(1) ヒューマニズムの火
【お題】虫、残骸、燃える
原因は些細なことであった。しかし失ったものは二度と戻らない。
燃えていた。人間達の密集する家屋の一つがその夜、バランスを崩し倒れたヒーターの延
焼によって火災に見舞われたのだった。
始めは静かにゆっくりと、しかし喰い進む紅蓮は確実に加速度的にその勢力を拡大させ、
ものの一時間もせぬ内に部屋を覆い包んだ。転寝をしていた家主当人もややあって熱と焼け
る物音によって飛び起き、自分のしでかした過ちを悔いるよりも早く遁走を図った。
夜は即ち、眠りの時間である。
家主は二階で寝ている妻子を叩き起こし、すぐに避難するように言った。
下の息子はまだ眠い目を擦りながら父に引っ張られていった。上の娘は弟の分の貴重品も
含めて荷物を纏め、携帯電話から消防署に連絡する。
一番慌てていたのは妻だった。彼女は先ず安眠を妨害されたことを詰り、次に階下で拡が
っていく火の手に目を覚まして再び夫の過ちを怒鳴った。
とにかく逃げろ。夫は反論の余裕も気概もなくそう促すしかなかった。
子供達を先ず外へと逃がす。そしてその足で消火器を探すと、彼は果敢にも──後ろめた
さと保身、恐怖からその引き金をひいて白粉を解き放つ。
……しかし、もう事態は一次消火の域を超えてしまっていた。
火を鎮める筈の科学は呆気なく消し炭に溶け、むしろまるで意思を持ったかのような猛火
の煽りを受けてしまう。
その一方で妻は騒ぎ続けていた。
あれもこれも。娘以上に彼女は家中の貴重品を片っ端から腕の中に抱え、鞄に詰め込もう
としていた。
勿論、事態はそんな悠長な欲望に構ってはくれない。
やがて自前での消火を諦め、妻の喚きを耳にした夫が血相を変えて駆け込んできた。
馬鹿野郎、何をしてる!
彼は叫んだが、妻は錯乱したまま両手一杯の現金や通帳、貴金属を抱えてまた自分を詰っ
てくる始末だった。
あなたよ、あなたが全部悪いのよ──!
本性、という言葉が脳裏を過ぎった。時の流れが妻を内から変貌させていたのか。
しかし元を正せば、自分の所為で今失おうとしている。
彼は苛立ちを返そうかと頬を引き攣らせたが、それでもぐぐっと言葉を飲み込むと、妻の
肩を取って力づくで部屋の外へと押し出してゆく。
最初、異変を感じたのは幼い我が子らだった。
粗末ながらも雨風をしのげる立地に建てた巣の中で、我が子らが何度も何度も苦しげに鳴
き始めたからだ。
母は急いで近くの梢から飛び出し、子らの訴えを視ていた。
……熱い。ここは日当たりこそいいが、今は夜だ。こんなに熱を持つなど考えられない。
そんな時だった。彼女ははたして気付く。
燃えていたのである。巣がその身を預けるくすんだ白壁、その上辺の隙間から黒い煙と
火の粉が漏れ始めていたのが見えたのだった。
火事──人間の住処が火に包まれる現象。
今起きているその事態を語彙からも理解した時、母は戦慄した。
子供達が……危ない。
キュウ。夜空にか細い咆哮を吐き、彼女は巣の中で怯え、苦しむ我が子らを見た。
数は六羽。まだ自分で飛ぶこともできぬ、されど愛しい我が子達。
順番など……つけられるのか? 視線が迷いのままに右へ左へと動く。
それでも時間はそう多く残されていなかった。意を決して彼女は身を乗り出す。
優先度をつけざるをえなかった。即ち、育ちの大きな順。そうすれば巣から離れ、新たに
住処を見つけるまで耐えうる確率は上がる。
でも──。首根っこから一番育った子を咥え、大きく両の翼を開く。
でも、間に合うのか? この子達を全員救えるのか? 効率というものを思考に過ぎらせ
た瞬間から一線を越えているには違いないが、自分は今まさに命を選別しているのだ。
羽ばたき、巣の縁を蹴る。
近く……いや少し離れた別の人間の住処に、枝葉の中に一先ず逃がそう。
夜が闇色が重い。
母鳥は最初の仔を置くと、間髪入れず入れることを許さず、来た道を飛ぶ。
上が五月蝿い。
時間は夜の筈なのだが、まだこの家の人間達は起きているのか。
母は軒下に身を潜めたまま夜目を利かせ、彼らの気配を探っていた。
傍らでは子供達が眠っている。自分に身体を擦り付けて安眠している仔もいれば、まだ遊
び足りないのか暗がりの下をうろうろしている仔もいる。
何かおかしいわ……。彼女の一言で子供達が集まってきた。とはいえ、大半が一体何が起
きているのか分からずキョトンとしている。それは彼女も同じだった。もう一度、もう一度
五感を研ぎ澄ませて様子を探る。
──火事だ、すぐに逃げろ!
──くそっ! 消えない……駄目か。
──馬鹿野郎ッ、何でまだ逃げてないんだ!?
暗がりの中で母の瞳が大きく開いた。火事──逃げる──。
お前たち。彼女は子供達が揃っていることを大急ぎで確認すると、言い聞かせた。
どうやらここは駄目になったみたいだ。引っ越すよ。
子供達はにゃーにゃーと鳴いた。喜色や疑問符、或いはまだ眠いよぉと訴える声。
あぁ、しっかりおし。お前たちはこれ以上黒ぶちになりたいのかい?
まったく、うちの人は種だけ付けてぷらっと出て行ったきりだし……。まぁ家っ子は別と
して、あたしらの色沙汰なんて大抵そんなものだけどさ。
彼女はそう嘆息をつきながらも、すぐに動き始めていた。
じわじわ、頭上が熱くなり始めている。もうあまりが時間がないようだ。
ほら、行くよ! はぐれないようにしっかりついて来な!
子供達の中でも幼子を優先して咥え、背中に乗せてやり、彼女は子供達と一緒に軒下を駆
け出していった。
普段、昼間はここの住人に見つかると面倒なので身を隠し続けていた、食えもしないくす
んだ白の塊。それが肩越しに振り返り見上げれば、今や轟々と唸りを上げて炎に呑まれよう
としているのが見える。
かーちゃん? ニンゲン、黒ぶちになったー?
……さぁね。知ったこっちゃないよ。
間に合ったか。それでも出来るだけ遠くに逃げるに越したことはない。確かこういう時に
は、人間というのはわんさかとやってくるのだと聞いた覚えがある。
ほら、行くよ?
そう鳴いて母猫は、まだのんびり気楽そうな仔らと共に夜闇へと消えてゆく。
折角、こっちが食事を採っているというのに騒がしいな……。
夜闇に隠れて残飯を漁っていると、ドタバタと聞き慣れた音が聞こえてきた。間違いなく
人間──この家の住人のものだ。しかも複数である。
どうしたんだ? まさか、こちらに気付いて殺しに来たのか?
彼は口に食べ物を含んだまま、思わず身を硬くしていた。
最早長い長い歳月繰り返されてきた我らと彼らの関係性とはいえ、理不尽である。
相手は自分達も圧倒的に巨大だ。なのに、彼らは我々を見つけるや否や汚物を見たかのよ
うに嫌な表情をする。悲鳴を上げる。或いは無言で凶器を振り下ろしてくる。
見た目が気持ち悪い? 余計なお世話だ。大体奴らの方がよっぽど巨体で不気味なのに。
別に、我々は奴らに病気を与えに来ている訳ではないのだ。その点でいえば鼠族らの方が
よっぽど危険であるというのに。ただ……ただちょっと、我々は奴ら人間達の食したものの
お零れで腹を膨らませようとしているだけなのに。
──あった、消火器っ!
すると、一際至近距離で人間の声が聞こえた。何か大きな音と共に物体が浮いていった。
まったく……相変わらず奴らの空間制圧力は恐ろしい。
と、父さん!
大丈夫だった……?
息を潜め、気配が遠退くのを待つ。
そうしていると、穴──住処の奥から妻子らがぞろぞろと出てきた。よほど怖い思いをし
たのだろう。彼は手元に今夜の収穫を引き寄せると、微笑うように務めた。
どうしたんだい、そんなに慌てて? もう人間達は行ったみたいだ、安心していい。それ
よりも見てみろ。今日はかなり収穫が──。
そんな場合じゃないよ!
あなた、急いで! この人間の家……燃えてるの!
彼は抱えた肉片をぼとりと落として、暫し言葉を失った。
そういえば、確かに今日は心なしか熱いような……。環境の変化に強い我々種族の性質が
仇になったというのか。
妻子らが早く逃げましょうと叫んでいた。聞けば既にお隣さん達も避難を始めているのだ
という。嗚呼、だから今日は倍率も──。
そんな時だった。
背後の、整備された木の壁が割れて火が噴き出して、
我が家が赤々と燃えていた。
消火器が通じなかった時に覚悟はしたつもりだったのに、いざ目の前で燃え朽ちていく様
を見せつけられると堪えるものは相当である。
「あぁぁ……。私の、私の家が……」
名義は俺のだよ。
彼はコンクリートの地面にへたり込み、ざめざめと泣く妻を一瞥して見下ろすとそんな呟
きを喉の奥へとしまい込んだ。
夜闇に赤が妙に映えるものなんだなと思った。今も必死に消火活動をしてくれている消防
隊員らには申し訳ないが、どうせまともに住めるものに落ち着く訳がないのだからいっそ灰
に変えてくれた方が踏ん切りがつくのかもしれないなと考えてしまう。
「……お父さん」
「これから、私達どうなるの?」
それでも安易に現実逃避などしていられないのが事実だった。
母がもう自分の事しか考えていないことを幼いながらに悟っているのか、息子と娘は二人
してこちらを見上げている。
純粋さと、冷めた眼。それでも不安げである点では変わらないだろうと信じたい。
もう一度彼は妻を見た。
……みっともない。火元は自分の所為であるとはいえ、今は近所や野次馬どもが集まって
見ているのに。嗚呼こらそこ、ニヤニヤしながらスマホで動画を撮るなよ……。場所が許せ
ればすぐにでも殴りに掛かってるぞ?
「暫くは……兄貴辺りに間借りを頼むことになるかな。できるだけ早く、新しい家を見つけ
るようにするから。一戸建ては、難しいだろうけど」
そもそも、まだあの家のローンが残っているし。
彼はそんな、地味だがずんと重い現実に胸が塞いだ。子供達には淡々と、できるだけ前向
きな回答をしたが、はたしてあんな状態の妻を一緒にそう上手くいくのだろうか。貴重品は
しっかり者な娘や妻──の業突く張りで以って持ち出せたが、失ったものこの先失っていく
であろうものは決して少なくない筈だ。
「……」
それでも、と彼は思う。
その瞬間の理由を、自分でも上手く説明できなかった。だが確かだったのは、たっぷりと
沈黙してからそっと家族一同を自身の両手で包んでいたということ。
「お父、さん?」
「ちょっと、何? いきなり」
「……ひっく。どうしたのよ……?」
柄じゃないことは自分でも分かっている。実際、目の前の妻子らも戸惑っているのがあり
ありと窺える。
「──よかった。皆、無事でよかった……」
それでも、彼は言葉少なげに抱き締めていた。
静かに、その両の涙腺が緩んでいた。
(了)




