(4) コンベア・ターム
【お題】部屋、砂、高校
いつだって、僕らは閉の中に生きてきた。
母の胎内、病院、家庭──この世界で初めて目を覚ましたその瞬間から、僕らは取り囲ま
れていた。全くの一人で在れたことなど一度もない。
望まれて生まれ、愛されて育つ。
そのことのいかに大切で、当たり前ではなくて、顧みてみれば何と空しいことか。
……だって僕らは“商品”なのだから。この世界を、人の世を人の世たらしめる構成員に
して要素なのだから。
詰まる所、僕らは良き歯車であらねばならない。そうなることを求められている。
だから僕らは育てられるのだ。少なからぬリソースを投じ、教育されるのだ。
閉から閉へ、更なる閉へ。僕らはステージを乗り越えるごとに移し替えられ、期待される。
歯車にとって必要なことを教え込む──刷り込む。言い方は他にもあるのだろうが、そう
いうことだと思うのだ。
幼年期。家庭から学校へ。試練の始まりだ。ここから何年にも渡って僕らは“商品”として
の価値を高められ、試される。
それぞれの家庭ににもよるが、少しずつ疎まれていく。それまではただの駄々も、我が侭
も許されていた部分があった。そのあどけなさが物心つく前の僕らの仕事であり、周りの大
人達もそうしたさまを愛でるのがスタンダードだった。許して笑うことが、彼らにとっても
僕らにとっても長い目で見ればプラスであると信じられてきた。
……尤も、このスタートラインにすら立てなかった同胞達もいる。愛でることよりも我が
侭な僕らを憎々しく思い、罵倒し、或いは拳を振り上げ、許せなかった大人達もいる。そう
なればしばしば、その同胞は零れ落ちたのだ。まだ本格的に試されるよりも前に痛めつけら
れ、文字通り叩き潰されて。
ただ、ステージを乗り越えていくことはある意味、そうした僕ら個々の「我が侭」を殺し
ていく過程に他ならない。自分を抑えても、歯車である所の一個たるべしとする。そうした
現実、歳月の切り替わりを受け入れられなかった者は、やはり零れ落ちる──不良品扱いさ
れてしまうのだろう。
一昔はとかくこっぴどく叱られた。今では色々な名前をつけられる。
しかし結局は零れ落ちた者という烙印であることには変わらない。最初のステージであっ
ても不良品な僕らは選別され、内心面倒と思われながら次のステージへ何とかもっていかれ
るのだ。今はまだ決めてしまうのは早い──惜しい。どのみち周りの思惑に、そういうシス
テムの中で辛うじて生かされながら。
童年期。学校への助走期間を負え、僕らは本格的に歯車になる為の教育を受け始める。日
がな遊び、食べ、眠るという奔放は徐々に許されなくなっていく。代わりにずらり並べられ
た机に座り、一定時間そこで講釈を聞かなければならない。
最初の問題は、その変化に強制に耐えられる者がどれだけいるかという点だろう。
勿論、じきに慣れてしまう者もいる。だけども中にはこの枠組みの中にじっとしておられ
ず、時間になっても歩き回り、喚く者もいるだろう。
……はたして、そんな同胞は一昔に比べて増えたのかどうか。
多分だが、その頃は多少力ずくでも押し止め、叱責していたのではないか。直接痛みすら
も受けて、ようやく彼・彼女は自分が“無敵”ではない──寧ろ真逆に近い最弱の存在であ
ることを薄々悟っていたのではないか。個人的な思いだが、色々な名前をつけられるように
なった現在の方が、その自覚をする瞬間・時期は遅くなりがちなのかもしれない。いわゆる
免罪符として働いてしまう作用もあろうものだからだ。それは、僕らにとっても大人達にと
っても、長い目でみれば不幸ですらあるのかもしれない。だって後回しになってしまうのだ
から。どうせ「お前は駄目だ」と弾かれるのなら、まだ早い方がやり直しも効くのではない
かと邪推してしまう。
ともあれ、この頃の僕らはとにかく「型枠」を文字通り押し付けられる。
僕らは未来の歯車だ。つまりは、適材適所の形に最終的にはなるとはいえ、ある程度統一
されねばならない。だから大人達はいつも僕らを観ている、聞いている。
この子はどんな“形”を思っているのだろう? そしてそれは私達の求める“形”とどれ
だけ一緒で、どれだけ違っているのか……?
故に大人達は先ず、僕らに鋏を入れることから始まった。求める形にそぐうように、机に
並べたその浮かんだ想いに直接、手を加える。
『では、この人は何と思ったでしょう?』
『○○!』『△△!』『□□!』
『はい。□□です(こういう時は□□だと思いなさい)』
例えばこういう時、○○や△△と思い浮かべた同胞は、言われながらヂョキヂョキと彼ら
に鋏を入れられるのだ。全員の形が□□となるように、○○は丸みを削られ、△△は三隅の
角を切り取られ、整形される。
繰り返す。何度も繰り返す。
そうしていつしか、僕らは○○や△△の存在すら忘れていく。
少年期。六年、いや前段階を含めれば更に二・三年の歳月を費やし、僕らはようやく次の
ステージへと移行する。
真ん中に学ぶ。ここまで来れた僕らの多くは、おそらく机に座り、一定時間を過ごすこと
にも大分慣れてきた筈だ。すっかり教え込まれた筈だ。
……だがこのステージは、その移し替えられた途端に壊れていく同胞もまた少なくない。
単純に学ぶ量、質が共に上がっていくというのもある。或いはそれまで何かしら顔見知り
だった者の中に見知らぬ同胞も混じり出し、新しくなった環境に適応できない者も少しずつ
この頃を大よその端緒として目に見えて出てくるからだ。
明確に、不良品として扱われる。
今は昔、明らかに周りから“オカシイ”者は省かれた。閉の中にあってまた別の閉に隔離
され、互いに交わることすら珍しかった。ことこの頃の僕達は知識だって覚悟だってなく、
そんな彼らを同胞とすらみなしていなかったのかもしれない。
明らかな不良品に対してだけではない。同じ教室の中にいても、気忙しく自分とは「違う」
者を見つけては、パージし合った。一度目を付けられてしまえば逃げ出す術すらなかった。
何処に行こうというのだ? 閉じられたセカイである。今此処を、ただ唯一のこの場所か
ら否定されれば、それは即ち彼・彼女にとって死の宣告に等しいのである。
少しずつ、あぶれていく。
だがおそらく、多くの教室において、その事実は他の同胞達には知らされないだろう。知
らされないから解らないし、解かろうともしないから知らないのだ。一人、また一人と同胞
だった者が消えていく。だけども無邪気で、やっとこの閉の中で生きるのに慣れてきた僕ら
にとり、おそらくこの頃が辛うじて“最強”であれた限界だったと思う。
傷付き痛み、サァッと砂の塊が崩れるように消えていった同胞達がいる。
歯車として失格とされ、半ば密かにステージから下ろされた同胞達がいる。
だけども多くの僕らは知らなかった。知らされず、多くが知ろうとも考えなかった。
若年期。これより更に三年が経ち、いよいよ僕らは肉体だけは最盛を迎える。
だがもう多くの僕にとって、今が素直に“最強”だと思えなくなってくるのも、同じくこ
の頃だろうと思う。多感、そう言ってしまえば簡単だが、知るということは視界が広がる事
でもあるし、同時に望む望まぬに拘わらず多くを抱え込むことである。
歯車としての教育は、更に難しくなる一方だ。出会う同胞達も、別れてその後もう会わな
くなる者だっているし、出会うことで自らの道が大きく崩される悪運だってある。
もう、隠しても隠し切れなくなるだろう。
同じ教室の中で、一人また一人と誰かがボロボロと朽ちてゆき、その場へ崩れ落ちて見え
なくなる。
大人達の理不尽、同胞からの責め、或いはもっと内々のしがらみに痛み、そして……。
何度も繰り返された。大人達はその度に外に向かって頭を下げ、しかし彼らは内々でその
者を庇うし、現実「やった」側は生き残る。傷付き、砂のように力尽きて零れ落ちていくの
はいつだって「やられた」側だ。
それでも、僕らは必死に教室にしがみついた。
少年期の頃ほどそこが全てだとは思っていない。だが同時に此処から零れ落ちれば、自分
が遅かれ早かれ不良品になると理解するほどにはなっている。
現実への唾棄と、しかし陥ることへの恐れと軽蔑。両極端に触れがちな内側の天秤。
何故今になって? いや、そうなる素質は本来ずっと前にあったかもしれないのだ。それ
を大人達は、まだだまだだと言いながら先延ばしにし、少しでも自分達の面子が傷付かない
ように、歯車の候補生が目減りしないようにと目論んだ。
多感な頃合である。何故? が幾つかの同胞達の中に渦巻いていた。実際にその重圧にい
よいよ耐え切れず、いっそ崩れ去るのならその前に──暴走する不良品もまた現れる。
ようやくここまで、このステージまで来れても、何も安心材料などない。
貴方はどうだっただろう?
不安定な未来を、世界を知った心算になって、身体から砂が零れてはいなかったろうか。
青年期。このステージへ進む者もいれば、もう歯車として旅立つ者も出てくる頃だ。人
の世が定めた道筋とはいえ、更に分岐したそこへ僕らは往く。もう四年、或いはもう一年二
年と長かったり短かったり、猶予期間を貰いながら何とか自分の中で品質を高め、帳尻を合
わす日々が待っているのだ。
……さて、ようやくここまで来た。理不尽なまでに散々大人達に刷り込まれてきたものを
棄てろと言われたり、或いは何故持っていないんだと詰られたり。それでも何とか僕らは、
このステージを経て世の構成員になるのである。
色々だ。人も、物も、場所も。
寧ろこの先が本番であり、求められた肝心の部分であるとさえ言っていい。
さあ、歯車を回せ。今まで散々仕込まれたその形を回して回して、あいつらの要請に応え
てやるのだ。
……でも、それが一体何であるというのだろう? 今までただ教え込まれ、刷り込まれ、
その意味を考えることすら益体のないものと不良品への道だとすら詰られてきたが、この本
番というステージに上ったことで、僕らは何処へ向かっていくのだろう?
大人になる前に、青年期にも聞き齧っていたことだ。僕らは究極の所消耗品で、これまで
どれだけの学びを蓄えてきた所で、その時その時の大人達の都合次第で簡単に弾かれるし、
使い潰されるし、皆その不安定な現実の中で怯えながらも何とか生きている。
そうやって疲弊して、潰れて、とうとう崩れ去ってしまう者も少なくない。だがあの頃と
同じように、一人くらい砂のように消えていったって、彼らは逐一慈しみを向けてくれる訳
ではない。寧ろ「穴」を作りやがってと忌々しく唾棄されすらするのだから。
不良品となる。
結局は早いか遅いか、それだけの話だったのではないか? 何とか持ちこたえればそれに
越したことはないのかもしれないが、歯車であることとその先にあるものは必ずしも一致し
ない。説明にならない。納得するよりも前に、目の前の窮をしのぐ為に僕らは皆、互いに歯
車であらざるを得ないのだから。
どのステージでも、脱落者はいた。どのステージでも、素地のある者はいた。
一昔は本当にそのまま捨て置いたのだろうか。今でもあまり変わってはいないのかもしれ
ないが。それでも今は零れ落ちた者達を引き揚げようと手を伸ばすが──結局その目的とは
彼らにまた歯車をやって貰う為に他ならない。
回せ、回せ。意味よりも、とにかく成果を出す為に。
崩れ落ちた僕らは一体何なのだろう? 砂のように消えて、彼らの多くには見えなくなっ
て、それでも此処に生きている。
回せ、回せ。その先にあるものよりも、とにかく今を維持して支える為に。
いつだって僕らは閉の中で生きてきた。一度だって全くの一人で在れたことなんてない。
……それでも、その先にあるものを知りたくなる。この忙しない代わり番この果てに何を目
指すのだろう? 過去・現在・未来、その生産ラインの最中で少なからざる不良品達が──
零れ落ちた者が生まれているというのに、先を往って置き去りにして。
回せ、回せ。
僕らは果ての、出口の無い閉の中で、そうしてずっと生きてきた。
(了)




