楽園の蛇 一
何かがおかしい。鷲介はそう感じながら、ビニール袋を振り子のように揺らして、夕日で黄金色に染まった道を歩いている。
歩いているのはいつも通る道――の筈である。ブロック塀で両脇を固めた、二車線も無いアスファルトの道。ブロック塀の上からは、緑が頭を覗かせている。
アップダウンが有るわけでもなく、複雑な分かれ道が有るわけでもない。いつも通る、迷うはずもない道。見慣れた道。
なのに、どうしてこうまで違和感を覚えるのか。自分が何処を歩いているのかに、疑問を覚えてしまうのか。
――私は、今何処を歩いている?
曲がり角で何気なく選んだ道、それがいつもと違う道では無かったか? そうだとしたら、何故何時もと異なる道を選んだ? 行きとすら異なる道を?
そう思いつつも、鷲介は道を進んでいく。まるでウィル・オ・ウィスプによって迷わされる旅人のように。
――まさか、何者かによる魔術的攻撃なのか?
車の一つも通らず、葉が擦れる音以外静かな道を歩きながら、鷲介はそんなことを考える。
その可能性は否定出来ない。鷲介はアペルトゥスが世界に身を晒したあの戦闘の、これ以上無い当事者なのだ。アペルトゥスから攻撃の対象になる可能性は、無いとはいえない。
とは言っても、アペルトゥスがなんの用意も無しに襲ってくるとは、鷲介には思えなかった。鷲介もまた、代演機の操手である。並大抵の魔術師が相手なら、相手にすらならない。今回は、ジェイナスから渡された術式兵装の内二本を忍ばせても居る。
何が来る――?
鷲介は神経を研ぎ澄まさせる。ここは街中である筈だが、危険度としては肉食獣が潜む密林を遥かに超える。
二又の道――こんな所に分かれ道があっただろうか? ――を左に曲がった時だった。鷲介はそれを見た。
それはあまりに場違いな代物だった。道路の真中に、オープンテラスのカフェのような、テラス席があるのだ。黄金の世界の中で、傘が作る影が長々と伸びている。
テラス席に向かって、鷲介は歩いて行く。怪しいとしか言いようがないが、今はそれに接近する以外どうしようもない。
そこには席が二つあり、片方には鷲介と変わらない年頃の少年が腰掛けていた。
こんな奇妙な状況であるにも関わらず、少年は深く椅子に腰掛けて、背を預けて異様にくつろいでいた。足を組み、目を閉じて、手に持ったティーカップを口に運んでいる。
少年は白髪で、首元を緩めた白いシャツに、黒いスラックスという服装。整った顔立ちは鋭さを感じさせる目や手指と合わさって、まるでクラシックの天才的な指揮者のようにも見える。日本の市街地には、あまりにも不似合いな少年だった。
――何者だ。
訝しみながらも、鷲介はテラス席に近づいて行く。三メートルほどの距離に近づくと、テラス席に着いていた少年が鷲介に気付いたのか、ティーカップを置いて顔を上げた。
少年は鷲介の方を向いて、目を見開いた。その瞳を見て、鷲介は一瞬気圧された。少年の瞳は、まるで血に染められたかのように赤かったのだ。
「待ちかねたぞ」
深みから天へと登っていくかのような声音には、深い余裕が含まれていた。細められた目にも、同じ色が見える。
――嫌な声だ。
鷲介はその声から圧力を感じる。こちらを、威圧し制圧しようという声音だ。目と声で、全てのものを押し潰そうとしている。
周囲の空気が全て綿に変えられたのではないかと言うほど、呼吸が苦しく感じる。魔術の影響ではない、この少年が発する、気のような何かだ。
「何者だ、お前は」
砂を飲んだように喉が乾くのを感じながら、鷲介はなんとか言葉を形作る。
そんな鷲介を見て、少年は微笑んだ。愚かな子供に向けるような、人を見下した微笑みだった。
「スクルータ・ペルソナ。アペルトゥスの頭目にして最強の駒である魔術師だ」
「アペルトゥスのトップだと!?」
アペルトゥスという組織はその全貌を明らかにしていない。シギルムに正面から挑んでこないということから、規模が推し量れるだけでで、主要な構成員は判明していない。
「お前みたいな、子供が?」
途切れそうになる鷲介の声を聞いて、スクルータは極々自然な笑みを浮かべた。
「外見で魔術師の脅威を推し量ろうとは、愚かなことだな黒神鷲介」
「私の名前を……!」
慌てて、鷲介はビニール袋から手を離して、ポケットから術式兵装を取り出した。その手にじわりと汗が滲む。
「慌てるな、黒神鷲介。今回、我々に敵意は無い」
言いながら、スクルータは右手の人差指でテーブルを叩く。すると、テーブルの上にティーポットともう一組のティーカップが現れた。
「どういうつもりだ」
「話があって、わざわざ招いたのだ。もてなし程度はしておこうかと思ってな」
席に着け。スクルータにそう言われて、鷲介は思わず術式兵装を仕舞っていた。いや、仕舞わされていた。
極々自然にそうして仕舞った後で、鷲介はそのあまりの不自然さに冷や汗を流した。
――何をバカな! 何故私は武器を仕舞っている!
そう考えたにも関わらず、再び武器を取り出そうとはしなかった。いや、出来なかった。
言霊か、それに類する魔術か。或いはただ単に気圧されて居るのか。鷲介は自分の内臓をこの男に握られているかのような気分になっていた。この男の気分一つで、柔らかな肉塊は破裂させられる。
この男の言には、従わなければならない。さもなくば、さもなくば――
鷲介は冷や汗を堪えながら、足元にビニール袋を置いてテラス席に着いていた。
――落ち着け。こうやって隙を伺って、こいつを倒す。そのために、話に乗るんだ。それ以上の意図はない。
言い聞かせる。言い聞かせなければ、信じられないほどの薄い思考だった。気温に関係なく、額が汗ばむ。
「そうだ、それでいい。まぁ、飲め。毒などという小細工をするつもりはない、安心しろ」
いつの間にか紅茶が入っていたティーカップを、スクルータは鷲介に渡してくる。思わずそれを受け取って、鷲介は口に運んだ。味など、分かるはずもない。
「何が目的でこんなところに居る」
鷲介がティーカップをソーサーにゆっくりと落とす。陶器がぶつかる、かちゃりという音が鳴った。
「交渉、いや勧誘という方が正しいか」
そう言って、スクルータはティーカップを口に運んだ。奇異なまでの余裕に、見ている鷲介が苛立ちを覚えるほどだ。
「……どういう事だ」
「黒神鷲介、代演機と共に我々、アペルトゥスの元に来い」
あまりにも当然のように、スクルータはその言葉を口にした。
「何故だ」
怒りよりも、驚きよりも先に、鷲介は疑問を覚えた。
何故、自分を必要とするのか。いや、それ以上に、何故そんな言葉を恥ずかしげもなく口に出来るのか、と。
――何なんだ、こいつは。
やっと、怒りが言葉になって上ってくる。
「お前は私達を殺そうとした。そんな事をしておいて、何故そんな事を言える! あり得ない!」
立ち上がり、鷲介が両手をテーブルに叩きつけると、ティーカップが踊るように僅かに跳ねた。
「そう興奮するな。茶が溢れるだろう。それに、頭に血が上っていてはいい話し合いなど出来るはずもない」
「貴様……!」
「まぁ、それも若さ故の感情ということで飲み込んでやろう。殺そうとしておいて、何故そんなことが言えるか、だったな。答えてやる。お前が死ななかったからだ」
「……どういう事だ?」
鷲介は席に着いて言う。スクルータから隙を見出すことは不可能だった。魔術師としても、戦闘者としても確実に向こうが格上。殺されていないのが、話し合いを目的としているから。そんなことが分かってきてしまう。寒気が背筋を上ってくる。
「はっきり言うと、お前の存在は我々にとってイレギュラーだった。高原暁人が代演機を強奪、市街地で戦闘を起こす。戦闘の相手はお前ではない筈だった」
「セラフィーナ・ディクスン……」
「そう、セラフィーナ・ディクスンこそが我々が望んだ高原暁人の対戦相手だった。それが、奇妙な偶然――いや、狂った因果でお前が戦うことになった。そして、高原暁人は倒され、シギルムの手に落ちた」
本来の予定では、セラフィーナと暁人はどうなる筈だったのだろうか、と鷲介は考える。
どちらが勝利しても、アペルトゥスの目的自体は達成可能である。もし、暁人が転移した場所が内藤古書堂では無かったとしたら、セラフィーナは死んでいたのだろうか。そうであるならば、自分が関わったことは僥倖だったと鷲介には思える。
「狂った因果っていうのは、どういう事だ? 意味が分からない」
「そのままの意味だ。我々が抱える未来見も、お前のようなイレギュラーは観測していない。そうであるにも関わらず、お前は現にこうやってシギルムの魔術師となっている」
スクルータの目が、刃物のような光と鋭さを見せた。
「何かの介入があったのだよ。それも因果を捻じ曲げるような何かの――魔術師か何かの介入が」
――なるほど。
あり得なくはない。セラフィーナと暁人があの場所に転移したのは、偶然にしては上手く嵌っている。魔術的に空間が不安定な場所など、内藤古書堂以外にも存在している筈だからだ。
「その上で、お前が死んでいたのだったら何という事は無かった。それこそ、誤差の範囲内で済ませる程度の事象だ。だが、お前は生き残ってそこに居る」
「だったらなんだって言うんだ。そんな事は何の意味もない」
「いいや、有るさ」
スクルータは、その身を乗り出すように前に出し、腕を組んだ。
「因果の変動でお前が投入され、お前があの戦いを生き残ったというのなら、お前は因果を変容しうる存在として、いまこの場に立っているといえる」
つまりはトリックスターなのだ、お前は。そう言って、スクルータは紅茶を口に運んだ。