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週刊三題  作者: 長岡壱月
Train-9.December 2012
43/500

(3) ココロネイロ

【お題】風、歌手、最高

 季節は秋から冬に移ろうとしているのに、彼女の周りだけは温かな陽だまりが差している

かのように思えた。

 校舎のあちこちに足を運んだ末、巧はこの幼馴染の姿をようやく部活棟の屋上に見つける

ことができた。

(……やっぱり、ここだったか)

 クラスにもいない、出没先である図書室や音楽室にもいない。

 となれば、彼女はこのいつもの一人ステージにいる。そう、長い付き合い故の経験は自分

に程なくして正解の居場所を導き出してくれる。

「~~♪」

 彼女は歌っていた。屋上の真ん中で、一人澄んだ歌声を奏でている。

 巧は暫く、半開きになったドアの横でその後ろ姿を、横顔をぼうっと眺めていた。

 “はぐれ歌姫”。

 いつしか学園の生徒達の間で呼ばれるようになった、そんな二つ名を思い出す。

 確かに歌姫、その名に彼女はふさわしいと巧は思っていた。

 本人の性格は大人しく、滅多に大勢の前で歌声を披露することはないが、こうして人気の

ない場所で時折こっそり歌っていることを巧は知っている。

奏乃かの……)

 冬の寒さを混じらせた風が吹いていた。

 それでも彼女は穏やかに、気持ちよさそうに歌っている。風でふんわりとしたセミロング

の髪や制服の袖、スカートが折につけて揺れる。

 ──元々、彼女はごく普通の女の子だった。

 ただ少し環境が後押しをした、それだけだ。

 自分の母は副業でピアノ講師をしている。故に自分も、当時から何かと自分にくっついて

きた奏乃も、幼い頃からその手ほどきを受けてきた。

 そんな経験もあって、今でも自分は趣味程度にしばしば鍵盤を叩いている。

 だが……奏乃の方は違った。期せずして音楽と出会ったことが、後の人生に大きな影響を

及ぼす結果となる。

 才能があったのだ。母が驚愕するほどの、澄んだ歌声、歌唱の素質が。

 母はすぐに、この息子の幼馴染に楽器よりも歌唱のイロハを伝授していった。彼女も彼女

で、当時から“純粋”であって、どんどんその教えを吸収した。

『うんとね……風が教えてくれるの。この人が今嬉しいのか悲しいのか、そういうの』

 以前、何故ここまでの才能があるのだろう? そう思って当人に訊ねてみたことがある。

 すると彼女が答えたのは、そんな妙に曖昧なもの。

 これは後々の自分なりの解釈だが、彼女のいう“風”とはおそらく相手が知らず知らずに

発している感情──雰囲気のようなものなのだろう。

 だからこそ、彼女の歌声は他人の胸奥に届く。半ば無意識の内に。

 だからこそ、彼女はそこに踏み込めてしまう。半ば無意識の内に。

「……?」

 そうして思わずぼうっと聞き惚れていると、ふと歌声が止んだ。

 ゆっくり振り返った少女の、奏乃の視線。そしてその眼が「や、やあ」と苦笑する巧を認

めるや否や、彼女はぱあっと明るい笑顔をみせる。

「あ、たっくん。も~……何処に行ってたの? HRホームルームが終わって覗きに行ったらいないん

だもん」

「ご……ごめん。ちょっと呼び出しをくらってて」

 ドアを後ろ手で閉めて歩み寄っていこうとする。

 だがそれよりも早く、奏乃は巧の至近距離まで詰めて来ていた。

 冷やっこい風の中、鼻腔をくすぐる妙にいい匂い。ほんわかとした彼女の声色。

 巧はついつい男の性に引っ張られつつも、そう努めて平静を装おうとする。

「……その、教頭先生から伝言だよ。また例の社長さん達が来てる。すぐに校長室に来てく

れって」

 そして伝えた、ここまで足を運んできた用件。

 すると、それまで笑顔だった幼馴染の表情かおが明らかに暗くなった。

 戸惑ったように、煮え切らないように、眉を下げてそっと視線を外す。

「やっぱりあの人達だったんだ。……見てたよ。裏の駐車場にあの黒い車が来てたから」

「……。そっか」

 二人は屋上から見下ろせる、学園の敷地の裏に設けられた駐車スペースに眼を遣った。

 そこには一台の、どう見ても教職員の物ではない、黒塗りの高級車が停まっている。



 事の発端は、季節を少し遡らないといけない。

 当時、巧たちの通う学園は来たる文化祭の準備期間の中にあった。

 クラス単位や部活単位。それぞれに出し物が決まり、徐々に準備を本格化させる時期。

「──え? 奏乃を?」

 そんな中で、巧は思いがけず顔見知りの同級生らにその頼まれ事をされようとしていた。

「ああ。知ってるぜ、芹沢ってすげー歌上手いじゃん? だからうちのボーカルをやってく

れると絶対ウケると思うんだ」

「お前幼馴染だし、懐かれてるし、お前から頼んでくれればオーケーしてくれるんじゃない

かと思ってよ。な? 頼むよー」

 よくある前者の括りでの出し物に加え、この学園には有志枠というものがある。

 その名の通り、クラスや部活という垣根を越えた、有志によって企画されるブースのこと

で毎年(いい意味悪い意味でも)祭りを盛り上げるトリックスター達だった。

 本来なら「好き者の馬鹿騒ぎ」と去年と同様傍目に見るだけのつもりだったのが、今回は

何と参加して欲しいとのオファーがあったのである。

「う~ん……。そう言われてもなあ……」

 正直、巧は乗り気ではなかった。

 自分を取り囲んでくる知り合い曰く、バンドをやりたいらしい。そこでボーカルを、密か

に評判となっている歌姫・我が幼馴染に起用することで梃入れしたいのだと。

 だが、さて自分がこの頼みを受けて話した所でうんと言ってくれるとは思えなかった。

 彼女はあまり活発な子ではない。実際、人前で歌うのを恥ずかしがって自分がピアノを弾

いている時にひょこっと参加してくる、その程度のものだ。

『…………』

 何よりも、そんな“目立つこと”をして彼女がまた苦しい立場になるのは避けたかった。

 突き刺さっているのだ。

 先ほどからずっと、周りの女子からの──敵視をひしひと感じている。

 それに自分が気付けたのはいつの頃だったか。しかし間違いなく、我が幼馴染は少なから

ぬ同性から疎まれているらしい。

 確証はない。だがそれはおそらく彼女の“風”を感じる才覚に起因しているのだろう。

 女とは、男よりもずっと裏表の激しい生き物だ。

 ある場面では仲良くしていても、当人がいなければ平然と踵を返したように毒を吐ける。

 よく言えばその場その場での空気を読めると言えるし、悪く言えば本音と建前が激しいと

も言える。

 だが……彼女にそんなものは無かった。無意識ながらも、彼女は“風”を感じてしまう事

で彼女達の本音を嗅ぎ取ってしまえるからだ。

 故に、疎まれる。

 集団を容易く壊してしまう、所謂“空気の読めない”奴だとして。

 知られたくない本音に踏み込まれる心地になるのだろう。次第に彼女は同性のグループ群

から少しずつ、しかし確実に弾かれていったように思う。

 はたして当人にその自覚があるのかは、分からない。

 だが……自分の所為でこの現実に拍車を掛けるような真似は、出来ればしたくなかった。

「私が、何?」

 しかし当の奏乃本人は、何故かこの時妙にアグレッシブだった。

 何と応じておこうか? そう巧が思案している中でちょうど姿を見せる──クラスに顔を

出しに訪れると、無言のまま強められる女子達の敵視にも反応せずひょこっと巧達の輪の中

に入ってきたのだ。

「あ、奏乃。えっとね……」

「ちょうどよかった。なあ芹沢、今度の有志枠で俺達とバンドやらね?」

「ボーカルやってくれないかなあ? 芹沢が加わってくれれば百人力なんだけど」

 それとなくこの場から遠ざけよう。そんな巧の思いとは裏腹に、奏乃の姿を認めると面々

は今度は直接当人を口説きに掛かっていた。

 案の定、彼女はぽかんとしている。人前で歌う、その内容にほうっと顔が赤くなる。

「……。それって、たっくんも出るの?」

「えっ?」

「……たっくんも一緒なら、いいよ」

 だがそれ以上に印象的──驚いたのは、彼女が条件付きながら受諾したことだった。

 何か勘違いされている? 巧はすぐに繕おうと、自分はあくまで相談されていただけだと

言おうとしたのだが、

「マジで? やったあ! ありがとう、助かるよー」

「へへっ、これで今年のMVPは頂きだな。早速準備しねぇと」

「んじゃあ菅野も参加ってことで。ピアノやってるんだし、キーボードでいいよな?」

「あ、えっ、ちょっ──」

 時は既に遅く。皆は早速、自分を巻き込みながらその気になってしまう。

「……本当にいいの? 恥ずかしくない?」

「う、うん。大丈夫って言ったら嘘になるけど……たっくんも一緒なら、多分平気」

「そ……そっか」

 だから巧は、それ以上話を断つことができずに終わった。

 顔見知り達の勢い、それ以上に、自分を頼ってくれる彼女のはにかむ微笑みに思わず言葉

を失って……。


 結論から言って、ステージは大成功の内に幕を閉じた。

 今までは比較的クローズドな所で歌っていた彼女だったが、やはりあの歌声は多くの人々

からみても胸を打つものだったらしい。

 澄んだ歌声に驚き、呆気にとられたギャラリー。その後のスタンディングオベーション。

 舞台の上で、彼女は頬を赤く染めながらはにかんでいた。

 恥ずかしがり屋とはいえ、音楽とは元より他人に開いてなんぼの性質である。自分の歌が

評価された、その眼前の反応も加わって彼女の頬は朱を帯びたのだろう。

 その音楽の才で、少しでも彼女の今の環境が好転してくれれば……。

 同じ舞台の片隅でキーボードを叩きながら、巧は思い直し抱いていた希望が叶うかもしれ

ないと思った。この時はそんな安堵や高揚感を、彼女と共有できれば充分だと思っていた。

 ──しかし文化祭から数日後、事態は思わぬ方向に転ぶことになる。

 何と、とある芸能事務所からオファーが来たのだ。何でも学園のOBでもある社長が偶々

今回のステージを観に来ていて、彼女の才能に惚れ込んだらしい。

『是非うちの事務所からデビューしてみないか? 君なら最高の歌姫になれる!』

 そんな誘いがあった、その情報は程なくして学園に広がり、奏乃は一躍有名人になった。

 でも、当人はすぐに返事を出さなかった。

 当然だろう。あのステージは、何を思ったのか彼女が気まぐれで参加したに過ぎない。当

日も恥ずかしさと闘いながら歌い上げたのを、自分はすぐ近くから見ている。

 学校行事ですらあの様子だったのだ。……いきなり衆人の眼に晒されるとなれば、彼女で

なくとも戸惑うであろうことは想像に難くない。


「──菅野巧君ね?」

 巧がそう、よく利用する近所の商店街で声を掛けられたのは、奏乃にオファーが来てから

数日が経ったとある休日のことだった。

 急に名を呼ばれて半ば反射的に振り返る。

 そこには黒フレームの眼鏡をしたスーツ姿の女性が立っていた。

「……貴女は、確か」

 巧は、その人物に見覚えがあった。

 自身も関係者として──というより緊張してついて来てくれと奏乃の頼まれ──交渉の場

に加わった際、事務所社長と共にいた取り巻きの一人だったと記憶している。

「何でしょう? 幼馴染そとぼりから埋めようってことですか」

「ご挨拶ね。そう警戒しないで、今日は私の個人の為に君を捜していたの」

 巧は静かに眉根を寄せた。

 彼女の口調は意識的に柔らかくされていたようだったが、大事な幼馴染を困らせる者はた

とえ大人であろうとおいそれと打ち解ける気はない。

「……僕をあてにしない方がいいと思いますよ。僕はあくまで奏乃の味方です」

「ええ、それは分かってるわ。今までの貴方の接し方を観ていれば、ね」

 しかし巧がそうして警戒心をみせても、彼女は一向に怯んだりする様子はみられない。

「少し時間をくれないかしら? 立ち話も何でしょう?」

 結局そのまま、二人は近くの喫茶店に入った。

 互いに表情は硬く、本音の読み合いが続いている。

 もしこの場に奏乃がいれば、もっと違った雰囲気になったのだろうか……?

 そんな事をふと頭の片隅に過ぎらせながら、巧が珈琲と洋菓子の注文を受けて去っていく

ウェイトレスの後ろ姿を見送っていると、先ず向こうが口を開いてきた。

「一度挨拶はしているけれど、一応しておくわ。私は黒崎、鳴子プロでマネージャーをやら

せて貰っている者よ」

「存じています。……それで一体、僕に何の用ですか? さっきも言いましたけど、僕は貴

女達の間を取り持つ気なんてないですよ」

「随分と喧嘩腰ねえ……。それだけあの子が大事?」

 渡された名刺を申し訳程度に受け取り、ポケットに捻じ込み急かしても、対する彼女・黒

崎は一見悠然としていた。大人の余裕という奴なのだろうか。

 煽られている……。

 巧はその問いには答えなかったが、どちらにしろ沈黙は雄弁な肯定として彼女に受け取ら

れたらしい。

「質問はシンプルよ。貴方と彼女──奏乃ちゃんはどういう関係かってこと」

「? どういう……?」

 最初、巧は何を言われているのかピンと来なかった。

 すると黒崎は「やはり」と言わんばかりにフッと口角を吊り上げ、続ける。

「要するに交際しているのってこと。男女の関係までいってる? そう訊いてるの」

「~~ッ!? し、してませんよそんなの! ぼ、僕はただの幼馴染で……」

「ふぅん……?」

 身体中の熱が一気に沸き立つ錯覚がした。瞬間、脳裏に何かと自分を頼ってくる彼女の笑

顔が再生される。

 黒崎はにまりと笑っていた。そして同時に安堵したような、もう一段階緩くなった表情を

みせて言う。

「ならいいのよ。始めから彼氏持ちのアイドルってのは、やっぱりそれだけ不利だから」

「……」

 巧はあからさまに、遠慮など考える間もなく不快な顔をした。

 まだ本人が頷いていないのに、そんな“身体検査”をしようとしているのか。

 そして何よりも、彼らが既に彼女を「商品」として見ていることに巧は苛立つ自分を抑え

切れなかった。

「奏乃の人生は奏乃のものです。あんた達のものなんかじゃない」

 お冷のコップを握り締め、それでも怒りに任せて叫びそうになるのを必死に堪える。

 しかし黒崎は動じなかった。むしろそんなこの若者を哂うような、試すような、そんな眼

差しを向けつつ目の前で両手を組み、言う。

「言うじゃない。でも……それは貴方の本心なのかしら? 私には、貴方達は随分べったり

しているようにみえるのだけど。頼り頼られることでお互いに居場所を作っている、そんな

感じ」

「……ッ!?」

 自分の何処か奥深くで、ビシリと大きなひび割れが起こるような感覚に襲われた。

 観られている。たかが数回居合わせただけで、この女マネージャーは自分達の頼り頼られ

の関係性を見破っている──。

「できれば、私としては無理強いはしたくないわ。でもね? 実際うちの社長がかなり乗り

気なのよ。うちはそう大規模な事務所じゃないから、尚の事あんな逸材を見つけられて興奮

しているってのもあるんでしょうけど……」

 巧はぐわぐわと揺さぶられる意識を何とか引き寄せながら、黒崎の語る言葉を呑み込もう

としていた。

 確かに奏乃の才能は目を見張るものがある。それは長年一緒にいた自分も認める所だ。

 だが……いいのか?

 いい訳がない。当人の意思も分からないのに、周りが勝手に持ち上げしまうなど。

「だからこのまま曖昧な返事を続けられも困るのよ……。懐柔しろとはまで言わないけど、

早い段階であの子自身の意思をはっきり社長に伝えた方がきっとお互いの為になるわ。私は

できれば、貴方にその手伝いをして欲しいと思ってる。恋人じゃなくても、貴方が彼女に信

頼されているのは間違いなさそうだから」

「……」

 しかし一方で、もっと環境を変えてしまえばという思いも過ぎっていた。

 彼女に指摘されたから、ということもあるのかもしれない。

 たが、今の自分は間違っているのではないかと、そう思い始めていた。

 才能が故に疎まれる。そんな幼馴染を“護る”ことで、己を慰めている自分がいる。そう

いった関係は、彼女を騙しているというか、高慢であるというか。

 だからいっそ、彼女が望みさえすれば、背中を押してやるべきではないか? 一度この機

にお互いの距離を取り直すべきなのではないか?

 そんな思考が、悶々と脳裏に過ぎり始めてきて──。

「お待たせしました~」

 実質数秒、しかし長く長く降りた沈黙の中を、何も知らないウェイトレスがやって来た。

 珈琲とショートケーキが二人分。巧と黒崎はお互いに言葉少なげになったまま、カップや

フォークに手を伸ばす。

「……本当に彼女のことを想うなら、急いだ方がいいわ。これは、私個人からの助言よ」

 ミルクだけを注いで軽く一口。黒崎は言う。

 だが巧ははっきりと返事もできず、ただ黙って俯いているだけだった。



「──やっぱりさ。デビューするなんてのは、恥ずかしい?」

 ここ数日の記憶が一気に頭の中を駆け抜けていった。

 巧はずっと遠くを見遣ったままの奏乃に、そうおずっと確認するように訊ねてみる。

「……うん」

 たっぷりの逡巡。しかし彼女はゆっくりと首を縦に振っていた。

 嫌か、ではなく恥ずかしいか。寸前で訊き方を変えてよかったと巧は思う。

「だったら、その通りに社長さん達に伝えた方がいいと思うよ? 僕もついてるから一緒に

断りに行こう?」

 そして彼女に告げ、その手を引こうとした、次の瞬間だった。

「──」

 ぽすんと、胸元に飛び込んでくる柔らかい感触。いい匂い。

 ハッと気付けば、奏乃の小柄な身体が巧をがしりと正面から抱きしめていた。

 思わず目を見開いて言葉を失い、動けなくなる。

 だがその中でも、巧には確かに見ていた。……彼女が、自分の胸板に顔を全身を押し付け

ながら肩を震わせるさまを。

「違うの……」

「え? 違うって、何が……?」

「……分かんないの。社長さん達の誘いを、本当に断ってもいいのか……」

 麻痺したように両手が震えている。

 そっと彼女を抱き返そうかと思った。だがこの時はそんな勇気が持てず、ただ彼女のくぐ

もった言葉に巧は眉根を寄せるしかない。

「でも、恥ずかしいってさっき……」

「うん……恥ずかしいよ。でも同じように嫌かって言われると、ちょっと違うっていうか」

 ぼそぼそと、奏乃の声は弱々しい。

 だが巧には、少しずつ分かってきたような気がした。

「……私、知ってるよ。風の言ってる通りに暮らすと、嫌な思いをする人がいるってこと。

たっくんがそんな人達から私を守る為に、今までいっぱい頑張ってくれてたこと」

 胸奥を衝かれたようで、息を呑む。

 だがよくよく考えれみれば、全く気付かれていない訳がなかったのだ。

 “風”を──相手の纏う感情を嗅ぎ取れてしまう。それは何も実際に対面している相手だ

けに留まらない。

 何気なく視線を向け、或いは通り過ぎるだけでもその直感が働いているとすれば、とっく

に彼女自身も自分に向けられる敵視には気付いていた筈なのだ。

 当然……かねてより自分を守ろうと密かに心を砕いていた、目の前の幼馴染に対しても。

「私はずっと甘えてたの。たっくんが守ってくれる、一緒にいてくれる、それが嬉しくて。

だけど、見てみぬ振りは辛かった……。私に気を遣ってくれる度に、たっくんから苦しいっ

て風が吹いてくるから」

 ぎゅっと、奏乃は巧の上着を握っていた。同時にじわりと、頬に大粒の涙が伝わり出す。

「だから私、もっとしっかりしなくっちゃってずっと思ってた。たっくんが傍にいなくても

大丈夫な子にならなくちゃいけないって。でも中々上手くいかなくて、ついたっくんに甘え

ちゃって……。だから文化祭でバンドをやるって話を聞いた時、恥ずかしかったけどこれは

チャンスかもしれないって思ったの。普段やらない事をやってみれば、少しは私も変われる

かなって思って……。実際、あのステージは楽しかったし……」

「……そう、だったんだ」

 巧は小さく唸るように呟いていた。

 彼女もまた、変わりたいと願っていたのだ。

 だからあの時、彼女は妙にアグレッシブに──勇気を振り絞ってその一歩を踏み出そうと

したのだ。

「でもこんな事になって、私、分かんなくなっちゃったの。もしあの誘いを受けてデビュー

したら、私はきっと変わることになると思う。でもそうしたら私、これからずっと自分に嘘

をついて生きていかなきゃいけなくなる……」

「嘘……?」

「……たっくんだよ。芸能界むこうに行ったら、たっくんが遠い人になっちゃう。それを想像した

ら、私……凄く、怖かった……」

「──ッ!?」

 巧は全身が一挙に沸騰するかのような錯覚に襲われた。

 同時、彼女の握ってくる力と震える肩、こぼれる涙は瞬間限界を超え始める。

「やっぱり駄目なの。私、たっくんがいてくれないと不安で潰れちゃう……。ずっと一緒に

いたい……。でもそんなことを言っていたら今までと何も変わらないし、たっくんに嫌われ

ちゃうんじゃないかって思って……。もう、どうしたら……っ」

 じわりと俯き加減になって、巧はパクパクと口を開けていた。

 自分はとんだ大馬鹿者だ。自分のことばかり考えて、こんなに傍にいた彼女の苦悩をちっ

とも汲み取ってあげられなかったじゃないか。

「……嫌うもんか」

 だから、いや殆ど本能的に巧は呟いていた。

 一度は戸惑った手も、今なら、今こそ彼女を包み返すべきだと思った。

 ぎゅっと抱き締めていた。こんな自分のことを、泣き出すほどに慕ってくれる幼馴染の不

安と誤解を少しでも埋めようとするかのように。

「ごめんね……奏乃もだったんだね。僕もだよ? 僕も迷っていたんだ。今までずっと、僕

は奏乃を守ることが自分の役割だと思ってた。でもそれって単に自分の我がままじゃないか

って不安になっちゃって…。今回の件で奏乃が誘いを受けるって決めたら、僕はそのまま

距離を置いてしまおうかって考えてたんだ」

「!? たっく──」

「でも分かった。そんなの、結局僕の我がままなんだ。近くにいようとするのも離れようと

するのも、肝心の相手を全然考えてないんだもの」

 ごそりと彼女が泣き腫らした顔を上げてくるのが分かった。

 胸元の中の小さな身体。でも今ははっきりと感じられる。……彼女が、愛おしい。

「無理しなくってもいいんだよ。奏乃が一緒にいたいって言ってくれるなら、僕も喜んでそ

うする。デビューしようがしまいが、僕も一緒にいるから」

「たっくん……」

 そして二人は至近距離で見つめ合った。

 傍にいたのに、見えなかった溝。

 だけどそれも埋まったと思う。ちゃんと言葉にして誠を尽くせば、きっと質量をもつ。

 どちらからともなく、二人は互いの顔を──。

「あらら。結局そうなるんだ?」

「ッ!?」「ひあっ!?」

 だが残り数センチの所で、突然そんな声が降ってきた。

 思わず二人は反射的に飛び退き合い、いつの間にか半開きにしたドアの前で笑っている黒

眼鏡の女性──黒崎や例の社長らの姿を認める。

「……い、いつからいたんですか」

「う~ん? 奏乃ちゃんが君に抱きついた辺りかなあ」

 それ、ほぼ最初からじゃないですか。

 巧は羞恥のあまりに絶叫しそうになったが、そこは何とか抑えた。一方の奏乃の方もつい

さっきまでの幼馴染──恋人と交わしかけたものを思い出し、顔を真っ赤にしてその場で俯

いてしまっている。

「……私の言った通りだったでしょう? あの子を口説くのは難しいですよって」

「そうらしいな。見逃すには惜しい才能だが、仕方あるまいか……」

 言って、黒崎の言葉に社長もまた呟いていた。

 ねちっこかった商売人の眼は、心なしか一人の中年男性としてのそれに為っているような

気がする。巧と奏乃は、互いにそんな事態の変化についてゆけず、共に頭に疑問符を浮かべ

て顔を見合わせた。

「すまないね、芹沢くん。私達の勧誘がそんなにも君を苦しませていたとは。……私は身を

引くよ。君は思うままに生きるといい。彼と、幸せにね」

「あ、いや、社長さん。それはちょっと気が早──」

「……? あの、私まだ断るって言ってませんけど……」

「へ?」『はい?』

 だが次の瞬間、巧を含めた全員が驚愕することになった。

 間抜けな疑問符に重なる怪訝。そんな彼らに奏乃はちょこんと小首を傾げつつ言う。

「デビューのお話、受けます。但したっくんも一緒に」

「えっ? 何で僕……?」

「だって……さっき“デビューしようがしまいが一緒にいる”って言ってくれたじゃない。

だからもう心配することは無いかな~って」

「無いかな~って……。いや、え? それって何? もしかして、僕がついてれば話を受け

るかどうかは別に重要じゃなかったってこと?」

「そうだよ? 大事なのはたっくんが一緒かどうかだもん。ただそれが難しいんじゃないか

って思ったから中々お返事ができなかっただけで……」

 この言葉には、流石の黒崎もポカンとしていた。

 しかしややあって、彼女は腹を抱えてからからと笑い出す。

 そんな笑い過ぎて涙目になる彼女を、社長が巧が、イマイチついてゆけずにぼんやりと見

遣っている。

「あはは……っ、何それ? 私達の取り越し苦労ってこと? ふふっ、でもまぁ結果オーラ

イならよしとしましょうか。よかったですね、社長? 歌姫確保ですよ。専属騎士君ももれ

なくついてきますけど」

「あ、ああ……」

 巧は暫し状況を理解するのに時間を要していた。

 だが黒崎が社長に語る言葉、何より奏乃のそれが決定的なものであるのは明らかだった。

 ──自分も、彼女と一緒にデビューする。

 確かにそれなら一連のゴタゴタも可能な限り角を立てずに収まり、自分達二人の懸案も解

決できる選択肢ではあるが……。

「ふむ……。そうなるとアイドルではなく、もっと洗練されたユニットとして売り出す方が

賢明かもしれなんな。菅野君といったね? 君は確かキーボードをやっていたが……」

「あ、はい。一応五歳からピアノをやっていますので……」

「そうか。ならば君が伴奏で彼女がボーカル──うむ。これでいこう」

「だとすれば、売り文句は“実力派幼馴染デュオ”──みたいな感じでしょうか」

 そんな間にもどうやら話は、社長達の構想は膨らんでいるようだった。

 参ったな……。奏乃と一緒にいられるならとは思うが、自分のような趣味レベルがプロを

名乗っていいものなのか。

「……大丈夫、かな? 奏乃はともかく、僕のピアノは平凡だと思うんだけど……?」

「大丈夫だよ。たっくんが隣で弾いてくれるなら、これ以上心強いことはないもん」

 それでも彼女は、愛しい人は、何の躊躇いもなくそんな事を言ってくれて。

 二人はまたいい雰囲気になりつつあった。ほわほわ~っと、そんな擬音が出てきそうな見

つめ合いが再開されようとする。

「あ~……おほん」

 だが、今度もまた黒崎がそれと止める。社長も目まぐるしかった事態に追いついて、今は

彼女や随行の部下らと共に既に何処かへ連絡をさせているようだ。

「まぁ積もる話は一旦校長室に戻ってからにしましょう? 貴方達を追って来ちゃったから

校長先生たちを待たせたままだし。ただその前に一つ訊きたいのよね。ユニット名。何か、

貴方達の希望って……ある?」

 二人はどちらからともなく顔を見合わせていた。言葉にしなくても通じ合っていた。

 互いに頷き合い、彼らは黒崎達に向き直ると次の瞬間、その返答は寸分違わず綺麗にハー

モニーを奏でる。

『じゃあ──Neiroネイロで』

 それはあのステージの際に皆と話し合ってつけた、今日という理解と思慕が交わった日の

切欠となった、あのバンドの名前だった。

                                      (了)

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