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週刊三題  作者: 長岡壱月
Train-18.September 2013
87/500

(2) 在処

【お題】天国、山、消える

 一歩また一歩、道なき道を行く。

 これで何度目になるだろうか? 俯き加減の視界に映る褪せた土色と緑を見つめながら、

丹生谷はぼうっとそんなことを考える。

 がし、がし。歩を進めるごとにストックが枯れ草を含む地面に沈む。

 まさか齢五十を過ぎて山に登るなど、あの頃は考えもしなかった。自分はごく普通のサラ

リーマンに過ぎない。

 街に生まれ、街に生きる。緑とは道端に植えられているもので、灰色の地面に添えるアク

セント程度でしかない。

 だから、少なくとも自分は、登山というものとは無縁だった。趣味などではない。

 楽しみなど無いのだ。

 ただ……行かねばならないと言い聞かせていた。そうしなければ、どんどん風化していく

ような気がして。


 七年前、息子が死んだ。

 趣味としていた登山の最中、土砂崩れに巻き込まれたのだという。

 その日一緒に登っていた仲間達の嗚咽と謝罪は、殆ど頭には入らなかった。ただ自分は妻

を伴って搬送先の病院に駆けつけ、二度と動かなくなった、惨たらしいその変わり果てた姿

に立ち竦むだけだった。

 ──馬鹿野郎。だから言ったんだ。

 当初から、私は息子の趣味には反対していた。

 門外漢ではあるが、知識くらいはある。達成感だが何か知らないが、場合によっては命を

落とすことだってありうる危険まで背負って、そんなに登らなければならないものなのか。

 何よりも……本心、面白くなかったのだと思う。

 どうして遠くへ行く? どうして言うことを聞かない?

 確かにお前はもう成人している。仕事にも就いて、自分の稼ぎで暮らしている。

 だが、だから自己責任なんだしいいだろうなんて理屈、やはり親としてはそう簡単には頷

けないのだ。

 手前の不手際で他人様に怪我でもさせてみろ、迷惑を掛けてみろ。お前一人に全部向く訳

がないだろう。

 人は誰しも、何かしら迷惑を掛けながら生きている。

 お前自身をお前一人で贖えるなど……思い上がりなんだ。

 弁えろ。ただでさえ、現代いまは暮らしを維持するだけでも大変なのに。街には衣食住が整って

いるだろう? なのにどうして、お前は“荒地”へと出たがったんだ──?


「……っ、はぁっ……」

 息が荒い。丹生谷は伝う汗をタオルで拭い、黙々と山道を登っていった。

 数歩先にはガイドと、当時息子と共にこの山に登った仲間が数人。

 丹生谷は、そんな彼らに見下ろされる度に、内心小波のような苛立ちを覚えた。

 嗚呼、こいつらだ。こいつらが息子を余計な道に引っ張り込んだ……。

 だが一方で、そんな感情は理不尽だということも、理性の部分で分かってはいる。

 息子を死なせたのは土砂崩れだ、彼らではない。そもそも彼らの中にも当時重症を負った

者がいる。その上で彼らを責めるのは……やはり八つ当たりなのだろう。

「大丈夫ですか、丹生谷さん? 少し休みましょうか?」

「……その必要はない。進んでくれ」

 ガイドが心配そうにそう丹生谷に提案した。

 だが当の本人はむすっとした表情のままこれを突っ撥ね、決して健脚とはいえない足取り

を再開させる。

 目を細め眉を下げてガイドが、事故当時の仲間達がそれぞれ互いに顔を見合わせて困惑し

た様子をみせていた。

 しかし当の丹生谷はそんな彼らの反応など、感情など、見向きもしない。……いや、想像

できるからこそ、その厚意に甘えるような自分が許せなかった。

 ずんずん。言葉なく戸惑う彼らを追い抜き、丹生谷はまた一つ山中の上り坂を攻め切って

いた。それでも程なくして、枯れ草と点々とした岩肌の地面を蹴りながら、面々が追いつい

てくる気配を感じる。

(……ふん)

 償いの意識か、それともこの中年に仲間の二の舞になられては困るのか。ガイドはともか

くとしても、そもそもに彼らは自分に付き合うメリットなどなかろうに。

 ザッザッと坂を下っていく。持ち上げた視線の向こうには、繰り返し山折り谷折りの稜線

が続いている。

 ……やはり自分には、登山というものを楽しめそうにない。



 それでも丹生谷が毎年この山に登る理由は、他でもない。息子の命日に合わせ、その死に

場所とされる現場で手を合わせる為である。

『──』

 あの日、土砂崩れがあった現場までやってきた一行は、線香と小振りの花束を供えると皆

一様に手を合わせた。

 どうか、安らかに──そう自分も彼らも祈っているのだろう。

 だが丹生谷には、更にもう一つ別な意味合いがあった。

 息子の「居場所」である。

 さて、確かにあの日息子の亡骸は発見され、自分達の下へ運ばれ、葬儀と埋葬を受けた。

 だが……丹生谷はそれで「終わった」とは中々思えなかった。もしかしたら息子の魂は今

もこの山に残り続けているのではないか? 生前と同じように“自由”を求めて登り続けて

いるのでないか? そう、彼は考えているのだ。

 本人が死んでしまっているから、もう本当の理由は知りようがない。

 だが事故から何年も経ち、丹生谷は思っている。

 息子は窮屈に感じていたのだろう。どれだけ物質的に恵まれていても、街の暮らしに──

金儲けの歯車を回すだけの生活に、彼は不満を抱いていたのだろう。

 だから山野を選んだ。より豊かな都会にではなく、人の手が蝕まない自然を選んだ。

 尤も、厳密にはこの土地にだって所有者はいて、何かしら管理の手間が掛けられているの

だろうが……。

「……雲行きが怪しくなってきましたね」

 暫く祈りを捧げたその後、ふとガイドが空を見上げて言った。

 丹生谷達もその視線に倣う。見れば確かに、先刻までは晴れていた空が今はどんよりと黒

を濃くした灰色一色に染まっている。

「こりゃあ、一雨来るな」

「ああ、一気に下りるのは拙いだろう。一旦八合のコテージで回復するのを待った方がよさ

そうだな」

 にわかに息子の登山仲間達が真剣な顔つきになり、そうあれこれと話し合っていた。

「賛成だ。丹生谷さん、それでいいですね?」

「……ああ」

 ややあって、彼らから確認の言葉が向けられた。じっと線香がくゆるのを見下ろしていた

丹生谷は、ちらと眼だけを彼らに遣り、短く答える。

 元より自分は素人だ。経験者の判断があるなら、それに従わない理由はない。

 

 ……だが、山の天気は変わりやすい。

 最寄のコテージへ急ぐ丹生谷達だったが、落ちてくる雨粒は加速度的に大きく激しいもの

になっていった。

「くそっ、これじゃあ視界が……」

「拙いな……。とにかく、雨宿りを」

 下山の足は止められざるを得なかった。大きな木が根を張る崖下の窪みを見つけ、一行は

そこを急場しのぎの場所とした。

 身体中がびしょびしょに濡れてしまっている。

 ガイドや彼らの指示で、丹生谷は共にタオルで念入りに身体を拭った。濡れたまま放って

いては、身体から熱が奪われてしまう。体力は、温存しておかなければならない。

「……」

 轟々と降り注ぐ雨だった。

 タオルを頭に被ったままで、丹生谷は思う。

 そうか、こうして息子が死ぬ環境が整ったのだな。そして彼らが──あの場所へ息子を連

れていった。

「止むかな?」

「分からん。だが今出て行っても視界は最悪だ、少なくとも今動くべきじゃない」

「でもなぁ……。この豪雨じゃ、この窪みだっていつ崩れるか──あっ」

 その間も、彼らはどんな選択がベターかを話し合っていたらしい。

 最後、内一人がそう言いかけて丹生谷と目が合い、言葉を途切らせた。

 土砂崩れ。そう連想したのだろう。

 だが今更気を遣って貰わなくともよかった。

 こちらはずっと前から、内心、あんた達を恨みの眼で。

『──ッ!?』

 ちょうどそんな時だった。一同の耳に、明らかに異質な軋みの音が聞こえてきた。

 ばらばら……。見上げれば、窪み天井部の土がにわかに剥がれ落ち始めている。

「拙い……!」

「急いで出るんだッ!」

 その判断は、間違ってはいなかったと思う。

 事実弾かれるように丹生谷達が飛びした直後、窪みは粘ついた泥を帯びて一気に崩れてい

ったからだ。

 再び雨に全身が打たれる。満足に利かない視界の中で、どうっと山の土が形を変えていく

さまを目の当たりにする。

 ──だがそれで終わりではなかったのだ。

「ぬっ!?」

 窪みの上には大きな木が根を張っていた。だからこそ彼らはその根が土を支えてくれる、

そう簡単に雨で崩れないだろうと踏んだのだが。

「丹生谷さん!」

 倒れてきた。根を張るべき土を除かれる格好になり、その大木が事もあろうに丹生谷へ向

かって倒れこんで来たのである。

 彼は咄嗟に横っ飛びに避けていた。しかしそれが仇となった。

「──」

 “足場がない”

 勢い余って、彼の身体は山道の本筋から大きく外れ……崖の向こうへと放り出されていた

のである。

 丹生谷は瞬間、大きく目を開けていた。ガイド達の悲鳴が重なり、急いで彼の下へと駆け

出そうとする。

 しかしもう遅かった。

 悲鳴を掻き消す轟々とした雨音、誰にも平等な重力法則。

 丹生谷の身体は──まっすぐに山道の下へと落ちていく。



「──」

 それから、どれだけの時間が経ったのだろう。丹生谷は、少なからず朦朧とした意識の中

で目を覚ました。

 押し出された肺の空気が一気に口から漏れ出す。身体中に痛みが走る。

 ……どうやら即死だけは免れたらしい。この感触、繁茂した草木がクッションになってく

れたからか。

「ぐっ、あっ……」

 だがかといって無傷である筈もなく。

 丹生谷はゆっくりと身体を起こそうとしてみた。ズキズキと全身が痛む。見かけの上では

あちこちに赤い擦り傷を負っているだけだが、身体の中身はもっと酷いことになっているの

かもしれない。

 近くの木につかまり、ようやく立つことができた。存外ボロボロではないようだ。

 静かに呼吸を整えながら空を見上げる。雨はあの時よりも落ち着いてきた気がするが、黒

い灰色はあまり変わっていない。まだずぶ濡れになってしまった。身体を拭こうにも、手当

てをしようにも、落ちてきた衝撃で荷物は何処かへいってしまったらしい。

(参ったな……)

 何より絶望的なのは、同伴者かれらと完全にはぐれてしまったことだ。

 息子の事故死以来、この山には何度も来ているが、自身登山に入れ込むようになった訳で

はない。何処をどう行けば戻れるのか帰れるのか、丹生谷には皆目見当がつかなかった。

「……」

 場合によっては命を落とす事もある。

 それが今、もしかしなくても自分に向けられた言葉になりつつある。

 木にもたれかかった。歩き出そうという気にはなれなかった。

 嗚呼、私は死ぬのか……。そんなある種の悟りが、彼の脳裏に去来していた。

 馬鹿なことしてきたなぁと思う。

 自分なりの居場所を求めていた息子を詰り続け、死して尚、彼が見つけた……らしいそこ

へと踏み込んでいる自分という父親。その業。

 これは──天罰なのだろう。

 そして丹生谷は、フッと口元に哀しく弧を描くと、徐々に力を失って木の下にへたり込み

かける。

『──』

 だが、そんな時だった。ふと木々の向こうで気配がしたのだ。

 ぼんやり。薄っすらと閉じかけていた瞼を持ち上げる。

 相変わらずの雨、やはり視界は霞んでいる。

「……健、助?」

 最初、丹生谷は信じられなかった。

 自分は幻でも見ているのか? だが今、自分の瞳には確かに、死んだ筈の息子が……登山

着姿で映っている。

 その声が届いたのか、届かなかったのか。

 すると次の瞬間、健助の人影はスッと音もなく踵を返し始めたのだった。

 肩越しにこちらを見ている、細められた目。

 怒りや憎しみなどは見受けられない、酷く静かな表情かお

「ま……待ってくれ!」

 一度は失われかけた力がせり上がっていた。

 木々の間へ消えていく息子の幻影に、丹生谷は手を伸ばして追いつこうとする。

 ざりっ。水分を含んだ草木が、その足取りに絡みついては剥がれていく。


 その後のことは、あまりよく覚えていない。

 ただ彼は追いかけていた。何度も何度も草木を掻き分け、ゆっくりと進んでいく息子の幻

影を追い続けていた。

「──っ!? あなた!」

 気付いた時には、山中の駐車場らしき場所に出ていた。

 腰近くまで伸びた雑草を掻き分け、とんとアスファルトに──それまでとは全く異質の感

触へと足をつける。

 逸早くこちらに気づいたのは、妻だった。

 駆け寄ってくるその必死の形相。覚束ない意識ながらに見てみれば、そこには何台もの車

が停まっており、ヘルメットやザックなど完全装備をした者達がああだこうだと何やら話し

込んでいる。

「えっ?」

「に、丹生谷さん!?」

 それからは皆、大わらわだった。

 とはいえ丹生谷には、もう周囲の様子をぐるり確認するだけの気力は残っていなかった。

 何人もの人々の声が重なり、近付き、自分を覗き込んでくるのが瞳に映ったからこそ、辛

うじて自分が保護されたのだと悟ったのである。

「ぶ、無事でよかった……」

「にしたって、どうやってここまで……?」

 見ればその面子の中には、一緒に登っていたガイド達の顔もある。

 おそらく自分が落ちてしまった後、急いで麓に知らせてくれたのだろう。妻がいるのも報

せを聞いて飛んできたからか。

「あなた……」

「……。すまん、心配をかけた」

「っ、本当よ……。ねぇ、もう止めにしましょう? ちゃんとお骨もある、お墓だって建て

たのよ? もう私達だって若くないんだから、わざわざ登らなくてもあの子の供養はできる

と思うの」

「……」

 担架に乗せられながら、妻がそう丹生谷へ懇願してきた。

 気持ちは分かる。こんなことになるなら、また家族を失うのなら、とは彼女の心情として

察するに余りあると思う。

 でも……。

『──』

 なのに次の瞬間、丹生谷の目はある一点に釘付けになっていた。

 ちょうど妻の後ろ、その傍らに、あの息子の影がこちらを見つめて立っていたのだ。

 時間が止まったのかと思った。小雨になりつつある雨音が皆の声が、実際以上に遠退いて

いくような感覚に陥った。

 気付いて、いない? 自分以外には誰も、息子がそこにいることに気付いていないように

見える。

「……そうか」

 長い沈黙の後、丹生谷は胸奥から搾り出すように呟いていた。

 しかしそれは妻への返答ではない。厳密には半分は妻に、もう半分はこの息子──の魂へ

と向けた言葉だったのだから。

「そうだな……そうするよ。私が悪かった。あの子はもういなくて、だけど多分ここにいる

のだと思う」

 妻や救助隊、ガイド達が、要領を得ぬといった感じで頭に疑問符を浮かべていた。

 それでも丹生谷はふっと笑う。今度は自嘲ではなく、微笑で。

 一瞬のまばたきの後、息子の影はいつの間にか消えていた。

 だが……瞼の裏で、彼はきっと笑っていたのだろうと丹生谷は思う。

(……健助、お前はお前だ。遅過ぎたかもしれんがな……)

 担架に乗せられた自分の身体が、救急車の中へと収められていく。

 慌しい周りとは対照的に、丹生谷の心は不思議なほどに穏やかだった。

                                      (了)

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