楽園の蛇 二
鷲介は何も言葉を返さなかった。確かに、鷲介は先の戦いにおいて、事態を最も掻き回したトリックスターであり、ジョーカーであった。それは誰にとっても確かなこととしか言い様がないからだ。
そんな鷲介の様子を他所に、スクルータは続ける。
「だから、我々はお前が欲しい。魔術師としての実力以上に、シナリオを掻き乱してくれる存在として、手元に置いておきたい。上手く使えば事態を有利に運ぶことが出来るが、それ以上に不確定要素をシギルムに置いておきたくはないからな」
代演機の操手という強力な――現代最強クラスの魔術師として以上に、スクルータは鷲介を評価している。鷲介にはそう見えた。
――何が見えているんだ、この男。
「無論、見返りは与えるつもりだ。シギルムが、お前に決して与えられない見返りを」
「一体何だ」
「お前を解き放ってやる。お前が恐怖するものから」
スクルータの口が、地獄へと通じる地の裂け目のように開く。
「お前は恐怖している。お前はお前を取り巻く全てのものを恐怖している」
「馬鹿な」
自分の声に色が無い事を、鷲介は悟る。それでも尚、言わざるを得ない。己を保つための、あまりにも脆いガラスの言葉を放たざるをえない。
「馬鹿な」
「何が馬鹿な、だ。お前はその恐怖や嫌悪感と戦うことを恐れた。だから、その内側に入ろうと、同化しようとしている。だが、お前の恐怖も嫌悪も、決して拭いきれぬままだ。同化が不完全だからな」
溶けかけのアイスをスプーンで削るが如く。鷲介の精神にさくりと言葉が染みこんでいく。あまりにも、あまりにも容易く言葉が突き刺さり、そこに塗られた毒が精神を汚染していく。
胃の底に冷たいものを感じる。吐き出してしまいたくて吐き出してしまいたくて堪らない。
「そんな事は、ない」
――本当にそうか?
――いいや、この男の言うとおりだ。
己の言葉を、己の思念が否定する。未だに、自分がそれらの一つになったような気がまるでしないのは本当のこととしか言い様がない。
「お前はシギルムに居る限り、恐怖から逃れることは出来ない。恐怖から真に逃れる方法は、同化ではない。破壊だ。アペルトゥスが目的を果たす過程で、お前が恐れるものは破壊される。破壊するんだ、お前の手で」
スクルータの言葉に力が入った。浮かんでいる表情も、今は微笑みではない。少年の顔の前では、右拳が握られていた。それは固く、固く、何かを潰そうとしているかの如く握りしめられている。
――こいつの言うとおりなんじゃないか……?
恐怖に勝つ方法は、それに打ち克つことだけだ。勇気を持って。そうであるならば、スクルータの言うように、破壊によって――
――馬鹿な!
鷲介ははっと正気に戻った。何を、何を馬鹿なことを考えているのだ、自分は。怒り以上に恐怖が襲ってくる。今、自分はこの男の意のままに動こうとしては居なかったか?
恐怖を怒りで上塗りしようと、鷲介は声を荒げた。
「ふざけるな……誰がお前たちなんかと。あんな男を使う、お前たちなんかと……」
高原暁人の事を思い出す。あの、非道極まりない男を。セラフィーナを殺そうとしたあの男を。
そんな男を構成員として使う組織など、とても受け入れられない。
「目的のためには手段を選ばない。当然のことだ。大体、貴様が今所属しているシギルムとてそれは同じ事だろう? お前は嫌というほど知っている筈だが」
「貴様……!」
この男は、鷲介に何があったのかを知っている。シギルムと鷲介の関係を知っている。
「付け加えるなら、お前は高原暁人と然程変わらない。むしろ同じタイプの魔術師だといえる。アイツの方がお前より攻撃的だという程度の差しかない」
鷲介は歯を食いしばる。暁人も同じ事を言っていた。鷲介自身も、あの時はその事を実感していた。
――似てなどいない。
「私は、違う」
「違わない。お前も同類だ。だが、その事を殺そうとしている。その所為で、魔術師としての成長を止めている節すらある。世界を破壊してでも叶えねばならないエゴこそが、魔術師には必要なのだからな」
「だから、何だ」
すらすらと当然のように述べるスクルータに、鷲介は言葉を絞り出す。
だから何だ、と。
「ほう」
「私があの男と似ていようと、私が何を怖がっていようと関係ない。アペルトゥスは私の敵だ。お前たちを敵とすることを、私は選んだ。それ以上でもそれ以下でもない」
――それに。
恐れるだけではない。もしかしたら、ちゃんと同化して適応出来るかもしれない。そうも鷲介は考えている。考えられるようになっている。
それは、自分が恐れから逃れるためだけに、同化を望んでいるわけではないからだ。毛恥ずかしいが胸を張れる理由が有るからだ。
スクルータの目の色が変わる。弓なりに細められた目からは、ある種の楽しみを見て取ることが出来た。その答えをこそ、望んでいたとでも言うかのように。
「我々の提案を呑む気は無い、か」
「だとしたら、どうする?」
戦闘になる可能性は、十二分にある。その目的が力尽くでの拉致なのか、あるいは殺害による排除なのかは分からないが。
そうなった場合、この少年を倒すことは――いや、この場から逃げ切ることは可能だろうか。鷲介には推測のしようすら無かった。
この少年には、隙がない。だが、逃げるだけならば行使する魔術の相性次第では不可能ではないだろう。
「我々の提案をお前が呑めないのは、我々の提案が理不尽だからでも、間違いが有るからでもない」
「何を言っている……?」
「お前の理解が足りていないからだ。だから――」
スクルータが席に着いたまま、右手を真っ直ぐ天に向かって伸ばした。
不味い。反射的に、鷲介は立ち上がって術式兵装を抜いた。
スクルータが何をするつもりなのかは分からない。だが、止め無くてはならない。
テーブルに足をかけ、右手に握った術式兵装から魔剣を生じさせる。吹き飛ばされた椅子が後方へ飛ぶ。狙うのはスクルータの首。横薙ぎに、腕ごと刎ね飛ばす。
だが、それよりもスクルータの動きは早い。
「理解させる」
天に掲げられたスクルータの手指が弾き鳴らされる。
「な……!」
その音が衝撃となって、鷲介に襲いかかった。まるでトラックに撥ねられたかのように、あるいは鉄球の砲弾を胸部に受けたかのように、鷲介は吹き飛ばされた。前方へ、景色が高速で吹き飛んでいく。
「理解させてやる」
そんな高速で吹き飛ばされているのに、まるで耳元で囁かれているかのように、スクルータの声が鷲介にははっきりと聞こえてくる。
「お前が何を恐れているのか、お前がどんな人間なのか」
「く……あ……」
反論しようとするが、受け続けている圧力の所為で上手く言葉を出すことが出来ない。
魔術によって状況を脱しようとするが、何故か上手く魔術を行使できない。賽の河原で石を積もうとするように、何故か途中で魔術が崩されてしまうのだ。
――これもスクルータの力なのか……?
他に考えようがない。
スクルータは自らの事を、アペルトゥス最強の駒と評していた。それは口だけではなかったということなのだろう。
――いっそ、殺しに来なかっただけ運が良かったのかもしれない。
代演機を持っているにもかかわらず、スクルータには勝てる気がしなかった。悍ましいまでの、どうにもならなさ。山を蛙が動かすことは出来ない。
吹き飛んでいく風景。それが、段々と姿を変える。吹き飛ばされているのではなく、まるでパレットの上で絵の具をかき混ぜるかのように、全てのものが渾然一体として行くのだ。
色彩が渦を巻き、天地の区別が消失する。後ろに吹き飛ばされていたはずが、今となっては奈落へ落ちていくのと区別を付けられなくなっている。いや、鷲介からは分からないだけで、上昇しているのかもしれない。シェイカーに入れられた小さなボールのような感覚だった。
ここまで来て、鷲介は理解した。
自分は、スクルータが作り出した異界に引き込まれていたのだと。そして今、作り出した異界を再構成しているのだと。
鷲介は手を伸ばす。何処に届くかすら分からない手を伸ばしながら、奈落を落ち続ける。
怒りや敵意よりも先に、冷たい恐怖が自らの中に染み入ってきた。