見えず触れずままならず
あっという間に二日が過ぎた。大規模異界を展開するための準備を手伝ってはいたが、鷲介はセラフィーナの問いには答えられないでいた。
昼休み、鷲介は一人、ぼぅっとセラフィーナを眺めながら考えていた。紅音は昼休みになると同時に教室を弾丸のような勢いで飛び出していったっきりだし、文仁はサボりか何かで学校に来てすら居ない。
その所為で、鷲介は特にやることもない。だから、考えてしまう。自分が得た疑問を。彼女に指摘された疑問を。
何故、自分はあの時彼女を助けてしまったのか。
思考を転がしながら、鷲介はセラフィーナを見つめる。セラフィーナは鷲介からの視線に気付いていない様子で、友人達と談笑を続けている。あまりにも自然なその姿に、思わず歯噛みした。
もし、期日までに鷲介が上手く答えを見つけられなかったら、死ぬのは半ば確定しているというのに。何故普段通りに振舞っているのだ。
不安要素はそれだけではない。あの男が奪った代演機――《ルベル》は、《グラディウス》との戦闘で損傷を負っている。代演機は基本的にはシギルムと関係のある所以外に技術は流れていない。と言うことは、単独行動をしているあの男に代演機を修復する方法は、まず存在しない。
そうである以上、正面から《グラディウス》に挑んでくることはないということになる。その場合、あの男はどうするのか。当然、セラフィーナと鷲介に奇襲をかけてくるということになるはずだ。
あの男の戦闘能力なら、油断していなくとも奇襲をかけられたら、相当危険だ。代演機も魔術も十全に使える鷲介は兎も角、セラフィーナは抵抗すら出来ない可能性もある。見つかったが最後、ということになるわけだ。
そうであるにも関わらず、セラフィーナは恐れも動揺も表に出してはいなかった。果たして、事実恐れていないのだろうか。それとも、自らの死よりも重く見ているものが有るということなのだろうか。
鷲介はセラフィーナの言葉を思い出す。
――私は、私の父が死んでから立場を失ったディクスンの家名を再興したい。その為に、魔術師として研鑽を積んで、戦闘魔術師として立場を認められる。もしかしたら、ここにいてもいいって認められたいだけかもしれない。私が、私が戦う理由。私の心。
セラフィーナは、自分が持っていないものを持っている。いや、自分が失ってしまったものを持っている。鷲介はそう考える。
――誰かに認められたいとか、誰かのために何かしたいとか。
そういう感情は、要らないと思ってきた。流れに棹させばなんとやら。流れの中に立ち位置を見つけようなどという発想は、鷲介があろうとした立ち位置からは、遠く離れた思想である。
風に吹かれるだけの草でいい。川に流される小石でいい。鷲介はそう思っている。
風に吹かれる草は、暴風によって吹き倒されることはあっても、風が止めばいずれは元に戻る。吹き荒ぶ風に逆らって立つ大木は、暴風の前では、無残なまでにポキリと折れてしまう。そして、それはもう腐り落ちるのを待つばかりだ。
暴風には草木は逆らえない。だったら、草のように風に吹かれてだけいればいい。それが一番だ。もう二度と、あんな目には遭いたくない。
対して、セラフィーナのやろうとしていることは、大木になろうとすることに近いと鷲介は考えてしまう。大木として、風の中に自らの位置をしっかりと築こうとしている。その為に、戦闘魔術師として戦うのだ。
だが、彼女はいずれ、無残に砕かれる。それは遠い日ではないように――例え、あの男との戦いを乗り越えたとしても――鷲介には思える。セラフィーナはあまりにも無謀で清廉だ。
そのことを考えると、鷲介は胸が締め付けられる思いになる。彼女の心が折れて、鎖落ちていく様など、想像もしたくない。
鷲介は自問する。
自分は、彼女を守りたいのだろうか――? その自問への答えは、是である。しかし、何故そう考えるのかは、よく分からない。
「そういえば、あの娘どうしたのかな?」
ふと、セラフィーナを囲んでいる女子生徒の一人の言葉が鷲介の耳に入った。
「あの娘って、誰のことなの?」
「隣のクラスの、斎藤さん。私と同じ部活なんだけど――あ、私、人生ゲーム同好会に入ってるんだけど、セラフィーナちゃんも入らない?」
「……遠慮しておくわ。で、その斎藤さんがどうしたの?」
「それが、無断で部活を休んだの。で、ちょっと気になったから、同じクラスの子に聞いてみたの。そしたら、なんか学校の方も無断で休んでるらしいの。それで気になった担任が家に電話をかけてみても、誰も出ないとかで」
その話を聞いて、セラフィーナの表情が歪んだ。別の女子生徒が、話を始めた女子生徒に問う。
「家の電話に誰も出ないっておかしくない? あ、もしかして、夜逃げとか? だから誰も居ないっていう」
セラフィーナの様子に気付くこともなく、周りの少女達は、好き勝手な想像をまくし立て始めた。
「今時夜逃げ? ないない。それなら、押し込み強盗に一家まるごと……のほうが信憑性あるって」
「えー、どっちもないでしょ。きっと、たまたま病気しちゃって、電話に出るに出れなくて、そのとき家に他に誰も居なかったとか、そういうのだって。現実ってそういう偶然と普通で出来てるもんだよ」
「そうそう。夜逃げとか殺人とか、そんなこと私達の近くで起こるわけがないって」
そう言って、セラフィーナの周りの少女たちは、けらけらと笑った。セラフィーナ一人だけ、笑っていなかった。机の下、膝の上に置かれた拳を握り締めている。痛みすら覚えるほどに、拳が震えるほどに。
「そうね、きっとなんでもないことなのよ」
言葉と声色はまるで一致していなかった。拳の震えが、移ったかのようだった。セラフィーナは、知っている。今この街をそういうことをやりかねない人間が闊歩していることを。
――そこまで抱え込むことはないだろう。
彼女の握り拳を見ると、鷲介はそう考えてしまう。あの男がこの街に居るのは、鷲介とセラフィーナがあそこであの男を逃したからであるし、セラフィーナがあの男をこの街に縛り付けたからだ。
もし、セラフィーナの――鷲介の想像が当たっているならば、それは鷲介達の所為で起こったことだという事にもなる。
最善を尽くした――と、鷲介は思う。誰に責められることも無いはずだと。しかし、それでも足りないと、誰かが言ってくるのだ。最善を尽くすのではなく、最善の結果を出すのだ、と。
その誰かは、鷲介にとっては不愉快な誰かである。赤の他人の目で、不特定多数の声だ。しかし、セラフィーナにとってはどうなのだろう。彼女を責めるものは、何者だろうか。
――ああ。
鷲介は嘆息する。
少しだけ、分かったような気がする。セラフィーナを責めているのは、彼女自身だ。彼女自身の責任感や、彼女がそうあろうとするものが、彼女を責め立てるのだ。
それが自分とセラフィーナの違い。その彼女の有り様が、どうしても危なっかしく思えるから、ついつい守ったりしてしまう。自分のように、なってほしくないから。
そして、それ以上に、彼女のそんな有り様が自分を苛立たせている。彼女の有り様に心を掻き毟られる。
――だから、セラフィーナを守りたいのか“俺”は。
彼女が曲がるところも折れるところも見たくないから。彼女があまりにも眩しいから。だから――
憑き物が落ちたような気分だった。笑い出したくなるような清々しさだった。あの男も、何も怖くはないと思えた。戦おう、セラフィーナと一緒に。そして、誰も守ってくれなかった自分の代わりに、彼女を守ろう。
彼女の拳が、震えることの無いように。