鬼斬神楽
針葉樹の合間、生い茂る草を踏み付けて男が走っている。前のめりになって、時々つんのめりながらも、汗を垂らし、息を切らせて必死になって走っている。尋常ならざる速度だった。それもその筈、男は魔術師である。
男は走りながらも、首だけで背後を振り向く。
視線の先に有るのは、ただ風雨に晒されてささくれだった木々の姿だけ、聞こえるのは風が葉に叩きつけられる音だけ。そういう風景が、後方に向かって流れ飛んでいく。
他は影も形も無いことを確認して、男は大きく息を吐いた。何も追ってくるものはない。安堵が、全身の筋肉を弛緩させる。
――こうも容易く動きを察知されるとは。
こうなることを男と仲間達は予想していなかった。男はアペルトゥスの構成員である。とある作戦のために集まった所にシギルムから襲撃を受け、なんとか逃げ出してきた。集まっていたアペルトゥスの人間は、男も含めて全部で十人。全て魔術師であった。対して、シギルムの襲撃者は一人。
その一人に、皆倒された。
恐ろしい実力だった。思い出すだけで、男の身体に震えが蘇る。シギルムの戦闘魔術師――それも最上位の人間とは、アレほどの実力を持っているのか。
「逃げるのはもう終わりか?」
突如、前方から声が聞こえ、男はびくりと肩を震わせた。視線を向けると、先程まで誰も居なかった筈のそこに、一人の少年が立っていた。
少年は、少女――それも相当に美しい少女と言われても、十人の内九人は首を縦に振るであろう容姿をしていた。手指は長く、肌は白く、後ろで一纏めにされた長髪は黒く艷やか、鼻梁はよく通っている。
その面には、どんな表情も浮かんでは居なかった。どんな顔をするのも面倒だ、とでも言うようなぼんやりとした雰囲気だけが張り付いている。
少年が纏っているのは、黒いロングコート――シギルムの戦闘魔術師が纏うそれだ。この少年こそが、男の仲間達を倒した、シギルムの襲撃者である。
少年の気怠い視線が男を射抜く。相手が己の敵対者で、しかも男であると理解していながらも、男の背筋にぞくりと震えが走った。
――惑わされるな!
男は身体に起こった震えを無理やり抑えつけながら、声を振り絞る。
「な、なんで……」
しかしそれは、掠れた情けのないものにしかならなかった。
「お前があまりにも遅かったから、先回りした。それだけの話だ」
事も無げに少年はそう言うと、無造作に右手を振った。すると、その右手には先程までは存在しなかった得物が握られていた。少年は真言宗系の隠形法によって、得物を隠し持っていた。隠形法を少年が解いた事で、得物が姿を表したのだ。
少年が隠し持っていた得物、それは刀だった。
並の刀ではない。兎に角長い。化け物じみた長さを持っている。
刀身だけで、平均よりは上である少年の背丈を遥かに超える長さをしている。月輪のように、銀の光を反射して大きく反り返ったそれは、俗に大太刀や野太刀と呼ばれるものである。大太刀の中でも、実用に堪えるものとまともには振れないものの二種類が有るが、これは真っ当な人間には刀としての運用が不可能な大きさをしている。
無論、シギルムの戦闘魔術師が真っ当な人間である筈もない。
少年はその大太刀の剣先を下げ、右の脇構えに構える。その体勢のまま、すり足で男に向かってゆっくりと近づいて行く。
能の舞や神楽にも似た足運びは、ゆっくりとしたものだが一片の隙も存在しては居ない。舞と剣には動きにおいて通じるところがある。柳生新陰流を将軍家兵法指南役の位置まで高めた剣聖、柳生宗矩も、能と剣術の足運びに共通点を見出しているほどである。
「う、うう……」
その動きに対して、男はどうも対応が出来なかった。近寄って攻めれば良いのか、いっそ退いてしまえば良いのか。
退いた所で、どうにもならない。少年は男よりも早いのだ。逃げることは出来ない。
ならば寄るか。あの、自分よりも優れた魔術の腕を持っていることが明白な少年に寄って行くのか。それは自殺とどれほど差がある行動なのだ。
どちらの選択肢の先にも、死という結末が待っているようにしか男には思えなかった。
「糞っ!」
男は両手を前に突き出す。その両手の内に、光が渦巻いていた。男もまた、魔術師である。退くことも寄ることも恐れて、その場から攻撃することを選んだのだ。
男の両手から、破壊力を持った光が迸る。それは一直線に少年の元へ向かっていった
「無駄だ」
少年がするりと動く。先程から続けられている、舞のような足運びだ。雷鳴の如き速度で迫っていた光は、その動きによって躱される。少年自体の動きが変化していない所為で、まるで光のほうが勝手に少年を避けたようですらあった。
二発、三発と続けて男は魔法を放つ。その全てが、当たらないことが当然であるというかのように躱される。後には、魔法によって抉られた地面だけが残される。
兎歩や反閇のように、歩法を用いた魔術は数多い。少年の歩法は、それらと同様の魔術的な効果を生み出している。
「糞! 糞! 糞! ……なんで当たらねぇ!」
男は悲鳴を上げながら、光を撃ち続ける。その全てが少年に当たる気配すらない。恐怖のあまりに男は魔術の連射速度を上げていく。
対する少年は歩みの速度も表情も変化させることはない。美しくすら有る歩みで、光の弾幕の最中を、まるで青信号の横断歩道のように進んでいき、彼我の距離を確実に詰めていっている。
男と少年の距離は、今や二メートルも無い。大太刀の間合いの内だ。
少年が左足で大きく踏み込む。踏まれた地面が、叩かれたように大音を鳴らす。
「ひぃ!」
男が体勢を崩して仰け反る。少年の腰が捻られて、大太刀の刃が背後に伸びた。
「旋式神楽が一」
少年の声と同時に、その腰が、脚が、腕が、蓄えていた力を爆発させる。まるでハンマー投げのように、大太刀が振り回された。
回転。その力が、大きさ相応の重さを持つ大太刀を高速で走らせる。
大太刀に回転と遠心力が乗って爆発的な速度を生み、白銀の剣先が銀孤を描いて男の首に迫る。斬り裂かれた空気が泣き喚く。
その切っ先が首に触れるよりも早く、男は意識の手綱を手放していた。
荷物を投げ落としたかのような音が響く。
地には、白目を剥いて気を失った男が倒れていた。首筋からは一筋血が流れているが、切り落とされては居ない。切断されているのは皮一枚だけ、それも大太刀の接触ではなく、高速の太刀筋が生み出した真空、即ち鎌鼬による傷だ。
「貴様如き、斬るまでもない」
そう投げ遣りに言うと、少年はまた大太刀を振るう。すると、再度大太刀はその姿を消した。再度、隠形法を用いたのだ。
下らない、と少年は呟く。
アペルトゥスを名乗る者達が世に姿を現してから、戦闘魔術師の実働は増えた。しかし、少年が斬るに値すると思えた相手は一人も居なかった。今日相手にした魔術師だけでも十人。しかし、その全てが木っ端でも十分な相手だった。今さっき倒した男も、本来なら素手で十分過ぎる程である。
――シギルムに弓引くのだ。ある程度の人材は確保しているものだとばかり思っていたが……
アペルトゥス――買い被りもいい所だった、ということか。現に、事件こそ頻発しているが、その全てが容易く沈静化されていると言っても過言ではない。
実力に差が有り過ぎる。
代演機も得たが、まともに使った事など一度もない。代演機の力を振るう必要がある相手など、身内の人間以外には存在していないからだ。
下らない、少年がもう一度そう呟いた時だった。何処からか、空虚な拍手が響いてきたのは。
「シギルムの十戒が一人、『鬼斬神楽』の京極冷泉。噂に違わぬ腕前だ。感服したよ」
「見物人か」
拍手のした方を少年――冷泉は、首を動かして見た。