を出さざるを得まい。そう、スクルータは続けた。
「俺が離反した時点でアレは恐らく動いているだろうがな」
「血塗れの処刑人」
ふ、とスクルータは鼻で笑う。
カルニフェクスとは、十戒の一人にして企業体としてのシギルム・グループのトップである魔術師直属の戦闘魔術師である。
裏切り者の処罰が目的であるため、並の戦闘魔術師を超える強さの魔術師が所属している。与えられているのは、通常の戦闘魔術師が黒のロングコートなのに対して、緋色のロングコート、そして各自個別のデザインをした仮面である。
何故仮面を付ける必要があるのか。それは、カルニフェクスのメンバーを隠すためである。彼等は処刑人であると同時に、内偵でもある。普段は別の――場合によっては魔術師ですら無いものとして、シギルムに所属している。
カルニフェクスとして動く時だけ、彼等は緋色のコートと仮面を纏うのだ。
「さて、私達のアクションに対してシギルムはどう動くか」
「俺は斬るだけだ、なんだろうとな」
スクルータは冷たい笑みを面に浮かべ、冷泉は静かに目を閉じた。