(3) ティアフロー・アフター
【お題】病気、川、鍵
水が──押し寄せてくる。
気付いた時、私は必死になって一人背後から迫ってくる大水から逃げていた。
見上げるほどの怒涛の洪水。周りを囲む冷たいコンクリートのような壁。
ここは一体何処なのだろう? そんな当然の如く脳裏に過ぎった疑問・思考も、すぐに目
の前に迫る大質量の水という脅威によって吹き飛んでいた。
走る。転びそうになる。前のめりになりながらも、駆ける。
嫌な汗が、頬に背中にびっしょりとまとわり付いていた。
ドゥドゥドゥッと、地の底から響くような重い水音が私の背中に迫ってくる。
逃げるしか、なかった。
私なんかじゃ……届かないから。
(あれって……扉?)
走っている──走らされている私の視界にそれが映ったのは、どれくらい逃げ続けていた
頃だっただろう。
ふと、何もない無機質な壁とばかり思っていたその一角に、突如として大きな石の壁が設
けられているのが見えた。扉というよりは防潮壁を連想させるような、分厚い仕切りだ。
そう認識した次の瞬間には、私はぐんと加速をつけて方向転換していた。
直後、背後で大水が通り過ぎていくのが分かる。
だがそれもすぐに何処かの行き止まりにでもぶつかったのだろう、水の流れは再び唸りを
上げてこちらに向かって来ていた。
「開か、ない……」
当たり前といえば当たり前だったが、防潮壁の扉はそう簡単には開かなかった。
試しに奥へ向けて押してみるが、うんともすんともいわない。
「……?」
だが、代わりに見つけた。
“鍵穴”だった。石扉のちょうど真ん中下辺りに、ちょこんと小さな鍵穴が静かに開いて
いるのに気付いたのだ。
じっと目を凝らしてみたが、向こう側の風景は見えない。妙に暗く思える。
(というか、鍵なんて持って──)
それでももう、私には引き返す選択肢はなかった。
後方から大水が流れ戻って来ている状況もある。
何より私には……“鍵”があった。
何気なくポンポンとスカートのポケットを叩いていると、掌に伝わった硬い感触。怪訝に
思いつつも取り出してみれば、掌に収まったのは見知らぬ鈍色の鍵の束。
「……。使うしかない、か……」
ごくりと。私は背後から迫る大水との距離を肩越しに一瞥し、焦りに震える手で束の中か
ら鍵を取り出した。
一つ、二つ、三つ。中々鍵穴に収まらない。でも、
「やった! 開い──」
『へぇ……。ハヤトってスポーツ推薦なんだ』
『うん。ショウも一緒だよ。僕は陸上で、あいつはサッカー』
『そっか。二人とも昔っから運動得意だったもんね……』
何だろう? 頭に映像が流れ込んでくる。
『はは、流石にショウには負けるけどねぇ……』
そうだ。これは記憶だ。私の……記憶。
冬服だし、この会話だし、これはきっと進路を如何するのって話していた頃の記憶だ。
『でも……』
『? でも、何?』
そうだった。
寒空の下、一緒にいつもの帰り道を行っている中で、彼は言ってたっけ。
『どうせなら今度も、ルリちゃんも含めて三人一緒の方がよかったなぁ……なんて』
「──ッ!?」
砕け散っていた。
私が鍵を差し込んだ瞬間、鍵も扉も一緒に、ガラスみたいに粉々に消えてしまって。
でも、問題なのはそこじゃない。そこじゃない。
何なの? 何で彼との記憶が、此処で?
「……ッ」
だけど、そんな疑問を抱いている余裕は無かった。
急き立てられるように、大水が迫ってくる。まるでそれ自体が一つの意思を持っているよ
うに、私を飲み込もうと迫ってくる。
再び私は駆け出していた。
逃げるしかない。逃げるしか、私にはできない。
──それからも、この石扉は何度も私の前に現れた。
周りはコンクリートで固めたような無機質な高い壁ばかり。だからどう足掻いても、私は
この順繰りに現れるこの扉をくぐって行くしか逃げ場がなかった。
『な、何で……? 何でお前がこの学校の入学式に……』
『ルリちゃん、もっと上の学校に行く予定だったんじゃ……?』
『……だって。三人一緒の方がいいって言ったの、ハヤトだよ? だから、私──』
だけどそれは、その度にあの頃の記憶を鍵を通して“観る”ことでもあった。
『マネージャー? お前が?』
『うん。お医者さんの勉強をしてるんだし、ハヤトやショウのサポートもできるかなって』
あの日、私は志望校のランクをわざと下げて二人が行く事になった学校に進路を変えた。
お母さんには不思議がられたし、お父さんに至っては「あんな、運動で体裁をとっている
だけの不良校に遣れるか!」と怒鳴られもした。
だけど、私は強行した。二人と同じ学校に入った。流石に陸上とサッカー、二つの部を掛
け持ちはできないので、個人的なサポーターとして二人に協力するようになった。
『ルリコ、サンキューな。お前の教えてくれた例の作戦、バッチリだったぜ! 昨日の練習
試合、俺達のストレート勝ちだったよ』
『ルリちゃんありがとう。また記録が伸びたよ。監督も驚いていたなあ』
ハヤトにあんな事を言われたからってのもあるけれど。
私も同じ想いだったんだ。
一緒にいたい。私達は小さい頃からずっと一緒の幼馴染だったから。
『……うん! よ良かったね』
だから。私は、私はこれで良かったんだって、思ってた。
『──ごめん。ルリちゃん』
でも、やっぱりそれは許されなかったんだと思う。
三年経てばまたそれぞれの進路が──今まで以上に──バラバラになることくらい、本当
は分かっていた。だけど、私は逃げてばかりで……もう少しだけど、一緒にいられる方法に
流れてばかりだった。
だけど、人は変わる。少しずつでも変わらなくちゃいけなかったんだと思う。
『僕にはもう……。その、いるんだ。彼女……みたいな人が』
気付いていない訳じゃなかった。知らない訳じゃないかった。
いつかは“昔”と卒業しなくっちゃいけなくて。いつかは離れてしまう、その前にずっと
胸の奥に閉じ込めていたこの想いを伝えなきゃって思っていて。
『……そう、なんだ』
ずっと、自分を騙していた。
あの日三人一緒がいいと言って志望校を変えたのも、二人のマネージャーになると申し出
たのも、全部その本心を隠したかった──だけど諦め切れなかった、ずるずると引き摺って
先送りにしてきた私のキモチ。
ずっと、好きだった。
馬鹿だけどさっぱりしていて憎めないショウ。
だけどそれ以上に、競技に対して黙々と、一人真摯に取り組んでいるハヤトの横顔に私は
何度こっそりと顔を赤らめただろう。
でも……遅過ぎた。全部、後手後手で。私が臆病だったばっかりに中々変われなくて。
『ああ、此処にいたのね』
『あ。先輩……』
彼の相手は、私達の先輩──陸上部の、本当のマネージャーさんだった。
何度か顔を合わせたことがある。凛としていて格好良くて、いつもキビキビと部員さん達
にアドバイスを送っていた女性だった。
『……その娘、誰?』
でも、あの時私はそんなのは人のごく一面でしかない事を思い知らされた。
夕暮れの空き教室。そこに探し当てたように乗り込んで来た先輩。
彼女は──まるで爪を立てて飛び掛かる寸前の鷹のように、はっきりと私に敵意の眼を向
けてそう訊ねていた。
『あ、えっと……。幼馴染のルリちゃんです』
『ああ。例の三人組の片割れね。話はかねがね』
『……』
つかつかと、先輩は怯える私の前へと近付いて来た。
その眼光はやはり鋭い。恋敵を追い払うそれだった。
『……悪いけど、マネージャーごっこは止めてくれないかしら? 実際成果が出てるし、何
よりハヤト君が止めてくるから今まで黙認していたけど……。貴女、邪魔なの』
私はビクンと大きく肩を震わせていた。
あの時の先輩の顔なんて、面と向かって直視できる訳がなかった。
『先輩ッ!』
『貴方は黙ってて。そもそも、この子も貴方が甘やかすからつけ上がったんでしょう?』
ハヤトがいつになく声を荒げていたが、もう先輩を止めるほどの威力は持ち得なかった。
『……いい? 正式なマネージャーは私達なの。これからは部外者は出て行って貰います』
おそらくは、ここを突き止めた時点でそのつもりだったのだろう。
私達の私的なマネージメントのことも、私がここでショウに告白しようとして──断られ
たことも。
ハヤトは二の句を継げずに押し黙っていた。悔しいけど、筋は向こうの方が通っている。
そして先輩はまるで勝ち誇ったように小さく鼻で私を笑ってみせると、今度は彼の方へと
ゆっくり歩いていく。
『じゃあ行きましょうか、ハヤト君』
『……。はい』
どうしようもなかった。哂われたって、咎められたって、仕方ないのかなと思った。
先輩に促されて、ハヤトは私のすぐ隣を通り過ぎていった。
私が、扉の前まで来た彼が言葉を発せずに振り向いたけれど、私達が何かを交わす事すら
先輩は許さなかった。
半ば強引に、ハヤトは先輩に外へ引っ張られて行って。
私は暫くの間、ぽつんと夕暮れの空き教室に取り残されて。
『…………。私の、馬鹿……』
ごめんと最後に小さく呟いたように聞こえた彼の言葉も、その時の私には傷口を抉るもの
であるように思えてしまって。……酷く、惨めだった。
「──ッ!? 鍵が……」
だからきっと、これは罰なのだろう。
逃げ続けた、自分の本音を隠して二人にいい顔をし続けた私への罰なのだろう。
また石扉があった。だけどもう、最後にあの夕暮れの記憶を映して、最後の鍵は私の目の
前で砕けてしまった後だった。
「う、あ……」
ドドドドドッと、大水が迫る。
勿論素手で石壁は開かない。何故か壁を砕いてくれていた鍵もない。
だから私は次の瞬間、とうとう大水に追いつかれて、飲み込まれて──。
「──リ。おい、ルリ!」
「……ぅう?」
先程までのそんな大水が夢だと気付いたのは、そう荒っぽい声で揺さぶりの中で聞き慣れ
た声を知覚したからだった。
……濡れている。これは、私の涙?
目を覚ました私が最初に感じたのは、顔や目、制服の腕にたっぷりと染み付いた自身の涙
の存在だった。
濡れそぼってくしゃくしゃになった布地や肌の触感。
どうやら私は、いつからか泣き疲れて眠ってしまっていたらしい。
「あれ……? ショウ?」
「おう。随分とまぁ、お休みなこって。……魘されてたぞ」
もぞっと、突っ伏していた机から身体を起こし、私はこの様子を身に来てくれたらしいも
う一人の幼馴染──ショウを見上げた。
背後に映る、教室から見える外の風景。
その色彩は……いつの間にか真っ暗になっていた。
「あ、あれ? 暗い」
「当たり前だ。今何時だと思ってる」
言われ慌てて私は腕時計を見た。暗がりの中、緑の補助照明が照らす時刻は……九時半。
「ったく。おばさん達心配してたぞ? 今日は部に顔を見せなかったから、てっきり今日は
家に帰ったのかと思ったら……」
「…………」
「……黙ってるなよ。話、聞いてるんだ。ハヤトから」
「えっ!?」
私は殆ど反射的に、机から転げ落ちるようにして彼から逃げていた。
寝起きで記憶がこんがらがっている。だが、ややあってようやく状況が理解できた。
続きなのだ。私が意を決してハヤトに告白して、振られて、一人で泣き続けて疲れて眠っ
てしまって……。もう恥ずかしいやら申し訳ないやら、何を言っていいのか分からない。
「……その、辛い思いをさせちまったな。メールの一本でもしときゃあよかった」
「う、ううん……。いいの……」
「よかねぇよ。部は違うけど、あいつが野村先輩から言い寄られてた──つーか強引に口説
かれてたのは俺も知らなかった訳じゃなかったから」
ショウはそう訥々と語りながら、静かに視線を夜闇の方へと──私から顔を逸らして背を
向ける体勢に──遣っていた。
ショウは、知っていた。
だが今更彼を責める気にはなれない。益々自分が醜くなるだけだ。
「……ハヤト、凄ぇ落ち込んでた。告白された時に断るべきじゃなかったのかもって。先輩
にもいい加減はっきりと言っておくべきだったんじゃなったのかって」
ショウは、そう彼から受け取ったという電話の内容を代弁してくれた。
あの後、部活に集中できずにハヤトは早々に練習を切り上げたのだそうだ。
一度はここに戻って来ようかと思ったらしいが、ほんの小一時間も経たない内に舞い戻る
のも躊躇われたのだという。何より、ずっと先輩が目を光らせていたのでどのみち無理な事
ではあったようだが。
だからそのまま下校時刻になったので家に帰り、改めて自分の家のインターホンを押した
のだという。
でも当然自分はずっと泣き疲れて眠ったまま。帰っている訳がない。
そして待てど待てど帰らぬ自分が、もしやまだ居るのではと思った彼が、顔を合わせ辛い
自身の代わりにショウに代役を頼んだ──という経緯で。
「全く、あいつは優し過ぎなんだよ。優柔不断っていうか。だから先輩みたいな“肉食系”
に食われちまうんだ。……あ。悪ぃ……」
「う、ううん……大丈夫。平気、だから……」
苦笑いで誤魔化してみたものの、やはりショウにも伝わってはしまっているのだろう。
そうだ。ハヤトは──彼は、優し過ぎる。走ることを除けば、彼はとても他人優先な所が
あるごく普通の、だけど一緒に居て安心できる人で。
「……」
思って、自分を哂いたくなった。殴りたくなった。
振られたのに。振られたのにまだ未練を持っている自分がいる。
いくら先輩に押し切られた形でとはいえ、それも“付き合っている”こと──先約がある
状態には変わりないではないか。
もう、二度と戻れない。
だって自分から“三人一緒”の日々を壊したんだから……。
「……泣くなよ」
また涙が零れていると自覚できたのは、そうたっぷりを間を置いてショウが短く口を開い
て数拍してからだった。
情けない。また自分は、泣いてしまっていた。
関係を壊すのが怖くて逃げて、だけどそのままじゃ満足できずに自分から壊して、でも結
局は思い通りにならずに涙を流して現実から逃げようとしている。……酷く醜い自分。
「別によ、先輩がいるってことが“俺達がお前を嫌いだってことにはならない”だろ?」
「それは……そう、なのかな」
最初、それは幼馴染の絆は消えないよ。そう言いたいのかと思った。慰みかと思った。
だけど、違ったらしい。
私が半分以上疑問系で返したその言葉に、ショウは何故か黙り込んでしまっていた。
いや──私の、ではない。彼自身の言葉に対して。
「な、なあ」
相変わらず顔は逸らされていた。夜闇の中にあって教室の中は暗い。
「……なぁに?」
「こ、こんな時に、こんな事言うのもなんだけどさ。いや、こんな時じゃないとタイミング
がねぇとも言えるんだけど……」
「……?」
だけど、多分きっと……こちらから窺えるショウの顔はほうっと赤くなっていて。
「お……俺も実は、むっ、昔からお前のこと──」
(了)




