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週刊三題  作者: 長岡壱月
Train-13.April 2013
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(2) 道の途中で

【お題】山、雨、光

 頬に落ちる冷たさでようやく目が覚めた。

 最初、岸部は自身何が起きたのか、何故こんな所にいるのか、意識がぼうっとして理解が

追いつかないでいた。

 場所は山である。空は本降り数歩手前の曇天であった。

 岸部はうつ伏せに倒れた状態だった。大量の水気を含んだ枯れ葉が触れる肌のあちこちを

ねっとりと刺激している。これが夏場だったまだ涼を感じていたかもしれないが、生憎今は

晩秋──冬への準備が始まる頃合だ。故に目が覚めてしまったことで、岸部の全身は一斉に

悪寒を伴う悲鳴を上げ始める。

「……ッ、っ……」

 声にならない声、押し潰された息を吐き出し、岸部は起き上がろうとした。

 しかし、どうにも上手く身体がいうことを聞いてくれない。

 思わず独り顔を歪めた。

 身体中が痛い。特に左足のそれは酷く、熱を帯びているようだった。

 これは、折れたか──。医学の知識には疎いが、岸部の直感はそう緩慢と告げてくる。

 故に岸部は這いつくばりながら動くしかなかった。

 その間も身体は痛みを訴えている。我慢しろと、自身を宥めてずりずりと鞭を打つ。

 両肘を支えに上半身を起こしたことで、岸部はようやく今置かれている状況を理解した。

 山の中──詳しく言及するなら、出っ張った崖の一角。

 心身の感覚はまだぼうっとしたままだったが、徐々に記憶の糸が繋がっていく。

 そうだ。自分は山菜採りに裏山に来たのだ。

 だけどその途中で通り雨に遭い、これはいかん早く戻ろうと焦って……足を滑らせた。

「……」

 まだ切れる息を肩でしながら、そっと眼下を覗いてみる。

 視界はあまりよろしくなかった。高さ故か、雨という今のこの気候の所為か。

 おそらく後者だと思うが、どんよりと靄が掛かって崖の下は窺えなかった。ただ酷く打ち

付けたと思われるこの身体と今いる出っ張りの位置からして、相応の高さにはある筈だ。

 もう手遅れだとは思ったが、それでも濡れっ放しよりはマシだと思い、岸部は痛む身体を

引き摺って出っ張りと崖の凸凹が作る空間に身を捻じ込んだ。

 濡れた上着を脱いでぎゅっと絞り、即席の薄クッションにして壁面に敷く。両脚は相変わ

らずいう事を聞いてくれないが、それでもうつ伏せのままよりはマシだ。折り畳んだ上着に

どうっと背中を預けて座ると、岸部に再び強い疲労の波が襲ってくる。

「……今、何時だ? とに、かく……助けを……」

 雨音に掻き消される自分の声。

 それでも岸部は冷えて震える手で懐を弄ると、こんな時にと持たされていた携帯電話を取

り出してみる。

 しかしすぐに諦めた。力の入らない手で握ったまま、だらりと腕を下ろす。

 落下の衝撃だろう。開いた液晶画面は大きくひび割れており、動作すらしない。これでは

時刻も確認できない所か助けも呼べないではないか。

 そういえば採った山菜を入れていた籠も見当たらない。十中八九谷底だろう。……こんな

状況になっても、まだそんな物欲に意識が及ぶ自分を酷く哂いたくなった。

 ……雨脚が、激しさを増していく音がする。

 岸部は成す術もなく、暫しぼうっと崖下の雨宿りを続けた。

 山に入ったのは昼過ぎだ。それから山菜採りに興じ、通り雨に遭ってという一連の流れと

少なからず気絶していただろうことを考えると、時刻はもう日没に近いのではないか?

 拙いなと思った。

 帰りが遅いとなれば、家にいる妻が何かしら手を講じて──もしかしたら既にこの壊れた

携帯電話に連絡を寄越したりして──いるかもしれない。それでも、自分が今こんな事にな

っているとすぐに想像できるものなのだろうか。

 嫌な汗が背を伝った。

 そこはかとなく暗いのは時刻故か、それとも空の曇り故なのか。一応出掛けに山菜採りに

行って来るとは言ってある。心配してくれると……信じたいが。

「……」

 それでも、頭上の曇天がそうであるように、岸部の心は晴れなかった。堰を切って過ぎる

のは、自分が思うほど妻子が“心配”するのかという疑心である。


『四十八歳自営業男性、自宅近くの山中にて遺体で発見──』


 そんな字面にして十数文字の見出しとなって流れ消える末路が想起された。

 つい昨日までは、先刻までは、他人事のように画面越しに見ていたニュースも、いざ自分

がその一人に為るかもしれないと思うとぞっとする。

 どれだけ、時間が掛かるのだろう?

 妻がご近所なり警察なりに話し、自分の捜索が始まるとする。だがこの山に入ったことは

知っていても、こんな崖下に落ちているとはすぐには思いつかないのではないか。

 思い、岸部はもう一度雨宿りから出ようとした。

 だが激しくなる一方の雨脚を見、すぐに気が萎えて再び壁面に背を預けてしまう。

 参ったな……水や食料なんて持ってきていないぞ。

 山菜はとうに谷底で、一応水に関しては、今も次々と天より注いでいるが……。

「っ……」

 岸部は、無言で眉間に深い皺を寄せた。何とも奇妙な感傷である。

 それは理性的に本能的に何とかこの状況を生き延びようとし、ろくに動かせぬ脚の代わり

に思考を巡らせているのに、その一方で同じように「もういいや」と自棄になりつつある自

分がいるのを自覚し始めたからだった。

 考えてもみろ。

 こんな状況になってしまった以上、穏便に事が運ぶとは思えない。

 捜索隊、のようなものが招集されるのではないか。人が物が、動くのではないか。

 以前にも何度かテレビの前でやり取りを観た記憶がある。まさか自分もこんな目に遭うと

はつゆも思わず哂っていた記憶がある。


 “助かったとしても、先ず皆に謝らなきゃいけないって空気があるだろ?”


 “人命云々よりも所詮はカネなんだ。どいつもこいつも迷惑を被るのは嫌なんだよ”


 酒の勢いも借り、知ったかぶった顔でそう吐き捨てていたあの時の自分を思い出す。

 後悔しても時既に遅しだが、愚かな唾棄であると思う。

 物事を額面通りに捉えるだけの者は、馬鹿だとさえ思っていた。

 どうせ世の中は、人間ってのは、もっと陰湿で感情的で……。

 だからお互いへらへらと笑いながらも、腹の底では一体何を考えているかなんて分かった

もんじゃない。まだ直接嫌味を言ってくれた方が──結局不快な思いをする事になるが──

事実それがあったと一応区切りを持たせることはできる。

 嗚呼、これでまた妻や子らに白い眼で見られるのだろうな。岸部は谷間に独り在って声に

ならない嘆息をついた。

 今や世間の父の常とはいえ、自分もまた家庭はとうに冷め切っている。

 稼ぎが足りない、気が利かない云々と何かにつけて難癖を付け、邪険に扱ってくる妻。

 息子はミュージシャンになるんだと言って街に出てしまい、ふらっと帰って来たかと思え

ば金の無心が大抵の目的。

 それに比べれば娘はまだ真っ当に働いてはいるが、素直で可愛かったあの頃はどだい幻で

あったのか、今では顔を合わせることすら避けられる毛嫌いっぷり。

 ……なんだ。別に俺がいなくたっていいじゃないか。

 フッと岸部は思い、馬鹿馬鹿しくなった。色々なことが矮小にみえて堪らなかった。

 至近距離から泥をぶちまけられたかのような、面倒臭さや厭気。どうせ自分はカネを持っ

てくる巾着程度でしかなく、額が即ち自身に与えられる価値とイコールとさえ為る。

 そうだよな……。それにもし救助ヘリなんかが出てきてみろ。命が助かったとしても、後

で冗談で済まされない額を請求される。そうなれば果たして生き延びて良かったのかすらも

怪しいものだ。

 身内だけじゃない。

 もしかしなくても“税金でのうのうと帰って来た男”などと近所連中に揶揄され陰口を叩

かれ続けるのではないか? 命が助かった分だけ儲けもの……と笑って済ませられるのか?

「……はは」

 岸部は誰にともなく、人気の無い山野の中で一人笑った。哂っていた。

 どうせ戻れど“幸せ”じゃない。そうさ。そうとも。

 ならばいっそ、このまま此処で朽ちてしまってもいいんじゃないか。精々呪いを掛けられ

た気分で骸の自分を見つければいい……。

 胸奥から湧き出た疑心という名の汚泥は、気付けばあっという間に彼という凡夫を包み呑

み込もうとしていた。最初は眉根さえ顰めた筈なのに、もうその暗がりに抗うことすら面倒

臭くなっている自分がいる。

 人間の群れの中にいるよりは、まだ自然の中こっちのほうがマシかもしれない。

 そう力なく哂い、すっかり強くなった雨音にそんな声量も掻き消され、手の中の携帯を放

り投げようとして──手が止まった。

「……」

 岸部は捨てられなかった。まるで、泥の中から伸ばされた別の手が足を取るように。

 手の中で揺れていた。携帯に結び付けられていた、ブサイクな猫のストラップ。


『──だからさぁ。親父も携帯ぐらい持ってないと不便だろって』

『それはどうせ、兄さんがお金を借りる時に都合がいいからでしょ?』

『ばっ、ちげーよ! 時代は常に変化してるんだ。このまま置き去りにしていいのかよ?』

『……何気に言葉を選んでくるわね。まぁ、不便とか乗り遅れってのは認めるけど……』

 そうだった。この携帯は、思えば子供達が選んでくれたものだった。

 実際のところ動機は不純だったのかもしれないけど、面倒臭がる自分の背中を押し、今時

の機械などさっぱりな自分にあーだこーだと言いながら、中高年向けの簡易版……なるもの

を選んでくれたのだっけ。

『あーもー! だからここを押すんだって。受話器のマークが書いてあるだろうが』

『ほら、そう教える側がカッカしない! ……はい、父さん。これ』

『……何だこれは。紐?』

『ストラップって言ってよ。私のぶーちゃんグッズ、一つあげる』

『ぶーちゃん? ああ、俺も聞いたことあるな。ぶっさいくな猫──んぎゃぁ!?』

『何も知らない奴がぶーちゃんを語るなぁっ!』

『痛つつ……。本当の事を言っただけだろうがよ』

『不細工じゃないわ。ウザ可愛いの』

『……どっちにしろ似たようなモンじゃねーか』

 ちょうど夏休みの時期だった所為もあったが、珍しく息子も娘も帰って来ていて。その時

にふとした切欠で持つ事になって。

 不器用だが、他人に対し面倒見が良いのは小さい頃と変わらないなと思った。

 普段は常識人な娘なのに、自分の好きなものとなると、相変わらず変わった感性で……。


(いかんな……。どうかしていた)

 岸部の全身から、汚泥が流れ落ちる錯覚が奔った。

 何も全部が全部、誰も彼も信じられないなんてこともなかろうに。つい疲労と嘆きに任せ

て取り返しの付かない惰性に流れ切ってしまう所だった。

 壊れてしまった携帯を丁寧に懐にしまい直し、岸部は再度身を掻き寄せながら、雨宿りの

崖の中でゆっくりと目を閉じ始めた。

 今は待つとしよう。

 止まない雨は──ない。



「──岸部さーん!」

「いたら返事してくださーい!」

 それから、どれだけ時間が過ぎただろう。

 次に岸部の意識を覚醒させたのは、そう聴覚を刺激してくる複数の男達の声だった。

 またもやぼんやりとして寝惚け眼を擦り、縮込めていた身体をゆっくりと伸ばす。

 脚は相変わらず思うように動かなかったが、最初の時のような朦朧とした心地は思いの外

早く霧散していくのが分かる。

 ……雨が止んでいた。あれだけどうどうと降っていた雨模様も、今は天のあちこちで雲に

風穴が開き、そこから次々と眩しいほどの光が差し込んでいる。

 明るい。という事は、知らぬ間に一晩眠ってしまっていたのか?

「岸部さーん!」

 だが、あまりぼうっとしてばかりはいられなかった。

 先程の声が近付き、大きくなっていた。

 他ならぬ自分を呼んでいるのだとしたら、彼らは十中八九捜索隊である筈だと理解する。

「……こ、こっちです。崖下の凹みにいますっ!」

 思った以上に喉に力が入らない事に内心驚いたが、それでも岸部は応えるように叫んだ。

それまで背を預けていた壁面から身体を引き摺り、彼らに見つけて貰えるようにあの崖の突

き出した部分まで移動する。

「──ッ! いた、いたぞ!」

 程なくして、何度か声を掛け合った末に隊員らしき男性の一人が自分を見つけてくれた。

 その報せを受け仲間ら駆けつけてくるのが頭上に見える。彼らは最初何やら話しているよ

うだったが、やがて隊員の何人かが身体に金具と太く編まれたロープを装着すると、仲間達

にフォローされつつこちらに降下し始める。

「そこを動かないでくださいね! すぐに助けに向かいますっ!」

 隊員らが言うように、どうやら自分を吊り上げる用の担架も降ろしているようだ。

 岸部は何度か頷き、一応脚を折ったらしいとの情報も伝える。彼らは「分かりました」と

心持ちより真剣な表情になっていた。

 こんな自分の為に、そこまで生真面目にならなくても……。

 フッとまた汚泥が胸元を掠めたが、今度は陥らない。少なくとも誠実であろうとする相手

に真っ先に不信で応えるなんて、人としてどうかしている。

「……」

 くたばらずには済んだか。岸部は思い、苦笑交じりに哂う。

 さてはて、家に帰ったら妻にどんな大目玉を喰らうだろうか? 暫くはご近所さん達への

対応に手間取らせてしまうなぁと、今から既に予想できてしまう所が歯痒く思う。

 子供達は……まぁ、いつも通りの二人だろう。流石に何も連絡や顔出しがないといじけて

しまいそうだけれども。

 岸部はそっと空を仰いだ。

 それほど晴天という訳でもないのに、いつになく眩しく感じる。歳を取って感傷的になっ

たのかなと内心でまた苦笑するわらう。だが不思議と嫌な気分にはならない。 

 隊員らがロープで眼前まで降下してくる。

 彼らを見上げたその表情かおは、そっと差し込む陽のように穏やかだった。

                                      (了)

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