屍の山を越え血の河を渡る 二
魔剣を振り、人間の手足や首を切り飛ばしながら、鷲介は交差点を駆け抜ける。レース付きの赤いドレスを身に纏いながら走っているかのように、鷲介の疾走にはたなびく緋色が必ず着いてくる。
鷲介の周りを取り囲む者達――敵は、あまりにも弱かった。身体のこなし、得物の振り回し方、襲い掛かってくる順番、その全てがただの一般人そのものだ。武器を持っているが故に、それを振り回す以外に何もしない。
不意打ちの一撃以外、鷲介は敵からダメージを受けていなかった。
――戦力としては考えていない、ということか?
鷲介は魔剣を振り回しながら、そんな事を考える。敵は余りにも脆い。まるで鷲介に蹴散らしてくれと言わんばかりだ。何かしらの思惑が無いのであれば、敵対させる意味すら存在しない。
或いは――
――こちらの想像ほどではない、と言うことなのか? スクルータ・ペルソナ?
最初の、攻撃してこない民間人には肝を冷やした。精神を歯科用のドリルで削られているような気分にさせられた。狙ってそうしたのであれば、恐ろしい相手だろう。
しかし、それはスクルータの狙い通りだったのだろうか? と今鷲介は考えている。
たまたま、刃物を取り出すまでの準備期間が、思いがけず鷲介にクリーンヒットしただけで、狙った結果ではないのかもしれない。
そうであるとするならば、恐れることはない。ただ蹴散らし、この異界を突破すればいい。それだけの話だ。
眼前から、敵の姿が消える。後は走り抜けるだけだと確認して、鷲介は背後に向かって剣を振るう。それは鞭のように伸びて、追い縋ろうとする敵の両足を薙ぎ払う。足首だけを置いて、追ってきた少女の身が投げ出され、転がった。それを確認することなく、鷲介は駆け抜ける。
――もう、何も私を止められない。お前たちには止められない。
絡み付く茨を蹴り抜いて走るような感触。
爽快だった。軽やかな風を受けているかのように。口笛の一つも吹きたいほどに。自分を拘束できるものはない。何もない。
車も通らぬ車道を駆けている内に、鷲介の目の前に見えてくるものがあった。鷲介は思わず勢いを止めた。
「これは……」
目の前にあったのは、死体の山と負傷した人間の河、更に何処からか湧いてきた無傷の人間の群れだった。新たに湧いて出た人間も、皆が皆刃物を携えている。
鷲介は舌を打った。異界の端と端が繋げられているのか、最初に居た位置に戻ってしまっている。
――或いは、それは今通った通りだけか? いや、そんな事はない。そんな事をする意味は無い。
とりあえず、走って脱出という安直な方法は使えない。ならば、どうするか。
――やはり、《グラディウス》しか無いか。
鷲介がそう考えた時だった。無傷の人間達の群れの中から、一人が歩いて鷲介に近づいてきた。
「何だろうと、切り捨てて――」
鷲介の言葉は、途中で打ち切られた。
近づいてきた人間の姿を見て、鷲介の額を冷たい物が一筋流れる。氷の欠片よりも冷たいものが、鷲介の精神を凍てつかせる。
近づいてきたのは少女だ。白金色の長髪が歩みに合わせて揺れ、切れ長の瞳は鷲介を真っ直ぐ射抜いてくる。
思わず鷲介は後退りした。目の前の存在と、対峙したくなかった。
これが本物の人間ではないであろうことは、理解している。先程まで斬り倒していた人間達も、異界の一部を加工して作られた、魔種に近いものだろう。
今、鷲介に近寄ってきている少女も、魔種だ。それ以外にあり得ない。あり得ないにも関わらず、鷲介は震えていた。少女と戦うのを、嫌がっていた。
唾を飲みながら、鷲介は言う。
「セラフィーナ……」
近寄ってくる少女は、セラフィーナ・ディクスンの姿をしていた。
姿をしているだけだ、と鷲介は自分に言い聞かせる。セラフィーナにしては、目が死んだ魚のように虚ろで、足取りもゆらゆらと揺れている。
分かっている、別人だ。いや、これは人ですら無いものだ。なのに、なのに。
鷲介は視線を動かす。セラフィーナの手に握られているのは、短刀――文字による装飾を施された儀式短剣だ。
――流石にアレは不味いか。
セラフィーナが逆手に握っている儀式短剣にどのような魔術が込められているかは分からない。しかし傷付けられて効果がないような呪具だとは、鷲介には思えなかった。
しかし、だとしたらどうする。
――逃げるか?
鷲介の頭に浮かんだのは、そんな考えだった。相手が致命の一撃を繰り出してくる可能性が有るのなら、それも選択肢の一つであろう。
否、とにじり寄ってくるセラフィーナに距離以外の何かも削られながら、鷲介は否定する。
異界の脱出方法が分からないのに逃げてどうするというのだ。そんな事をするぐらいならば――
――そんな事をするぐらいならば、どうするんだ。
出てきた結論はあまりにもシンプルだった。
倒せばいいのだ。先までの敵と同じく。何も躊躇う必要など無い。あそこに居るのはセラフィーナ・ディクスンではない。セラフィーナ・ディクスンの姿をした、別の何かだ。何をしようと問題はない。
倒して――殺してしまって構わないのだ。
構わないはずだ。
固く握りしめていた筈の術式兵装が、手から滑り落ちそうになるのを感じた。
セラフィーナは、既に後一歩という距離まで近づいてきている。
――どうする、どうすればいい?
しかし、鷲介の中では迷いだけが渦を巻き、勢いを増していっている。それが、判断の遅れに繋がった。
何かに弾かれたかのように、セラフィーナが瞬間的に加速した。儀式短剣を突き出し、毒蜂のように突き入れる。
「糞ッ!」
鷲介が左にステップして辛うじて回避すると、それを追うようにセラフィーナが儀式短剣を薙いでくる。
鷲介は術式兵装を持った手に力を入れる。
しかし、その手を振るうことが出来なかった。追って来た儀式短剣を、もう一度ステップして回避し、セラフィーナとの距離を取る。
「どうしようもない、のか」
セラフィーナは体勢を直し、機械のように鷲介の方に向き直る。そして、もう一度跳ねた。
先とは比べ物にならない跳躍速度。まるで、弾丸のようなそれに、鷲介の意思よりも先に本能が反応した。恐怖が敵意へと変質する。
鷲介の、術式兵装を持った右手が跳ね上がる。魔剣がその動きに付き従って伸びる。
「あ……」
鷲介の喉から、声が漏れる。自分のしたことが信じられず、目が大きく見開かれる。
鷲介が振るった魔剣は、セラフィーナが付き出した右腕ごと、逆袈裟に斬り裂いていた。斬り裂かれたセラフィーナが、初めてその顔に表情を浮かべる。それは怒りでも、苦悶でも、絶望でもなかった。
セラフィーナは笑っていた。いやらしく、鷲介を嘲笑うかのように。口の端を歪めて、笑っていた。
セラフィーナの身体が、切断面からずるりとずれ落ちるのを、鷲介は歯を鳴らしながら見ていた。
先から分かっている。自分が斬り裂いたのは、セラフィーナの姿をした別のものであると。だが、息が荒れる。冷や汗が止まらない。体が震える。歯の根が合わない。
これはただ、セラフィーナの形をしているだけだ。だというのに、だというのに。
「く、うぅ……」
吐き気が込み上げてくる。膝を着きそうになる。襲い掛かって来ない周りの人間が、自分の事を笑っているような気がする。死んだはずのセラフィーナの姿が、自分を笑っているような気がする。
何もかもが恐ろしかった、何もかもが嫌だった。
だから、セラフィーナの死体に背を向けた。
そして走りだした。分かっているのに、分かりきっているのに。この道が何処にも続いてなど居ないことは分かりきっているのに。
ただこの場から逃げ出したくて。
「く、あ、ああ……」
悲鳴が漏れていた。情けないほどの悲鳴が。
その悲鳴を置き去りにしたくて、鷲介は走った。