転校生 一
翌朝。陽の光の眩しさを感じながら、鷲介はアスファルトの道路を歩いていた。あくびが勝手に出るのは、一応の防護策として夜を徹して魔術を行使していた。行使したのは、防御用や隠蔽用ではなく、逃走を補助するためのものだ。
もっとも、そんなものを使わなくとも、暁人が襲い掛かってくることはないだろうと鷲介は考えている。この街に飛ばされたのが暁人にとっても予測不可能なアクシデントであったとするなら、手持ちの情報は少ないはずだ。つまり、攻める側のアドバンテージを、今奴は持っていない。
そんな状況で攻めてくるような相手なら、もっと楽に事は済んでいる。
どんな用があろうと、翌日が平日ならば学校に行かなくてはならない。鷲介は学生である。
と、後ろからどたどたという足音が聞こえてきた。
「ぬおりゃあ!」
やけに気合の入った奇声は、少女のものと分かる、綺麗な高音をしていた。
それを聞きながら、鷲介は横に一歩ずれる。脇を、風切り音と共に小柄な少女のドロップキックが通って行った。
少女は靴の底を削るようにしてブレーキを掛けながら、片手と合わせて三点で着地。片足を視点にターンする。少女の長いツーテールが暴れて鞭のように振り回された。
「アンブッシュ失敗! ちくしょー!」
少女は本気で悔しがっているのか、地団駄を踏む。それを見て、鷲介は溜息をひとつ吐いた。
「お前は年がら年中元気だな。紅音」
「まーな! 私は元気だ!」
てくてくと鷲介の隣まで、少女――伊坂紅音は歩いて戻ってくる。背は鷲介よりも頭ひとつ以上低く、同年代の中でも小柄な部類だ。しかし、その小柄な肉体に秘めたエネルギーの総量は、凄まじい。全体的に引き締まった肉体は、常にそのエネルギーの解放を求めて動き回っているといってもいい。
リスのように可愛らしく好奇心旺盛で、どこまでも朗らか。誰とでもコミュニケーションを取りたがる、名物少女である。紅音と鷲介が通う笠原高校の生徒が彼女の横を通り過ぎるたびに、彼女に何かしら声をかけ、それに彼女が返答するのがその証左だ。その全てに向かって、紅音は向日葵のような華やかさで返答する。
「そーいうお前は寝不足かなんかか? 駄目だぞ、早めに寝ないと」
「色いろあるんだ、仕方ない」
「そーいうもんか」
「そういうものだ」
そう言って、鷲介はあくびを一つ。防護の準備を任せて、自分より先に寝た、有羅が少しばかり恨めしい気もする。
二人の行く手には、高校の校門が見えた。公立笠原高校。近隣の公立高校の中では、可もなく不可もなく。進学校を目指す方針では居るが、更に上位の学校が周辺に存在するため、上手くいかない。そんな立ち位置の学校である。
それ故に生まれた、適度に緩い雰囲気に惹かれて入学するものも多い。
二人は話をしながら校舎へ、そして二年B組の教室へと入っていく。どことなく、教室の様子はいつもより騒がしいように鷲介には感じられた。生徒達が幾つかの山に分かれて、がやがやと喋っている。いつもの光景と言えばそれまでだが、トーンが高い。
「おうおう、皆なんか盛り上がってるな」
目を丸くし、山の上から風景を見るように額に手を当て、紅音は教室内を見回す。
「ふん、ようやく来たか。いつもいつも遅いんだよ、お前たちは」
入り口に程近い席から、よく通る少年の声が響いてきた。
「おう、文仁。おはよー」
片手をまっすぐ伸ばして、紅音は応じる。
「登校時間的には遅刻じゃない。お前が早いんだ、綾辻」
鷲介の言葉に、少年――綾辻文仁は、ふんと鼻を鳴らした。文仁は眼鏡こそかけていないものの、いかにも線の細い文学少年、とでも言ったような雰囲気をしている。休み時間に一人で本を読んでいることは実際多いのだが、文学少年という単語から連想されるイメージ――繊細であるとか、内向的であるとか、は彼には当てはまらない。
誰にでも上から目線で話し、誰にでも噛み付いていく。既存のルールに縛られることのない、ある意味狂犬のような、人当たりのとかく悪い少年なのだ。
「俺から言わせれば、時間ギリギリで構わない、なんていうのは駄目だな。時計程度には、俺を縛ることは出来ないからな」
「そーだな、文仁は二時間目にいきなり来たりするからな」
「どうせ、眠いまま学校に来ても授業中に寝るからな。ならば家でしっかり眠ってきてからでも同じ事だろう?」
当然のことだ、と言わんばかりの文仁を見ながら、鷲介と紅音は席に着く。このいい加減さで、成績はダントツなのだから、教師達も手に余すことだろう、と鷲介はぼんやりと考えた。
「ところで私達よりも早く教室に居た文仁せんせー」
「どうした、伊坂。俺に教えを請うとは、中々分かっているな。特別に答えてやらんでもないぞ」
幼子が大人に問うような口調の紅音に対して、文仁は何処か嬉しそうにそう返答する。
「なんか皆騒がしいけど、何か理由があるんですか―」
「ああ、それは私も気になってしょうがない」
「何だそんな事か」
妙にがっかりする文仁。彼に衒学趣味のケが有ることは、鷲介も紅音も重々承知している。文仁がそう言う目的で口を開くと、生来の自由さと相まって、誰も止められなくなる程だ。
「くだらない事に、転校生だそうだ。こんな時期に転校など、ろくな事情ではなかろう」
その分、このようなただの噂話などの、誰でもアクセス可能ですぐ集められる情報に関しては興味がとことん無い。
「てんこーせー? こんな変な時期に? 漫画みたいだなー」
言い方は大分とぼけているが、紅音の言う通りだ、と鷲介は考える。常識的に考えて、学期や学年の節目以外での転校は普通ありえない。ある程度この先の進路というものが視野に入ってくる高校生ともなれば、尚更そうだ。
「えーっと、両親の仕事の都合とか?」
「一人暮らしさせるのが不安でも、ちょっと無い」
鷲介の言を受けて、文仁が続ける。「黒神の言う通りだな。余程特殊な仕事にでも就いていないなら、そんなことはあり得ないだろう。或いは、それこそ妙な事情があるか、だ。もっとも、俺は興味など無いが」
「余程特殊な仕事か、特殊なじじょー……」
そう呟くと、紅音は眉間に皺を寄せて口を尖らせて考えこむ。しかしそれも一瞬のことだ。
「ちょっと話聞いてくる!」
紅音はそう言うと、スリングショットで弾かれるように飛び出して、クラス内に散発的に出来た人だかりの一つ一つに首を突っ込みだした。
「相変わらずだ」
「ふん、思考放棄もいいところだな。だが、馬鹿の考え休むに似たる、という言葉もある。ならばあいつのやり方としては正しい」
いかにも不機嫌そうに、文仁は鼻を鳴らした。
紅音のそう言う気質――疑問には飛び込まずには居られない気質こそが、鷲介や文仁とこうして付き合っている原因であることを思うと、文仁もあまり否定する気はないのだろう。
紅音が居なければ、鷲介も文仁も、学校における人間関係というものが半ば消失している筈だ。
「ああ、間違いない」
頷いて、鷲介は紅音を見た。あちらこちらから話を聞いては、誰に急かされたわけでもないのにくるくると忙しそうに飛び回る。人の話を聞く時は興味深そうに、礼を言う時は破裂せんばかりの笑顔で、とかく表情が忙しく変わる。
――あいつは、生きていて楽しいに違いない。
そんな事を、鷲介は思う。至って普通の日常生活に驚きを見出し、それを楽しむことが出来る。そんな紅音が、鷲介にはとかく眩しく見える。
ひと通り話を聴き終わったのか、駆け足で紅音が戻ってきた。
「金髪の女の子だってさ!」
喜色を顔面に浮かばせ、目を輝かせて息を荒げている。
「端折り過ぎて、何が言いたいか伝わらない」
「落ち着け伊坂、呼吸を整えろ。ラマーズ呼吸法だ。分かるか? ひーひーふーだ」
「ひーひーふー……ひーひーふー……おっけ、落ち着いた」
「それで落ち着くのか……よく分からない」
紅音と文仁のやり取りに、鷲介は半ば呆れていた。この二人、どう見ても凸凹コンビもいいところにしか見えないが、それが逆に相性が良いのか、奇妙な所で噛み合っている。
文仁の席に両手を着けて、身を乗り出しながら目を輝かせて紅音が言う。
「それでてんこーせーなんだけど、めっちゃめちゃ可愛い金髪の女の子なんだって! なんか職員室に入っていくのを見た奴が居るってさ!」
「金髪、ということは外国人か。こんな半端な時期に転校してきたのも、その辺りと関係があるということか」
そう言う文仁は、やはりあまり転校生に興味を持っていないように鷲介には見えた。紅音とはまるで反対だ。
「金髪、女、外人……」
それに加えて、自分達と同じ年頃、というところに鷲介は引っかかりを感じだ。まさか、とは思うが――
生徒たちの喧騒を破るかのように、扉が開けられる。そこに覗く人影を見て、生徒達は急いでお喋りをやめて、自らの席に戻った。扉を開けて入ってきたのは、三十前後の、スーツを着て眼鏡をした、すらりとした出で立ちの女性――このクラスの担任である、佐原翔子である。そして、その後ろにもう一人。
ふたりはすたすたと歩くと、黒板の前に立った。
「はい、席に着いて。それではホームルームを初めますが、その前に、転校生を紹介します」
佐原は黒板に向かって、カタカナで人名を、少女の名前をチョークで書き入れていく。
佐原の隣にいるのは、金色の――いや、白金色の髪をした、見目麗しい少女だ。透き通った白い肌を笠原高校の制服に包み、背筋をすらりと伸ばして立っている。
「凄い綺麗……なんかモデルみたい」「美人だ……」「なんでうちの学校に来てるんだよ、どっかのお姫様かなんかだろあれ」
周囲から聞こえる驚愕の声を余所に、鷲介は頭を抱えた。
――なんでお前がここに居るんだよ。
「セラフィーナ・ディクスンといいます。皆さん、よろしくお願いしますね」
白金色の髪をした少女――セラフィーナ・ディクスンは、そう言ってにこりと笑った。
この笑みで、何人の男が恋に落ちるのだろう――
セラフィーナの花のような笑みを見て、鷲介は何処か自分を突き放したような気持ちで、そう考えた。