暖かいもの
鷲介は疲労していた。肉体的にも疲労はしていたが、それは問題ではない。魔術師にとって、肉体の不調は無視できる程度の問題でしか無い。問題は精神の疲労の方だ。
鷲介にとって、この黒い代演機との戦闘は精神を常に鑢で削っているようなものだった。
機体の一挙手一投足に、精神を擦り減らされる。例えそれが攻撃を狙ったものではなくとも、鷲介には関係がない。ただあの黒い代演機と対峙しているだけでも手が増える得てくるのだから。
その上、この敵は何度倒しても蘇ってくる。蘇ってくる度に、鷲介は悲鳴を上げそうになるのを堪えて刃を突き立てた。
血が上り、血の気が引く。それが波のように交互に襲い掛かってきた。
地獄のようだと、鷲介は思う。永遠に終わらない戦闘、永遠に戦い続ける地獄。無数に存在する仏教の地獄の中には、そんなものも有るのではないだろうか。
膝を付いてしまえばいい。
自分の内側からそんな声が聞こえる。
死ねば終わる、膝を付けば死ねる。責め苦を味わい続けるよりはその方が余程いいに決っている。
それに同意しそうになる。
目の前には、黒い代演機が迫っている。《グラディウス》が膝を付けば、あれが終わらせてくれるだろう。そうやって楽になって――
「良いわけが、無い」
絞り出し、歯を食いしばる。歯を食いしばっている内は、歯の根が合わない事を無視できる。
長剣型の術式兵装・フツヌシを構えた。フツヌシの荒ぶる斬断魔術が、《グラディウス》に食いかかってくる。既にフツヌシを握っている《グラディウスの》右腕はぼろぼろだった。指が二本落ち、手首から下腕部は全体が装甲が剥がれてささくれ立っている。
迫ってくる黒い代演機の巻き起こす風に煽られて、ビルの壁面が弾け、路上に停まっていた乗用車が舞い上がる。
ここで倒れて良いわけがない。少なくとも、自ら倒れこむような真似はしない。
「来い、私は倒れない」
殺されるまで、死んでなどやるものか。敵ならば打ち倒す。例えそれがなんであっても。
――ああ、俺は歪んでいる。
自虐は快感ですらあった。
迫る黒い代演機に向かって、何度目かのカウンターを叩き込もうとした、まさにその瞬間だった。
黒い代演機が空中でぴたりと動きを止めた。まるで動画の再生をストップしたかのように、重力も慣性も完全に無視した静止だ。
思わず、鷲介は振り抜こうとした剣を止めた。
「な、なんだこれは……」
鷲介の視線、その先では静止した代演機が粒子となって、淡雪のように足先から霧散していた。
鷲介が呆気にとられている内に、黒い代演機は消失してしまった。後には、静かな街と《グラディウス》だけが残されていた。
「終わった、のか?」
そう理解した途端、緊張と一緒に力が抜けた。鷲介に呼応して《グラディウス》も尻餅をつくようにして、轟音と粉塵を巻き上げながら後方に倒れこむ。
ある程度の時間が経過することで、自動で異界が消失するような仕掛けが組まれていたのだろうか、と鷲介は考えてから否定した。同時に、フツヌシは斬断魔術の行使を停止した。
自分はまだ異界の内側に居る。消えたのは、異界の一部である黒い代演機だけだ。
なら、どうして黒い代演機は消えた?
「分からない」
分からないが、そんなことはどうでもいいような気が鷲介にはしていた。
危機は去った。地獄は去った。大事なのはそのことであって、何故地獄が去ったのかということではない。
だが――
背筋が震えるのが分かった。
それも本当に地獄が去っていったのならば言えることだと、鷲介は思う。
本当に地獄は去ったと言えるのだろうか。いや、去ってなどいない。そんな事は分かりきっている。
鷲介は《グラディウス》を寝転ばせ、自らの視界を手で覆った。
――私が本当に恐れているのは、黒い代演機ではない。
黒い代演機は確かに恐ろしい。あの代演機に、かつて、そして今また完膚なきまでに打ちのめされた事は消し難い記憶となって残る/残っている。
しかし、それは鷲介が本当に恐れていることではない。
――本当に怖いのは……
鷲介は肩を震わせる。思い出すのは、黒い代演機が襲い掛かってくる前。魔術師ですら無いただの人間が、いや人間の姿をした何かが徒党を組んで襲い掛かってきた時のことだ。
そして、その人間達が溶けて、一つになって、黒い代演機と化した事だ。
人間の群れ、人間の連なり。そしてその中に入っていけない自分。入ってはいけない自分。
そうだ、ここから出たら自分は戻らなくてはならない。あの恐ろしい人間の群れに。
地獄はまだ続いているのだろう。
――いや、永遠に続くのだろう。鷲介が鷲介であり続ける限り。
スクルータという男の狙いは正確だった。あの男は鷲介が目を逸そうとしていたものを無理やり視界に入れさせた。
鷲介が魔術師であるという事を、そして魔術師とはどのような生き物であるのかということを。
鷲介が歩いているのは薄い氷の上で、その下には地獄が広がっているのだと、再認識させてしまった。
そして、普通の人間はその薄氷を難なく歩き続けることが出来る。いや、普通の人間にはその薄氷はあまりにも分厚いのだと、自らの重みで破壊してしまう事などあり得るはずも無いのだと言うことも。
魔術師という存在は重い。
薄氷から逃れようとするならば、スクルータに従うしか無い。
あの男はそう言っている。
そうすべきなのかもしれない。他に何か方法はあるのかもしれない。しかし、スクルータに従うことでそれを解決して何が悪い。
そうすべきなのだろう。何が楽しくて苦痛で自らの身を焼こうというのだ。一度振り切った考えが、再び泡のように浮かんでくる。
――いや、それは違う。俺は嫌だ。
だが、別の何か。思考ではない、理性的ではない部分はそう言っている。生理的な部分、感覚的な部分が嫌がっている。
答えは出ない。何が正解なのか。自分が何を求めているのか。自分はどうしたいのか。
――こうやって、迷路をいつまでも彷徨い続けるほか無い。
そんな事を考えた時だった。鷲介は――正確には《グラディウス》のセンサーは、近付いて来る何かの反応を捉えた。
それは走ってやってくる青い代演機だった。《グラディウス》にはその機体の情報が登録されている。
「《グラディウス》の同型機……」
タイプ:プログレディエンス三番機。
登録された情報と実際の機体には装備の差異があるが、識別が味方であることに変わりはない。操手は――
「セラフィーナ、か……」
元々、《グラディウス》もセラフィーナが乗る予定だった代演機だ。他の代演機が与えられるのも当然だと言える。そんなものがここに有るという事は、セラフィーナの助けであの黒い代演機が消えたということか。
力が抜ける。
なんとまぁ、空回りをしたものだ。自分を嘲笑いたくもなる。
すぐ側まで接近すると、青い代演機は倒れている《グラディウス》を覗きこむようにして片膝を付いた。
青い代演機の胸部ハッチが開き、中からふわりと白金色の髪を揺らして、セラフィーナが顔を出した。
「鷲介! 無事なの!?」
「無事だ、問題ない」
鷲介が《グラディウス》のハッチを開けると、セラフィーナが飛び降りるように寄ってきた。
「大丈夫!? 立てる?」
「だから問題ない」
「ほら」
ハッチに脚を掛け身を乗り出すようにして、セラフィーナは片手を伸ばそうとして――途中でその動きを止めた。
止めたというよりも、まるで何かに気付いて手を差し出すことをためらったかのような動きだった。セラフィーナの手は中途半端に突出され、視線はその掌に向けられていた。
色を確かめるように、セラフィーナはじっと震える自らの掌を見つめる。
「セラフィーナ?」
鷲介が声を掛けても、セラフィーナの様子は変わらなかった。セラフィーナの瞳は潤み、表情は歪んでいる。
その事を鷲介が認識したときには、身体が勝手に動いていた。
「えっ」
「あっ」
鷲介の右手が勝手に動き、セラフィーナの右手を握っていた。本人すら予想外の動きに、鷲介とセラフィーナは揃って目を丸くするしか無かった。小鳥に手があったらこんな感じなのではないだろうかと、鷲介はその柔らかさと暖かさを感じて思う。
そして訪れるのは沈黙と静止。
手を離すのも不自然な気がして、鷲介はそのまま動けずに居た。セラフィーナも完全に思考が停止しているらしく、表情を変えることすらしない。
何故、こうなっているのだろう、と鷲介は気不味い沈黙の中で考える。
ただ、呼吸をするのも辛そうなセラフィーナを見て、つい手が伸びてしまった。
あの時と同じで。
――どうあれ、手を出さずには居られないんだな、この娘に関しては。
そう自覚し、鷲介は苦笑しながら言った。
「助けに来てくれて、有難う」